出航
昭和16年11月4日火曜日、横浜港
志郎は吾朗の見送りに、横浜港に来ていた。昨日はホテルニューグランドに泊まった。
朝食を済ました志郎は、ホテルを出て、向かいの山下公園へと歩く。噴水の前で志郎は立ち止まる。志郎にとって、山下公園は思い出の場所なのだ。
(たまには、のんびりするさ)
ベンチを探し、ゆっくりと時を過ごす。
じゃぁぁぁ~んん。
午後、けたたましくどらが鳴る。出港の合図である。わっとテープが投げられる。久しぶりの光景だ。
じゃんじゃん、じゃああぁぁぁん。
浅間丸の1等特別室の客は、駐米特命全権の吉田大使である。どういうわけか機嫌がよくない。1等船室付きの船員全員が気を揉んでいた。夕食のテーブルでは船長が吉田大使の隣に着くはずだ。このままでは、まずい。そんな中で、船員の一人が見送りの人垣をじっと見ている。
パーサーがデッキチェアに近寄り、声をかける。
「吉田大使閣下、東條閣下がお見送りです」
「おお、そうか」
葉巻をくゆらした吉田は、腰かけたまま指された方を見る。
「閣下、流石ですね。首相自らお見送りとは」
「君、手を振りたまえ」
「はっ」
言いつけられて、パーサーは大きく手を振った。
見送る東條は、しかし、吉田を見ていない。
背広を着た商社員を捜していた。それらしい者は、1等デッキに十数名、2等デッキにも数十名いる。
(どっちだろう?)
見当をつけたあたりに、ゆっくりと手を振る。
(どっちもだろうなあ)
東條は、吾朗と陸軍特務機関員に向けて手を振っているのだった。
その隣で、豊田海相が小さく帽振りをする。東條の車に便乗して来た。
ぼっ、ぼ~っ。浅間丸は大きく汽笛を鳴らす。
1回、2回と身震いした浅間丸は、徐々に加速しながら出航していく。
「万歳、万~歳!」
動員された婦人会と生徒らが唱和する。
(まだまだ)東條は思った。
ぼっ~、ぼ~っ。
同じ頃、陸軍柏飛行場
天羽外務次官と木村陸軍次官は、日支交渉特命全権の松井大将を見送っていた。
「閣下、ひっそりと申し訳ないことです」
「横浜では賑々しくやっているというのに」
「かまわん。それより」と、松井は目の前の飛行機を見つめる。
百式司令部偵察機。東條が用意した陸軍新鋭の双発偵察機である。
「いかにも速そうじゃないか」
「はっ、540キロは出ます。一式や海軍の零式より速いです」と、第17飛行団の佐藤少将が説明する。
「そうか。それはいい」
ばりばりと、先発の護衛、一式戦闘機が飛び立つ。
「行くか」
松井の乗った新司偵は、東航する浅間丸とは反対に、西の空へ飛ぶ。
LN東條戦記第1部 完
第1部完です。
第2部は「変革宰相」の予定です。




