満月の夜に6
──:精霊のセリフです
大きな月が天空を支配していた。
欠けることのないその姿は福々とし、夜空の雲を明るく照らしだしている。
大きな月は仄かに金色に染まっていた。夜空に反射される月光は幾重にも重なるかのようで、まるで蓮の花のような残像を残していた。
一年で最も大きな月──間違いなく、今宵は特別な夜である。
移り変わる時間の象徴と、翻弄される運命の紡ぎ手、慈悲深くも冷酷な愛の満ちる器。
形を変えることを生業とする細工師達にとっての、至上であり最上の日。彼らにとって、一年で最も大切な日である。
そのため、細工師の町に滞在するほとんどの人々が祭りに繰り出していた──のだが。
町中の騒ぎを背にして、ルシオと龍王は精霊の祠を訪ねていた。誰にも見つからないように、こっそりとである。
ルシオの腕はその腕に、布にぐるぐる巻きにされた像をしっかりと持っていた。
布は緩衝材の代わりだったのだが、はたして無事だろうか、と目的地についたルシオはそろそろと開封してゆく。
ちょっとしたひっかかりにも気を使って、丁寧にゆっくりと時間をかけて布をはいでいった。
出てきたのは、どこにも破損などない、美しい龍王の像。
作り上げられたそのままの姿の龍王が、そこにはいた。
全身が月のように光を放っている、なんとも美しく眩い龍王だった。
ほっとルシオの口から安堵の声が出る。
ルシオは、そのまま手頃な岩の上に腰を下ろす。龍王もまた、手頃な場所に身を休めて、二人でその時を待った。
月が身にまとう黄金の光を強め、今までになく強い光を放っていた。
数刻前に比べて何倍も明るく、月は内から膨れ上がるかのような膨脹を見せる。その黄金からは、眩い光が放たれて、夜空を青く照らし出している。
星の輝きまでも飲み込んだ月は、正しく夜空の支配者として君臨していた。
大地にもその支配は及んでいた。まるで昼日中と錯覚するほどに、木々が草が、石ころまでもがはっきりとその影をなしていた。
足下に迫る木々の影と肌にあたる風の冷たさに、そろそろ刻限かとルシオが顔をあげたその時。
月から、白く輝く一欠片が落ちた。
それは、まるで月から伸ばされた、手のようなものだった。それは、祝福であり、不実な月の愛そのものだった。
月の抱く愛が、形を伴ってルシオの前に降りて来たのだった。
──おまえさま
大地にあっても、なお輝く月の欠片がルシオに囁いた。
「うん。久しぶりだね、月の大姫様」
──なんと情けなや。つれないことをおっしゃる。名をお呼びくだされや
人の形をした──といっても、輝く月の形を見るのは難しい。恐らく人であろう形をしている、の、かもしれないと想像するばかりだ。
月はそっと腕を伸ばす。目の前で揺れる光に、そっとルシオは手を添えて、その手に口を寄せた。
「愛する人。月の大姫──俺のイアンナ」
──ああ、うれしや。おまえさま
月の大姫と呼ばれるイアンナは精霊である。
人が精霊に触れることはできない。
同じように、精霊もまた人に触れることはできない。
それでもイアンナはルシオに手を伸ばし、ルシオもイアンナを抱き締めるように腕を伸ばした。
「イアンナ。会えて嬉しいよ」
──おまえさま。吾も同じ気持ちぞ
『こほん。こほん!』
再会を喜ぶ二人の間を、龍王の野暮な咳ばらいがさえぎった。
──おや? これは龍王の
「兄上……」
ようやく気がついたというイアンナと、どうして話しかけるんだというルシオの視線を跳ね返して、龍王は体を浮かせた。
『月のお方にはご機嫌うるわしく。こうしてお会いできたこと嬉しく思います』
──龍王の君にもお懐かしく。はて……朗君の兄上ならば、吾も兄様とお呼びするべきかの
『ありがたいお言葉。母も喜びましょう』
「どうして母上なんですか」
──ホホホ。朗君は、たいそうお母上がお好きのようじゃから
「イアンナまでそういう事を言う」
──ご案じめされるな。おまえさまのお気持ちはよう知っておりますゆえ
『こほん!』
二人の世界に入りかけたルシオとイアンナを、再びの咳ばらいが引きとめる。
『わたしは、そうそうに去った方が月のお方にはよろしいようで。それでは、どうぞ刻限まで、お二人仲睦まじく。
末の。あまり月のお方に無礼のないように。それでは、失礼いたします』
深くイアンナに頭を下げて、龍王は夜の闇へと姿を消していった。
──龍王の君にしては、話のわかる御仁じゃ。おまえさまの影響かえ?
「どうかな? 龍王の里を出てから……そうだね、二ノ兄上とは五年くらい一緒だけど」
──存じておりますとも。吾には物質体はありませぬが、目はございます。風の方々も、おまえさまのお話をしてくれますゆえ
そっとイアンナがルシオに身を寄せた。手を伸ばしてルシオの顔を優しく撫でる。
──吾がよこした石が、なにやら人の世界に災いをもたらしたとか。おまえさま……吾はいらぬことをしたかえ?
「まさか! 石のひとつやふたつが、どれだけの問題になるというんだ。全然、まったく、なんの問題もないよ」
くすくすと笑ったルシオは、そっとイアンナの手を外す。外された手をさびしそうに胸に抱くイアンナに、ルシオは龍王の像を手渡した。
その像は、ルシオが作った"物質"でありながら、イアンナが触れられる"像"だった。
──おまえさま。これは?
「表面はイアンナにもらった月光石。他の部分は聖銀でできてるんだ。聖銀なら、精霊もさわれるって風の精霊達がいっていたから……さわってるよね?」
──ああ、おまえさま。確かに
ルシオから手渡された像を、イアンナは胸に抱いた。
月の欠片の輝きに、龍王の輝きが同化してゆく。二つの輝きは重なり合い、お互いを高めあうかのように色味を増していた。真っ白に輝いていたイアンナに色が交じる。まばゆいばかりの輝きの端が、赤く青くほのかに色づいているのだ。
そうと気がついて、ぽっとイアンナ自身も赤く色づいた。
──おまえさまったら、もう……これほどおまえさまに夢中にさせて、いかようになさいますのか
「ずっと傍にはいられないから。その──それを俺だと思って、持っていて欲しいな」
──では、かわりに
そっと龍王を撫でたイアンナは、龍王が手に持つ龍玉──月光石の玉──を取り外してルシオに渡した。
──おまえさまの龍玉は、吾と自負しております。ならば、吾の象徴であるこの龍玉は、おまえさまのもとにあるべきではありませんか
「イアンナ……」
手の中にもどってきた龍玉を、複雑な顔でルシオは受け取った。
「もちろん、俺の龍玉は君だよ、イアンナ。でも……龍玉がメインの作品だったんだけどな?」
──ほほほほ。石などにどれほどの価値がありましょうか。人の定めた価値など無価値でございます。この龍はおまえさまの願望であり、写し身であると言うではありませんか
「な、なぜそれを! あ、か、風の精霊達が?」
うおおお、とルシオが悶えた。体をひねり、落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。
それをほほえましく、イアンナは見つめていた。
その腕にしっかりと龍をかかえたまま。
地上に落ちてきた月の欠片は、一晩を愛しい相手と過ごしたのだ。
○ ○ ○
「あ、おはようございます」
「ご主人様、朝帰りでございますか?」
「えー、お師匠が? まあ、個人の自由っていうか、ダメとは言いませんけど。小さい子供がいるんだから、気にした方がいいと思いますよ。常識として」
翌朝──部屋に帰るところを見咎められたルシオは、少女三人に見つかり、ちょっと嫌みを言われたのだった。
おまえさま&朗君は、だんなさまとか夫とかダーリン的な意味です