軍務局長
昭和16年11月1日土曜日、首相公邸、午後。
大命降下の後の2週間は、東條の部下たちも働きづめだった。
新国策も定まり、陸軍改革の途が開けたところで、東條は今日の土曜日は半ドンとした。
秘書官らにもその旨を継げた後、首相公邸の日本屋で軍務局長の武藤中将を待つ。
夕方、武藤は言われたとおり、私服に着替えて来訪した。
「ま、やれ」
東條が燗瓶を持って、酌をする。
「いただきます」
差し向かいで飲むのは、初めてだろうか。
「武藤、長い間ご苦労だったな」
「はっ」
「貴公も中将になった。支那撤兵が本格化すれば、縮軍だ」
「はい。ご奉公です。覚悟はすでに」
「儂は連隊長はやったが、ついに師団長をやらずに大将になった」
「え?」
「連隊長をやれなかった貴公には、ちゃんと師団長をやってもらいたい」
「では、予備役ではないのですか」
「何を言うか。次の次、その次を考えろ」
「はあ」
「その前に満洲へ出張だ。出張中に尾崎の件の始末を考えておけ」
「はっ」
尾崎秀実は、例のらむぜい諜報団の日本人首領だ。武藤章は、尾崎と近い。陸軍で唯一、政治に接する軍務局勤めでは、自ずと閣僚・政治家やその周辺と近くなるのは避けられない。
「ま、それはいい。確かめておきたいことがある」
「はい」
「今回の始まりが腑に落ちん。ああ、日米交渉だ」
「あの神父たちが、余計でした」
「満洲国承認、さらに日支の仲介。話がうますぎた」
「帝国の懸案をすべて引き受けるとあっては、無視できません」
「そこだ。なぜ、その神父やらが、民間から来たと思う?」
「民間人なら、米国政府公式ではない。白を切れる」
「うむ、飲むか」
「はい。米国は、帝国を研究し尽くしております」
「国民感情に至るまでだ。悔しいことだが」
「要するに、米国は日支に介入したい。主導権をもちたい」
「いつからだろう」
「神父らの来日時期から類推すると、銭永銘工作のあたり」
「昨年の夏か。ふぅむ」
「米内内閣の退陣が7月の中です」
「近衛公が枢相を降りたのは、その1ヶ月ほどまえ」
「米国の対日禁輸が始まった頃だな」
「米国の一連の動きは、1つの筋書きに基づいているかと」
「政略があるのだな。軍官民一体か」
「米国の国家戦略と呼ぶべきでしょう」
「帝国ではそうはいかない。陸軍だけをとってみても」
武藤は驚いた。東條から愚痴じみたことを聞くとは。
「しかし、首相は新国策をまとめられた!」
「だが、日米交渉はこれからだ」
「あれだけの譲歩をしようというのです」
「米国の戦略が、日米妥結でないとすればどうだ?」
「なんと。帝国の屈服が目的だと言われますか」
「実際に開戦寸前まで来たのだ。2度目がないとは言えまい」
「日米開戦は帝国の崩壊と同義です」
「わかっておる。が、向こうにすれば、対日完全勝利だ」
弱気の虫か?武藤は酌をすると、自分もぐいと呷る。
「米国にも国体があります。米国国民の賛同、それを代表する議会」
「なんのことだ?」
「ル大統領と政府。それに対しての、米議会と米国民!」
「なるほど。さすがだな」
「国と国、軍と軍だけでもありません」
「総力戦か」
「正面交渉だけに限りません。浸透や迂回はどうです?」
「考えてみれば、帝国は横槍を喰らったのだな」
「さようです。奇襲となりました」
「うんうん。飲め」
「はい。大臣もどうぞ」
東條は煙草に火を点けると、マッチを回す。武藤も点ける。
「米国との対決はまだ続くと、わしは思う」
「日米妥結の後もですか」
「ああ。帝国の完全屈服までは続く」
「それで本土防衛の強化を」
「三国同盟よりは役に立つだろう」
「日米同盟はどうでしょうか?」
「可能だろう、いつかは」
「敵の存在ですね?」
「そうだ」
「対独開戦は、大儀がない」
「米国も帝国の助力を必要としまい」
「となれば、ソ連ですね」
「米国はソ連を支援している、今はな」
「ソ連が日米共通の敵となる日」
「長いぞ。独逸降伏のさらにあとになる」
「それまで、帝国が持ちますか」
「だから日米妥結だろう」
「しかし、首相は楽観はしておられない」
「だから長いと言っておる」
武藤は、しばらく天井を見ていた。
「首相、どうぞ」
「お。思いついたか」
「早く敵が現れればよいかと」
「そういうことだな」
「はい」
「では、飲もう。それから」
「はい」
「次の次は決まったぞ」
「え?」




