第16話 父はかく語りき(後編)
ひとまず落ち着こう。むやみやたら歩いても仕方ない。
ここはさっきも通った道なのか?
下草が踏みしめられていないから違うはずだ。
そうだ。自分の足跡を辿って、来た道を戻ろう。かなり時間のロスになるが絶対に最初の場所に戻れる。
判断能力を失っていたにしてはいい事を思いついて、俺は疲れた足を引きずってトボトボと戻り始めた。
その内に雨は霧に代わり、森の中に白い靄が立ち上り始めた。
もはや自分が通って来た足跡も追えない。
神は俺に幾つの試練をお与えになるつもりなのか。
俺はこの森に呼ばれたのか。
それともただ単に迷っただけで、ここで朽ちていく運命なのか。
もう何も考えたくなくて、背をズルズルと木の幹に預けて太い根に腰を下ろす。
どれくらいそうして何も見えない白い霧を眺めていただろう。
グ〜ッと腹が鳴る音がして、俺は自分が空腹な事を思い出した。
どうせここまでの運命なら保存食を全て食べてしまってもいいんじゃないか?と言う考えが頭をよぎるが、少し思案してそれは思い留まった。
干し肉を幾つかバックパックから取り出して、ひとつを口に咥える。
その瞬間、心臓の音がドクンッと一拍、飛んだ。
俺はいつの間にか一対の瞳に見つめられていた。
ヒューゴではない。
霧の中に浮かび上がる、黄金にも見える琥珀色の瞳。
白い霧がゆらゆらと動いて、その巨体を垣間見せる。
銀の毛を光らせる巨大な狼。
口にした干し肉が地面の水たまりにポシャンと落ちていく。
「マーナ……ガルム……」
それは俺の国の国名にもなっている、神の名前だった。
神の名を国につけるなんて曽祖父は何を考えていたんだと思うが、やたら狼が好きなひいじーさんだったらしいな。
その傍らには生涯、二匹の灰色狼がいて、彼が亡くなるとどこへともなく消えてしまったらしい。
神を自称するとはおこがましいと、マーナガルム国が近隣諸国に見下されている原因のひとつにもなっている。
いや、そうじゃない。それはどうでもいいんだ。
マーナガルム神は、元は神の使役する神獣だった。
八番目の月が地上に落ちた時、それを飲み込んで大陸を厄災から救ったと言われている大狼だ。
その功績を認められて神と同列に扱われ、空に昇った。
何を隠そう、その月が落ちた場所と謳われているのがマーナルガン、ウチの国の首都だ。もうそのまんま、月が落ちた土地、って意味だからな。
事の真偽は定かではないが、月がエストナ山脈にめり込んだ結果、山の中腹に台地ができたと言われている。その名残で今でも鉄鉱石が取れるのだとか何とか。
そのマーナガルム神を思わせる、巨大な狼が俺の目の前にいた。
伝承のごとく山のように、と言うほど大きくはないが、普通の狼とは一線を画している。俺より一回りも二回りも大きい。
襲いかかられれば、ひとたまりもないだろう。
だが、気づいた時には驚いたが、俺は不思議と平静になっていた。
琥珀色の瞳に敵意がなかったからかも知れない。
「貴方が俺を呼んだのか?」
語りかけるが、返答はない。
そうだな。もし、ただの大きな狼だったら喋るはずないさと思いながらも、俺はいつしか微笑んでいた。
ずっと小さい頃から、ひいじーさんの武勇伝を聞いて育ったからか、狼は好きなんだ。
俺もいつか飼ってみたいと思っていた。
父に強く叱責されてその夢も諦めてしまったが。
まだ手に持ったままだった干し肉と、地面に落ちたものを見比べる。
手に持っている方を狼へと差し出す。
「食べるか?」
大狼が一定の距離を保って近寄って来ないので、そろーっと腰を浮かせて、あまり濡れていなさそうな木の根の上に干し肉を置く。
「ほら」
食べ物だと教えるために水に落ちた方を手に取ると、口に咥えてガリッと噛み切って見せる。
なーに、旅の間はもっと酷いものを食べた事もある。地面に落ちたくらいじゃなんともないさ。
繊維質の固い干し肉をモグモグと口の中でほぐして咀嚼する。しばらく食べ物を補給されていない胃は、早くもっと寄越せとグーグー鳴り続けていたが、干し肉を食べるのは時間がかかるんだ。
俺が干し肉を食べ切る様子をじっと観察していた大狼は、しばらくしてゆっくりと前に出た。フンフンと干し肉の匂いを嗅ぐと、器用に前足で押さえて噛み千切って口に入れた。
マタギが使う猟犬みたいで可愛いな。
「もっと食べるか?」
俺は調子に乗って、バックパックから残りの干し肉を全部出して、狼の前に置いた。
ついでに最後の携帯食も取り出す。保護紙にしっかりと包んでいたそれは、濡れてもまだ腐ってはいなかった。
乾燥した豆よりも固いそれを、奥歯でガリガリと噛み砕く。
誰も戻らぬと言われる森の中で、狼と干し肉を食べていると言う事実が俺を高揚させていたのだ。
俺の運命がここまでなら、腹いっぱい食べて死にたい。
ここまででないなら、食料がなくなったくらいで死にはしないだろう。
どちらにせよ問題ないと思った。
「なんだ、これも欲しいのか?」
干し肉を食べ終わった狼は、俺が携帯食を食べる姿をジッと見つめていた。
狼に携帯食を食べさせてもいいのかと思うが、まぁ一本くらいならどうってことないだろう。
最後の一つを差し出す。
その時、狼はクワッと犬歯を覗かせて口を開いた。
人ならざる者の声が耳を打つ。
『持てる者の差し出す一枚の肉は卑小だが、持たざる者が差し出す全ては尊い。人族の者よ。お前の心意気に免じて、この森を抜ける許可を与えよう』
大狼が一歩、前に踏み出し、一段高くなっている木の根に前足をかける。
大樹を見上げるように首を伸ばし口を開く。
耳をつんざくような雄たけびがその口から轟いた。
低く、遠く。
木々を震わせて森の奥へと、どこまでも遠吠えが響き渡る。
間近での爆音に鼓膜が破けるかと思って、思わず耳を塞いだ。
最後の一唸りを喉の奥でウォンと鳴らすと、狼が笑ったような気がした。
『そして、旨い飯には礼をせねばならぬな。人族の若者よ、何を望む?』
「え……?」
突然の事態に頭がついていかず、俺はひたすらに戸惑っていた。
人生で超常現象を体験するのはまだ二回目だ。
一回目は、自分自身に起こったわけでもない。ただ傍観者だっただけだ。
俺は神にこんな粗末な食べ物を差し出したのか?
顔から血の気が引いていくのを感じる。
「え、いや……」
なんと答えていいか分からない。
狼は俺の返答を待つように優しく佇んでいた。
差しあたって欲しいものなんかない。せいぜい、この森を抜けてヒューゴと二人、無事に国に辿り着くくらいだ。でも、森を抜ける許可はもう貰った。
そうだ。俺は国に帰りたい。父母や兄弟の顔が浮かぶ。
ここで朽ちてもいいなんて、それは強がりだ。彼らの顔がもう一度見たい。この数年間、何してたんだと父に大目玉を食らってもいい。怒鳴り声が聞きたい。
城に帰れば、父と……そして弟たちが許してくれれば俺は王位を継ぐだろう。いつかは嫁さんでも貰うのかな。美人だといいな。
それから子供ができたりなんかして。
俺に似てやんちゃだったら、反発してこんな風に家出するかも知れない。
その子がここを通りがかったら?
その子が俺ほどに向こう見ずだったら?
「俺の……俺の一族、家族でも子孫でもいい。一族が困った時に一度だけ力を貸してくれ!」
気づけば俺は叫んでいた。なぜそんな事を頼んだのか分からない。
直感めいたものがあった。きっと俺は神々が用意した計画の内にいる。その何か分からない運命の前に旅に出て、ここで大神と出会う必要があったのだ、と。
狼が笑うわけないと思うが、俺の言葉を聞くと大狼はヒラリと身を翻して森に高らかな笑い声を上げた、ように感じた。
『承知!』
耳に聞こえたとも、心の中に直接響いてきたともつかない、その声を今でも覚えている。
いつしか霧は晴れて、俺は森の端にポツンと一人で座っていた。
どこからともなくヒューゴの声が聞こえる。
「おーい、フィル―! フィリベルト―! どこにいるんだ!!」
ずっと探してくれていたのかとも思うが、少しも時間が経っていないようにも感じた。
立ち上がろうとして俺は、まだ左手に最後の携帯食を持っているのに気づいた。
ふっと笑って、俺は味気のないそれをまた口に含んだ。
神は干し肉だけで満足されたってわけか。
「おーい、ヒューゴ、ここだー!」
大声を返してヒューゴと合流する。
俺がいたのはほとんど森の縁で、もうほんの少し踏み出せば元の道に戻れるほどだった。
まだ道半ばだと言うのに保存食を食べ切ってしまった俺にヒューゴが激怒して、食べ物を分けて貰うのに地面に頭までつけて土下座するはめになったが、それはまた別の話。
俺は、その狼との邂逅をヒューゴには話さなかった。
その後に娶った美しきツツェーリアにも、偶然再会した愛しきソフィアにも。
そして、それから十年も経って二人目の息子が流暢に喋り始めた時、俺はやっと理解したのだ。
神はこの子を特別な使命に向かわせるために俺の元に遣わせたのだと。
それが何だか凡人の俺には分からないが、大切に見守るしかない。
せめて、その人生が心安きものになるように。
勉強の教師と剣の教師だけは最高の環境を用意してやろう。
俺の子だから勉強は嫌がるかな。頭は良さそうだから大丈夫かな? うん、大丈夫に違いない!
それからまた数年の時が流れて俺は、自分の息子なのにここまで剣の腕がなくて、ここまで頭のいい化け物じみた子に育つとは思わなかったけどな!




