邂逅
(一)
繁華街の裏通り、赤く小さなものが視界の中を泳いだ。
赤いワンピースを着た三、四歳の女の子。ワンピースは何度も繰り返し洗った
のだろう、すり切れて色褪せている。
頭は、いかにも鋏で揃えましたというようなオカッパ頭。
食堂の裏に置いてあるポリバケツに、つま先立ちになり小さな身体を突っ込ん
で、一生懸命に何かを探している。
「あった、父ちゃんあったよ!」
嬉しそうに、そう言ってつまみ上げたのは、刻んだキャベツが絡まって糸のよう
にくっついた、齧りかけのエビフライだ。
父ちゃんと呼ばれた男はボサボサの髪で、もみあげから顎まで髭でつながってい
る。中肉中背で歳の頃四十くらいだろうか。薄汚れたジーンズに、首と袖口がだら
しなく広がった霜降りのトレーナーを着て、リヤカーにもたれ掛かり、シケモクを
吸いながら力なく微笑んでいた。
東京中の若者が集まっているのではないか、と嘆息してしまう街。
駅前の巨大なバスターミナルには、多くの人々が帰宅しようとバスを待ってい
た。
その一角から不穏な声が聞こえた。
まだ学生かと思われる男女を、ダボダボのゆるい服を着た数人のやはり若い男女
が取り囲んでいる。
「だからさあ、くれって言ってんじゃないの、貸してって言ってんだよ、ね、わか
る? 財布忘れてきちゃってさあ、バス代なくて困ってるんだよ」
「五人もいるのだから、誰か持っているでしょう」
学生は聞き返す。女は学生の腕につかまり、隠れるように小さくなって、上目遣
いに成り行きを見ている。
「だから五人とも財布忘れたんだって」
「そんな馬鹿な」
「なんだテメエ、俺が嘘言ってるって言うのか、ああ?」
「貸せるような金は持っていない!」
恐怖に青ざめながらも、精一杯の声で言った。
「お〜お〜、女の前だからってカッコつけちゃって。ホテルにしけ込む金はあって
も、俺等みたいなのに貸す金はねえってよ」
ニヤけながら仲間に向かってそう言う。
学生は、それを無視して女の子の手を引っぱりその場を去ろうとしたが、五人は
輪を崩そうとはしなかった。
「メンドクセーからさあ、やっちゃいなよ」
何時の時代にも無くなることのない十代から二十代のギャングと呼ばれる不良グ
ループ。
うち女は二人、その一方の銀色に頭を染めて、濃い化粧をしている女が言う。
正面にいた男が学生の襟につかみ掛かると、いきなり膝蹴りを腹に入れた。
ゲホッと言って学生はひざまずく。その低くなった顔面に再び膝がヒットして、
勢いよく仰向けにひっくり返った。
鼻からは血が吹き出ている。
「タマ潰しちゃいなよ、これからお楽しみだったんだろうけどさ」
銀髪が、さも楽しそうにオチャラケて言う。
すぐそばには、バスを待っている人が大勢いてその光景を見ているのだが、助け
ようとするものは一人としてなかった。
家に帰れば妻がいて子供がいる暖かい家庭があるのだ、変なことにかかわって、
とばっちりを被ろうなどと誰一人考えはしない。蝋の様に無表情な顔で成りゆきを
見つめる目だけがあった。
会社帰りの土屋もその群衆の中の一人だった。
グレイのスーツにブリーフケースを脇に抱え、バスを待っていた。
土屋も何とかしなくては、と思ったが、足は地面に張り付いたように動こうとは
しない。
タマを潰せという女の言葉に、鼻血を出しながらも、仰向けのままバタバタと抵
抗する学生の足を、二人の男がニタニタしながら一本ずつ持つと左右に広げた。膝
蹴りを入れた男は二、三歩後ろへ下がった。助走をつけて股間を蹴るつもりらし
い。
(何とかしないと、学生は一生不具者になってしまう、いや、命を落とすかもし
れない)
土屋が、よし! と腹を決めたその時、一台のリヤカーがどこからともなくやっ
て来て、ふらっと学生と不良の間に分け入った。
「邪魔だ、どけ!」
蹴ろうとしていた男が叫んだが、ダンボールを山積したリヤカーは動こうとはし
ない。
「すまんな、いつもここ通っているもんでね」
あの男だった。土屋にとってあの男を見るのは二度目だ。残飯を漁る親子の映像
は鮮烈に脳裏に焼き付いている。
よれよれのキャップを被り、薄汚れた綿のジャケットを着ているホームレスらし
き男は、そう言うとクシャクシャのタバコを取り出しゆっくり火をつけ、美味そう
に吸い込んだ。
「てめえ!」
いきなりホームレスの鼻めがけて殴りかかった。
ホームレスは少し顔を捻ってパンチを避けると、クロスカウンターのように、右手
に持っていたタバコをギャングの顔に押し付ける。
「ワァッ!」
両手で顔を被いうずくまった。
「この野郎!」
見ていた仲間二人がホームレスを挟むように左右に立つと、戦う構えをとった。
ホームレスは、ゆっくりとリヤカーのハンドルを跨ぐと、左右のどちらを見るで
もなく、正面を向いてボーとした感じで立った。
土屋にはそう見えた。ボーっと立っているように。
右の男がいきなり腹を狙って回し蹴りを放った。
ホームレスは右膝を上げて蹴りをブロックすると、その足を降ろさずに蹴り返し
た。まるで飛燕のような蹴りが男の股間に吸い込まれる。
左の男は、まだ二人の戦いが終わらぬうちに、ホームレスの顔面にパンチを放
つ。蹴り返していたホームレスは、後ろに目が付いているかのように左手でパンチ
を払うと、ダンスのようなステップで足を踏み替え、左足で左の男の股間に、仰け
反りながら曲線を描くような蹴りを入れた。男は股間を押さえて、もんどりうって
倒れた。
「ああっ!」
群衆から悲鳴のような声が漏れた。
タバコを押し付けられた男がナイフを出したのだ。
ホームレスは静かな声で言った。
「本当にいいのか?」
火傷を負った鼻の横を押さえてキョトンとする男に、ホームレスはもう一度言う。
「いいんだな?ナイフを抜くってことは、殺されても文句は言えねえんだぜ」
「うっ、うるせぇ!」
仲間二人がやられたことで、怯んではいるものの、この街の他の不良グループの
目もあるかもしれない。このままでは終われなかった。
「殺してやる」
ナイフを横刃に構えた。
こうするとアバラ骨に当たったとしても滑った刃先は体内に入って内蔵を抉る。
「リャ〜ッ!」
悲鳴のような叫びとともに腹を狙ってナイフを突き出す。しかしそこにホームレ
スの姿はない。
ホームレスは左足を半歩踏み出すと、それを支点にコンパスのように四分の一回
転し、ギャングの側面に付き左手で首を押した。
ナイフを突き出した勢いの方向に押されてつんのめる格好になった男の股間に、
後ろからホームレスの蹴りが飛ぶ。自転車のペダルを逆回転させるような、見た
ことのない蹴りだった。
三人全てをかたづけるのに一分とかかっていない。
三人は、犬のようなうなり声をあげながら、股間を押さえてアスファルトの上を
のたうちまわっていた。
二人の女は筋書きとまったく違う展開に、ただ呆然と突っ立っている。
(映画のような)という表現があるが、そんなものではない。
目に捉えるのが土屋には精一杯だった。あまりにも速すぎる。
「どうだ、タマを蹴られた感想は。痛えもんだろう? ちったあ、やられる者のこと
も考えてみるんだ、俺は優しいから手加減しといてやったぜ、チンポコ使えなくな
ったら人生終わりだからな」
そう言うと、来た時と同じようにようにリヤカーを引きだす。
その時、積んであるダンボールが持ち上がり、オカッパの女の子が顔を出した。
(あの子だ!) 残飯の中からエビフライをつまみ上げた、赤いワンピースの…
ホームレスは公園の方向に向かって去って行く。
パチパチという疎らな拍手が群衆の中から起こったが、尻切れとんぼのように小
さく消えた。
土屋も拍手をしようとして手を止めた。
助けようという気持ちに、一歩踏み出せなかった己の不甲斐なさが手を引っ込め
させた。
うずくまっていた学生が、女の手を引っぱりリヤカーの後を追う。土屋もその後
についた。
何が何だか分からなかったが、足が勝手に動いていた。学生のカップルはホーム
レスに追いついたが、リヤカーは止まろうとしない。
土屋は二十メートルの距離をおいて、学生とホームレスの成り行きを見る。
学生はまだ鼻血を流していて、女がハンカチで拭こうとしているが、リヤカーと
平行して歩きながらなので、うまく拭けないでいた。
「有り難うございました」
カップルは、歩みを止めようとしないホームレスに、追いすがるようにして頭を
下げた。
ホームレスは黙ってリヤカーを引続けている。
「助けていただいて有り難うございました」
「ああ」
面倒くさそうに答える。
「あの、これ」
そう言って男は財布を出すと一万円札を抜き、差し出した。
ホームレスはちらりとそれを見る。
「ぶっとばされてえのか」
「い、いえ、どうお礼をしたら良いのか分からなくて」
「礼なんかいらん!それより女一人くらい守れるようになれ、今回は金目当てだっ
たからお前が鼻血出したくらいですんだが、女目当てなら、今時分、彼女はエライ
ことになっていたぞ」
「はっ、はい。有り難うございました」
男も女も深く頭を下げるとビルの暗闇に消えて行った。
(ようやく私の番だ)土屋はそう思って近づこうとしたが、ふと何を言えばいい
のだと、あらためて考えた。
明確な目的があって追いかけた訳ではない。ただ、あまりにも見事な、稲妻のよ
うな技を見て、自分の中の何かに火をつけられた気がしたのだ。
土屋は柔道の段持ちだった。最後に助けようとも思った。けれども、一人がナイ
フを抜いた時、自分だったら対処出来ただろうかと思うと背筋が寒くなるのだ、
きっと刺されていたに違いないと。
それに、ポリバケツから残飯のエビフライをつまみ上げた女の子のことも心に引
っかかっていた。
整理がつかないままホームレスに近寄ると思い切って声をかけた。
「あのぅ」
「今度はなんだ」
「何かやってらっしゃるのですか?」
「見て分からないか、ダンボールやカンカラを集めてるんだ」
「いえ、そうじゃなくって、武道か何かを……」
「知らん」
リヤカーはグイグイと前進する。
土屋は取り付く島もないままついて行くしかなかった。一体何が知りたいのか自
分自身でも分からないまま。