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LN東條戦記第1部「不戦宰相」  作者: 異不丸
第2章 臣民われら皆共に
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満映理事長

昭和16年10月19日日曜日、世田谷区用賀、東條自邸。


東條首相が用賀の自宅に着いたのは、朝7時前だった。朝食は陸相官邸で済まして来た。秘書官の赤松大佐に乗って来た車を与え、東京駅に向かわせる。熱海から松井大将が着くので迎えに行かせたのだ。松井大将が来る前にやることがある。赤松がいない方がいいときもあった。


応接室に入り、待っていた二人と用談を始める。

二人とは明治神宮で別れて以来の2日ぶりだ。登戸に落ち着いたと言う。うまくいっているらしい。木曜には連絡会議が始まり、しばらくは官邸を離れられない。

当面の予定を確かめていると、ノックの音がした。

二人は訝しげにドアを見るが、東條には心当たりがあった。

「入っていいぞ」と東條が声をかけると、ドアが小開きになった。しばらくすると、恰幅のいい中年の男が入ってきた。

背広を着た男を見て、東條が言った。「久し振りだな、甘粕。毎度、ご苦労だ」

「久し振りです、東條さん。お客さんですか?」と、男が答える。


入って来た男は甘粕正彦、満映、満州映画協会の理事長。

最近まで満州国協和会の総務部長であり、満州では軍・政・民の実力者である。甘粕は陸士24期の陸軍将校であったが、憲兵中尉で予備役になった。その士官学校の教官が東條であり、また怪我をした時に憲兵への転科を勧めたのも東條であった。東條との仲は、旧く、長く、そして深い。

用賀の東條宅を勝手に出入りするのは、甘粕ぐらいである。


「山口さん親子だ。志郎さんと、ご子息の吾朗君。旧い友人の甘粕正彦だ」

東條の紹介で、三人が互いに挨拶する。甘粕は息子の吾朗に関心を持った。

「君には全部話しておきたくてね」と、東條は話を始めた。

「聞きましょう」と、甘粕が深く座り直す。

「一昨日、宮城で大命を拝した。それで神霊のご加護をお願いしたいと明治神宮に参拝した」

「東條さんが神頼みですか。これは驚いた」甘粕は真顔で言う。

「なにしろ、驚くばかりで何も考えが浮かばなかったのだよ」

「それで、ご利益はありましたか?」

「あったどころではない、霊験あらたか。わたしはあちら、未来に行ったのだよ」


東條はさらりと言うが、甘粕も「それは、それは」と応じて、驚いた様子はない。

これには山口親子の方が驚いた。が、黙って話に付き合う。

「いろいろなものを見聞きした。危ない目にもあった。それで、この人たちは、わたしの戦友であり命の恩人なのだ」

「なるほど」

「もう十分に見聞したかなと思っていたら、戻っていた。元の明治神宮にね」

「そうでしたか」

甘粕は承知しようとした。

理解できるとか納得できるとか、そういう問題ではない。東條は、器用な人ではない。東條が正直な話と言うなら、そうに違いない。甘粕には東條を疑う気はまったくない。

しかし、山口親子については別である。見た目で、親子は30近くは離れている。東條の戦歴は承知しているが、両人、まして三人が共に戦うような戦場は思いつかない。命の恩人とは、東條が苦境の時であろうが、まったく思い当たらなかった。これは確認しなければならない。

「命の恩人は息子さんの吾朗君だ。戦友は父親の志郎さん。ま、吾朗君も戦友と言えば戦友だがね」


甘粕は、息子と呼ばれた山口吾朗を見る。「ちょっといいかな?」と立ち上がる。

吾朗は、父親を見る。志郎が頷くと、東條に目を向ける。東條も頷く。

「どうぞ」吾朗も立ちあがると、甘粕に正面をさらした。

二人が向き合い、甘粕は気を溜めようとする。

刹那。

吾朗は、ポケットから何かを取り出した。甘粕の目には、その手が見えなかった。

だが、それよりその手の中のものが、甘粕にとって衝撃だった。

林檎。

甘粕の目に突き出されたのは、赤いりんごだった。

甘粕は息をのむ。

「まいった」しばらくして息をつくと、甘粕が言った。

「仕掛けたのは僕だ。君は正しい。他にもあるのか?」

山口吾朗は、平然と答えた。「望遠鏡があります、6倍の」

甘粕は理解した。納得は出来ないが、事実は認めざるを得ない。

東條を見て言った。「甘粕は、承知しました」

東條は、重々しく頷いた。

父親の山口志郎が大きく息を吐いた。吾朗は、甘粕にお辞儀をした。


もう8時になろうとしていた。二人は電車で帰ると言う。護衛の憲兵も表で待っているらしい。

東條は見送りに出る。ここは用賀1丁目の用賀神社の通りで、玉川線の用賀駅までは歩いて10分ほどである。玉川線を終点の溝ノ口で降り、南武蔵線に乗り換えれば、登戸駅は3つ目だ。

二人を門まで見送ると、東條は振り返って自宅を見た。自宅に戻るのは久しぶりだ。実は、用賀の自宅はまだ完成していない、建築中である。土地だけは2年前に確保した。しかし、時局柄、木材などの手配がなかなかつかず、材料が集まった分だけ、ぼちぼちと作事させていた。今は8割ほどだ。来年の春には完成するだろう。庭を廻り、散歩ついでに隣家の鈴木氏に挨拶に行った。紅茶をご馳走になり、上機嫌で帰って来た。


応接室に戻ると、甘粕が煙草を吸っていた。

話は終わっていて、最後に東條は告げていた。帝国は滅び、満州国も滅ぶ、と。

「・・・あちらでの話ですが」

「ああ」

「東條さんは帝国と共に滅びるのですよね」

「そうだ」

「そして、甘粕は満州と共に滅ぶと」

「そうだ」

東條は、沈黙する甘粕の前に座り煙草を咥える。甘粕が、黙ったままライターを差し出す。

舶来ものだな、と東條は思う。ライターはカチンといい音がして閉じた。

「そろそろ松井大将と重光外相がみえる。どうする?」

「出直しましょう。しばらく考えていたい」

「夕方に戻って来い。星野さんも鮎川さんも一緒だ」

「それはいい、楽しみだ。では失礼します」

しばらくの間、東條は甘粕の出て行ったドアを見つめていた。



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