第21話 奥様とのお茶会
洗濯物が屋根裏の窓から張られた紐に吊るされて気持ちいい風に吹かれている頃、俺は一階でベルタさんと部屋の掃除をしていた。
もちろんこの世界に掃除機なんてあるわけないから、基本的に拭き掃除だ。
もしかしたらクイックルワイパーとか作ったら売れるかもな。
さすがに、もう不用意に前世の知識を広めるつもりはないが。
俺が思ったより使いものになりそうだからか、ベルタさんのご機嫌は良さそうだった。うっすらと微笑みを向けてくれる。
「貴女が手伝ってくれたおかげで仕事の進みが早いですよ。明日からはもう少し任せても良さそうですね」
どんな事でも評価されると嬉しいもんだな。
俺は照れてニヤついた笑いが見えないように俯いた。
まあ、俺は外見こそ八歳だが、中身は曲がりなりにも一人暮らしをしていた成人男性だ。科学が発達していた日本と異世界の違いはあれど、掃除や洗濯などの要領はおおよそ同じだ。
できて当たり前っちゃー、当たり前なんだよな。
そこへ階上から涼やかな鈴の音がリンリンと響いて、ベルタさんは仕事の手を止めた。
「奥様がお目覚めになったようです。紹介しますので、一緒にいらっしゃい」
ベルタさんに連れられて二階に移動する。直前まで掃除をしていたので、服の皺や汚れているところがないか手早くチェックする。
南西に向いた日当たりのいい部屋の扉をベルタさんは無造作に開けた。
「おはようございます、奥様」
声をかけてから、次々に窓のカーテンを開けていく。重厚なカーテンに阻まれて薄暗かった部屋の中が一気に明るくなった。
俺はと言えば、部屋の入り口で固まっていた。
春の日差しに包まれた部屋のベッドの上で、この家の女主人がしどけない姿を見せていたからだ。
ブルネットの髪は柔らかなウェーブを描いて胸元まで落ちている。薄いガウンはぴったりと身体のラインを浮かび上がらせ、ほとんど着ている意味がない。
張りのある胸元に、引き締まった腰つき、優雅な脚線美。太ってはいないのだが、痩せていると言うわけでもない、絶妙なバランスの肉感的な身体つきだ。
この人、やばいわ。
俺はあまり彼女の方を見ないように部屋の中央を凝視していた。
あの針金のように細いベーヤー氏の奥さんが、こんな官能的な美女だとは思わなかった。とてもじゃないが成人前の子供がいるようには見えない。
奥さんの名前はユリアさんだと聞いている。その彼女は、ベッドの上に肘をついて軽く上半身だけ起こした格好で、けだるげな欠伸を漏らした。
「今日はちょっと早かったかしら、ベルタ?」
「いいえ。もうそろそろ正午かと思われます。起きられても差し支えないお時間ですよ」
「あら、そう」
奥様はベルタさんの手を借りて、物憂げにベッドの端に腰かけた。両腕を軽く上げて伸びをすると、ガウンの袖がスルリと肩の方へ落ちて、細く白い二の腕を覗かせた。
ゆったりとした動作ひとつひとつが、誘っているかのようになまめかしい。
この部屋には(外見上は)女しかいないはずなのに。
ベルタさんは、部屋の入り口でもじもじしている俺を見て片眉を上げた。何をやっているのと言わんばかりに手招きされる。
「奥様。この子が今日から家に入りました、侍女見習いのルルです」
「あぁ、ハンノが言っていた子ね。よろしくね、ルルさん」
たっぷりとしたブルネットをかき上げて、ユリアさんはとろりとした笑顔を見せた。
髪の色や、アーモンドを思わせる明るい茶色の瞳はミリアに良く似ていたが、雰囲気はまったく別方向に振り切った母娘だ。
前世を通してこんな女の人と知り合いになった事がないので、俺はとっくにキャパオーバーだ。
「よ、よろしくお願いします」
もごもごと口の中で挨拶を返すのが精一杯だった。
どうしたのこの子、と言わんばかりにベルタさんは不審気な視線を俺の方へ向けたが、何もフォローはしてくれなかった。
「ご朝食はいかがなさいますか?」
「朝から重たいものは食べたくないわ。何か果物でも切ってとクロードに伝えて頂戴」
「かしこまりました」
ベルタさんは軽く一礼して部屋を出て行こうとする。その際、まだぼーっと突っ立っていた俺の袖を引いて、一緒に退出させる。
顔とか赤くなってないよな。大丈夫だよな。
思わず頬を押さえる。
「奥様は寝起きはあぁですが、悪い方ではないので……」
俺の態度を違う方に受け取ったようで、ベルタさんがとりなしてくる。
別に自堕落だとか思ったわけじゃないんです。確かに型破りな人ではあるけどさ。
階下に戻ってクロードが用意した朝食を受け取ると、ベルタさんがトレイに乗せてまた二階に戻る。
なかなか忙しいな。
使用人の生活ってこんな感じなのか。
南側の通りに面した窓から日差しが降り注ぐ場所にテーブルセッティングして、皿を並べる。
小さい瓜と言うか、メロンみたいな果物を半月に切ったものを、ユリアさんは手で持って口に運んだ。ただし、ミリアがしていた手掴みとはちょっと違う。あくまで優雅でテーブルマナーに則った食べ方だ。
最後はきちんとフィンガーボールで手を洗っている。
全て食べ終わる前にベルタさんがユリアさんに声をかける。
「奥様、食後のお茶はいかがなさいますか?」
「カルダモ産の新しいものが届いていたでしょう? それにしましょう。最初だからミルクはなしで、ストレートで。茶葉の香りを楽しみたいわ」
ユリアさんが送ってくる流し目に、どうにもドギマギしてしまう。俺はただベルタさんの腰巾着として、横に立っているだけなのに。
また一階でお湯や茶器を受け取って、ベルタさんがゆったりとした手つきでお茶を淹れ始めた。
茶器の中でじっくり蒸らされたお茶は、カップに注がれると部屋の中にほわっといい匂いを広がらせた。
お茶の匂いを嗅ぐなんて、一体、いつぶりだろう。
俺にいつもお茶を淹れてくれるのはローズかエレナだった。俺は彼女たちと最後に何を話したのだろう。母様ははっきりと覚えているのに、二人に関してはよく思い出せない。
多分、早く朝ご飯を食べてしまって下さいとか、今日のご予定はどうされるんですか?とか、そんな他愛もないことだ。
あの日も、ただの日常の延長線上だと思っていたから。
香りは俺に怒涛のような思い出を蘇らせた。
駄目だ。感情をコントロールできているつもりで、一年以上も経つのに、まだ不意打ちで悲しみに捉われる。
俯いて動かなくなってしまった俺に眉を寄せて、ベルタさんが少しきつめに促す。
「どうしたのですか。早く奥様にお茶をお出ししなさい」
「は、はい……」
ベルタさんは多分、いい上司だ。初めて働く女の子に、きちんと仕事を割り振って任せてくれる。
今だって自分が持って行った方が早いのに、俺にさせる事で奥様への印象を良くしようとしてくれているのだろう。
だが、俺がトレイを持つ手はカタカタと震え、カップの中でさざ波を立てたお茶が外へと溢れてしまった。
「あ……」
そのまま出してもいいものか、入れ直した方がいいのか分からず固まる俺へと、優しい掌が伸びてくる。
「どうなさったの? そんなに緊張しなくていいのよ。お茶を零したくらいで、わたくしは怒りませんよ」
クスクスっと小さな笑い声を立てて、ユリアさんが俺の手をそっと引いて側へと近寄らせる。
「ち、違うんです。これは……」
「これは?」
ウフッとあでやかな微笑みを漏らして、ユリアさんは小首を傾げながら俺と視線を合わせた。
妖艶な微笑みとは裏腹に、ユリアさんの薄い茶色の瞳は優しさに満ちていた。
思わず、言うつもりのなかった胸の内の思いを吐露してしまう。
「母の淹れてくれたお茶を思い出してしまって……」
乳母のローズはまさしくこの世界での、俺の第二の母だった。
俺たちはいつも一緒にいた。
あの日、俺が黙って屋敷を抜け出すまでは。
「まぁ」
ユリアさんの細く美麗な眉が下がって、表情が悲痛そうに曇る。
彼女は俺がトレイを持つ手を両手で包み込んだ。
「お母様はいつ頃、お亡くなりになったのだったかしら?」
「一年半くらい前です」
俺の言葉を聞いてユリアさんは切なそうに、ゆるゆると首を振った。長いブルネットの髪がハラリと肩から胸元へ落ちていく。
「わたくしなら、こんなに小さな子を置いて行くなんて耐えられないわ」
蠱惑的な美女のような見かけをしているが、この人も母親だった。
目に涙を浮かべて俺を見つめている。
後ろでも、グズッと鼻を啜る音が聞こえた。
ユリアさんは不意に俺から手を離して背筋を立てると、良い事を思いついたと言わんばかりの明るい顔になって、掌をパンと打ち合わせた。
「どうかしら、ルルさん。わたくしと一緒にお茶を飲まない?」
「えっ、あの……それは……」
主人と使用人が共にテーブルを囲む事など、まずあり得ない。俺もローズと一緒にご飯なんて食べた事がないし、誰を誘っても固辞されるばかりだった。
アレクたちですら、試食だけでも主の前で食べる姿を見せると言うのに抵抗があったみたいだ。
俺も断るべきなんだろう。
しかしユリアさんは自分の思いつきを実行に移す力を持っていた。
ベルタさんに目配せすると、すぐに彼女はユリアさんの向かいに椅子を用意した。
「ねっ、いいでしょう。どうせお茶なんて飲み切れないほど入れるんですもの」
確かに、さっきベルタさんがお茶を入れるのに使っていた大きめ目のポットは、二、三杯分くらいはありそうだった。
ユリアさんのキラキラした瞳と、ベルタさんの押しに負けて椅子に座ってしまう。
ベルタさんはもう一客、ティーセットを持ってくるとお茶を注いで、俺の前にコトンと置いた。
こんな事をして、ほんとに怒られないかなと尻込みしながら、おずおずとカップに手を伸ばす。
向かいに見える柔らかな微笑みが俺の行動を後押ししてくれた。
カップの持ち手に指をかけ、もう片方の手を縁に添えて、ゆっくりとお茶を口に含む。
芳醇な紅茶の香りが口の中から鼻へと抜けていく。
それは……平和の香りだった。
そうか。嗜好品って言うのは、治安が良くないと成立しないんだなと思う。
直接、食生活とは関係ないお茶畑を栽培しても買い取って貰えるというある程度の保証。街から街へ品物を届ける流通網。そして購入者にも生活の余裕が必要だ。
それらは全て、争いの少ない場所でしか成り立たない。
皆と離れて一年半。生きていくのもやっとの俺には自力では手に入れられないものだった。
色んな人の手を借りてだけど、俺はやっと人の文化圏まで戻ってくる事ができたんだ。
カップの中で揺れる琥珀色の紅茶を見下ろして、そんな感慨に浸る。
ユリアさんは机に肘をつくと、組み合わせた指の上に顔を乗せてずっと俺の事をニコニコと眺めていた。
「人はね、歩く時と食べる時に育ちが表れるんですって。貴女が気に入ったわ、ルルさん。貴女になら、わたくしの可愛いミリーを任せても何の問題もありませんわ」
ふふ。ユリアさん、ベーヤー氏とほとんど同じ事を言っているな。案外、似た者夫婦なのかも知れないな。
「はい、奥様。ミリア様にも心を込めて御仕えさせていただきます」
深々と頭を下げる俺に女性陣は目を細めて微笑んで、穏やかで優しい時間が過ぎて行った。