第9話 文字を覚えよう!
冬に向かいつつある晴れた秋の午後。ローズが中庭に出て、そこで遊んでいる子供たちを呼ぶ。
「フリッツ、エーミール!」
ローズの子供の上二人だ。菜園のある中庭で、奴らはチャンバラごっことかして遊んでいるようだった。
ローズは俺の母ソフィアより数歳年上なだけだが、こう見えて三人の子持ちだ。
一番年少で俺の乳兄弟でもあるケルビンはベビーベッドで留守番している。年齢に比べてかなり甘ったれた奴だが、こいつはまだいい。まだ舌ったらずの幼児だからな。
だけど上の二人はいじめっ子だから嫌いだ。
「なんの用、母さん?」
遊びを中断されて面白くなさそうに、やんちゃな二人が近づいて来る。
兄のフリッツが六歳、その下のエーミールが四歳くらいだと思う。多分。
こっちの世界の子供って発育が良くて、いわゆる西欧人体型なので、俺が受ける印象よりけっこう年下だったりする。
母親の腕の中に俺がいたせいで彼らは更に不機嫌になった。ジロリと俺を睨みつけてくる。
こう言う、いかにもわんぱくそうな子供は苦手だ。
「何じゃないでしょう。遊んでばかりいないで、ちゃんと勉強なさい」
「えー!」
奴らはすぐさま不満の声を上げたが、ローズに一睨みされてモゴモゴと黙り込んだ。
顎で促され、俺たちの後を渋々とついて来る。
ローズから見えてないと思って、二人は俺に向かって口を指で引っ張ったり、顰めっ面を見せたりしてきた。
ふん。俺は小学生や幼稚園児に煽られて気分を害するほど落ちぶれちゃいない。
やれやれと首を振って奴らを無視する。
ローズは乳母なので、身体の弱い母に代わって俺の世話をするために雇われているのだった。と言うか身体が弱くなくても高貴な身分の人は子育てをしないものらしい。
王子を育てるのだからローズもそこそこいい家の出で、旦那さんも小さいながら領地を持つ貴族だ。俺とは遠縁に当たるらしい。
この数年は俺の世話をする為、領地には帰らず家族ともども王宮の一角に住んでいる。ローズが俺の乳母に抜擢されたおかげで旦那さんは出世したとかしないとか。
まぁ、そんな特典でもなければ他人の子供の世話なんてできないだろう。
家庭教師がつくまでの間、文字を教えてくれたのもローズだ。
「さ、今日はこの本の内容を写しなさい」
部屋に戻るとローズは俺を抱っこしたまま椅子に座り、フリッツとエーミールに書き取りの勉強をさせ始めた。
二人はムスッと膨れっ面になるが、ローズには逆らわない。
このくらいの年齢の子でも誰が強者か分かるのだ。
木枠で囲われたちっちゃい黒板みたいな板に、石の棒のようなものでカリカリと文字を書き始める。
ちなみにこの世界の言葉はやっぱり英語ではなかった。マーナガルム周辺で広く使われているカルム語という言語だ。
話し言葉と違って文字は赤ん坊の俺では知りえない知識だったので、俺はまだ読み書きができない。
どんな文字なんだろうと興味津々で、俺はローズの膝の上で立ち上がろうとした。
机の上を覗こうと背伸びした途端に、重たい頭のせいでカクンとバランスを崩して床に落っこちそうになる。
「でっ、殿下っ!?」
間一髪でローズが抱き留めてくれて、事なきを得た。危うくこんな年齢で二度目の人生が終わるところだったぜ。
それでも俺が目を光らせて机の上を窺おうとするものだから、ローズは深々とため息をついた。
「文字を書かれたいんですか?」
ローズの問いに、うんうん!と元気良く頷く。
もう幼児向けのおもちゃで遊んでいるだけの生活には飽き飽きだ。それくらいなら文字でもなんでも覚えるさ。
俺が言い出したら聞かないのはそろそろローズも分かってきたようだ。
フリッツとエーミールが使っている黒板のようなものをもう一つ、用意してくれる。
小さな黒板のようだと思ったそれは、石盤と言うらしかった。チョークっぽい石筆で、ローズがアルファベットに似てなくもない文字を書いて教えてくれる。
「これがaで、次がbで……」
俺も手に石筆を握らせて貰うと、お手本を見ながら隣に文字を書こうとした。
しかし、小さくてプニプニッとした手は俺の意図通りに動いてくれず、ミミズののたくったような奇妙な図形を描いただけだった。
特にaの丸い部分が難しい。
俺の書いた文字を横目で見て、フリッツとエーミールがプッと吹き出すように口に手を当てる。ニヤニヤと細めた目が厭味ったらしい。
こーいーつーらーは、まったく。
俺が母親であるローズを独り占めしているのを快く思っておらず、事あるごとにこうしてからかおうとしてくるのだ。
俺の方が身分が上だと分かってんのかと言いそうになるが、所詮、奴らは子供だ。俺が王子然としていないので、きっと分かっていないんだろう。
別に権力を行使するつもりもないしな。
子供に張り合うのもバカらしい。
大体、ローズはただの仕事。俺だって精神年齢はともかく、まだ大人がいないと何もできない赤ん坊だからローズに助けて貰っているだけだよ。
お前らのお母さんを取ったりしないから安心しろ。
俺は奴らを無視して、さっきより石筆を強く握りしめて文字を書こうとした。
けれど今度は力を入れすぎたのか、先がポキッと折れてしまう。力の加減が難しいな。
「あらあら。殿下にはまだお早かったでしょうか」
俺がなんでも器用にこなす万能人間でなかった事に安心したのか、普段より優し気な表情でローズが微笑んでくる。
そんな風に言われると、俄然、やる気が出てきちゃうよね。
睡眠と食事以外にやる事がなくかなりの時間を持て余していた俺は、起きている時間を文字の練習にあてる事にした。
布団の中でこっそりとシーツを指でなぞったり、空中に文字を書いたりして覚えた文字を復習する。
そうこうしている内に、言葉の意味が分かっているものだからコツを掴んだら読み書きもどんどん上達していった。
おおよそ二歳になる頃までには、日本語と同じように自国の言葉として文字を書いたり本を読んだりも普通にできるようになった。
「まさかルーカス様……もう文章まで?」
「どーう、ローズ? 間違ってるところがないか確認してよ!」
本の内容を書き写した石盤を持って、得意満面、ローズに見せに行く。ドヤ顔の俺と違ってローズの表情は浮かなかった。
俺があっと言う間に何歳も年上の子たちを追い抜かして文章まで書けるようになったからだろう。
ローズはまたもや奇妙な顔をしてジッと俺を見つめた。
「ローズ? どうかした?」
「申し訳ございません、大丈夫です。完璧ですよ、ルーカス様」
けれどローズは表情を持ち直すと、手放しで俺を褒めてくれた。
褒められて嬉しくないはずがなく、俺は鼻高々に、それからもせっせと語学習得に励んだ。
上の子二人と言えば、俺に優位でなくなってつまらなくなったのだろう。その内に部屋に来なくなった。
そして、もはやローズは俺が自分の手には負えないと判断したのだろう。
二歳に満たない内に俺には家庭教師がつけられ、英才教育が施される事となった。
この家庭教師のじーさんが、また曲者でぶっ飛んでいた。