組閣
昭和16年10月17日金曜日夜 陸相官邸
東條陸相は日本間に戻った。稲田内閣総務課長が、星野氏と連絡がついて歌舞伎座から直行中と告げる。東條は頷くと、木戸内府に電話を入れた。さらに、星野が来るまでにと、あちこち心当たりに電話を入れる。海軍省へも電話を入れ、及川海相に豊田副武大将で了承すると伝えた。向こうは驚いたようだったが、東條にとっては、事情を知った及川がだめならば、あとは誰でも同じである。さらに、海軍から逓信相を出してくれるように頼んで、ひとまず電話を切った。
赤松秘書官から兵務局長の田中少将が来たというので、東條は大臣室に出て行った。続けて、人事局長の冨永少将にも会う。真田や佐藤からは海軍や参本ほかの動静を聞かねばならないし、新聞記者のテントにも顔を出してやらねばならない。とにかく、東條も、赤松と稲田も、入れ替わり立ち代り、組閣本部の日本間を出たり入ったりと忙しい。
前企画院総裁の星野が陸相官邸に到着したのは午後9時で、東條は日本間にいた。部屋に入った途端に「書記官長を頼むよ」と言うと、星野は立ったまま「やりましょう」と答えて、座についた。東條は「ありがとう」とだけ言ったが、内心はほっとしていた。組閣本部は四人になった。
星野は「どこまで来ました?」と東條に問う。「まだまだ」と東條は、それまでの経過を手短に話す。稲田課長が、あちこちに書き込みのある罫紙を見せる。それを見ながら「大蔵大臣なら、青木さんは外地のはずです。賀屋さんの方が早い」と、星野は東條に告げる。いよいよ、組閣作業は大車輪で廻りだした。まだ、星野には新内閣の使命も所信も話をしていない。ただ、星野と東條とは満州時代からの長い付き合いである。星野は満州国の総務長官も務めている。日本でいうなら副総理だ。やって欲しいことは、過不足なくやってくれる。一方で、電話だけで承諾する者もいれば、直接話を聞きたいという者もいた。東條が面談に出ることになる。
まずは、現蔵相の賀屋。
賀屋は、星野とは共に東京帝大の出身で、大蔵省に同期入省である。
「日米交渉は続行するのか?」
「それが新内閣の使命だ」
「え、えーっ」賀屋は仰け反った。
「開戦内閣ではないのですね」
「避戦内閣のつもりだ。連絡会議には蔵相にも出てもらう」
「ほう」
「存分に発言してもらっていい」
「ほうほう」
「ただ、避戦となれば、むしろ蔵相の仕事は大変になるが」
「ほうほうほう」
「あと、一段落したら税制を、ごにょごにょ・・・」
「これは愉快だ。承知した。こちらこそお願いする。内閣に残らせてもらう」
次に、逓信相と鉄道相の兼務を予定している寺島海軍中将が来た。
東條が「海相は豊田さんでいい」と答えると、それだけで帰っていった。
それから、外務省から重光前駐英大使が来た。
重光葵は外務次官、駐ソ大使、駐英大使を歴任し、7月に米国経由で帰国していた。
東條の内閣にとっては、最も重要な日米交渉の担当となる。陸軍では英米派と思われている。
重光はまず「なぜわたしなのか?」と聞いてきた。
「はじめ東郷さんを考えたが、むしろ陸軍に遠い方と思い直し重光さんを選んだ」
「すると、本気で日米交渉を妥結させるのですね」
「無論。それがわたしの使命だ」
「え、えーっ」重光は仰け反った。
「重光さんの御進講の内容は理解している」
「隘路である支那駐兵問題について、陸軍の譲歩は期待できますか?」
「無論。陸軍は抑えるし、わたしは外相を支持する」
「承知しました、それなら存分に外交ができます。ほかにありますか?」
「これはまだ内密にしてほしいのだが、ごにょごにょ・・・」
「・・・それだけお考えなら満足です。いい仕事をやって見せましょう」
重光は一回だけ満面の笑顔を見せた後、真顔に戻って出て行った。
次は、商工相の藤原銀次郎だった。
「岸君じゃないのか」
「開戦内閣ではないのです。和平となれば、統制経済では限界じゃありませんか?」
「え、えーっ」藤原も仰け反った。足が浮くほどに仰け反った。
「・・・」
「もう引退して、育英に余生を過ごそうとしているのだが」
「聞いています。しかし、帝国の産業を見ますと、藤原さんにでてもらいたい」
「官僚の岸君でなければ、民間の鮎川君ではだめなのか」
「いずれは鮎川さんにも。が、まずは産業界の長老を大臣にほしいのです」
「東條大将、いや総理。それはいったい」
「藤原さんには帝国産業の再生を研究していただきたい」
「ほうほう」
「いざ日米妥結が成れば、その時は商工大臣の出番です」
「ほっ、ほーっ。遣り甲斐がありますな」
「ぜひともやり遂げていただきたい。それから、ごにょごにょ」
「ふむふむ。承知した。やらせてもらいますぞ」
東條が見送ると、藤原はホールでビールを一杯引っかけてから帰って行った。
最後は、難物の中野正剛だった。
挙国一致を示すには、議会つまり大政翼賛会からの入閣は目玉である。
翼賛政治会総務の中野はうってつけだ。しかし、毀誉褒貶の激しい人物。
星野は必死に説得し、なんとか東條との面談まで持ってきた。東條が2歳上である。
案の定、中野との面談は紆余曲折だった。
「実は・・・」
「そうだ!難局日本の宰相は、絶対強くなければならぬ!」
「いきなり・・・」
「幸い、帝国には尊い皇室がおられるので、多少は無能な宰相でも務まる!」
「たしかに、わたしは不出来ですが・・・」
「何を言うか。前進あるのみ。前進、前進、退却は許されん!」
「それはさすがに・・・」
「だから、軍人は嫌いだあ。作戦だぁ、軍略だぁ、軍機だぁと押し通す!」
「すみませんね。しかし、支那撤兵とはまだ公言できません」
「なに、そうなのか!」
「中野さんにお願いしたいのは、そのあとです」
「ふん、議会か!」
「はい。お上の許しがあれば、大政翼賛会を解散させ、政党に戻したい」
「なんと!そんなことを公言してはいけない」
「中野さんの出番はその時だと思っています」
「・・・」
「・・・」
「わたしもブンヤの出身だが、とかく政界はうるさい」
「・・・」
「わかった。いや、わかりました」
「・・・」
「はい、翼賛政治会総務として、国務大臣をお受けします」
「ありがとう」
中野はホールに立ち寄り、酔っ払ったブンヤの頭を一発殴ると、すっきりした顔で帰っていった。
夜半を過ぎる頃、組閣は終わった。陸軍省の車で、稲田と星野は帰宅していった。
それから、赤松は東條に宣告された。
「明日から総理大臣秘書官だ」
「え、えーっ」