三長官会議
昭和16年10月17日金曜日夜 陸相官邸
東條陸相と赤松秘書官が陸相官邸に戻った時、6時を過ぎていた。
官邸のホールでは報道部と新聞記者の連中が気勢を上げている。早い話が祝宴だ。
コップを差し出される中、東條と赤松は、まっすぐに大臣室に入った。
大臣室の執務机についた東條は、煙草に火を点ける。
一服、二服吸うと、赤松に陸軍省幹部の招集を命じた。
陸軍次官木村中将をはじめ、局長、課長らが入室する。
東條陸相が口をひらいた。「組閣の大命を拝した・・・」
木村次官が一歩前に出て、代表して祝辞を言おうとする。
しかし、東條は手を上げて制した。
「9月6日の国策決議を白紙に戻して再検討するように、との思し召しだ」
「「「「なんと!」」」」
「大御心は、開戦に不満であらせられる。身命を賭して、これを実現しなければ」
「「「「それは!」」」」
「ならん!」東條が起立した。
「大御心は絶対である」
一同が黙し、顔を伏せ床を見つめた。
陸軍省は昨日まで、いや今も有頂天であった。
支那撤兵を交渉材料にしてまで対米宥和を乞うとした近衛内閣を瓦解させた。
それは支那駐兵を譲らないとした陸軍の勝利である。
さらに、陛下のお叱りをうけると思った東條陸相に組閣の大命が降りた。
どうみても陸軍は支持されている、支那事変を完遂せよとの仰せである、と。
しかし、東條はそれは違うというのだ。
陸大を出て、陸軍官衙の頂点を極めようとしている面々にとっては思いもよらぬ。
「どうだ、佐藤」東條は、軍務課長の佐藤賢了少将を指名した。
佐藤は熱血漢で、強硬な日米開戦派である。
「大臣、御諚であれば従うだけです。佐藤は不忠ではありません!」
「うむ、そうだ。不忠をする者は軍人ではない」
「赤松、内閣総務課長を呼んでくれ。わしはこれより日本間で組閣に入る」
「宮城では及川海相も国策白紙還元を拝した。木戸内府からは陸相兼任もと言われた」
「次官は、総長と総監に連絡してくれ。三長官会議を開く」
「武藤は石井と国策再検討の項目案をつくってくれ。国民向け声明案もいる」
「真田と佐藤は、参謀本部と海軍の反応を集めてくれ」
「「「「はっ」」」」
全員が、退室する。
「田中、ちょっと残ってくれ」東條は、田中兵務局長を呼び止めた。
参謀総長杉山大将と教育総監山田大将は、応接室で出されたお茶をすすっていた。
時間が時間だから、二人とも羽織に袴だ。だいたい、今日は神嘗祭の祭日である。
「「ず、ずーっ」」
「「ほっこり~ぃ」」
そこへ入ってきた東條陸相を見て、杉山と山田の二人は目をむいた。東條は軍服で入ってきたのである。
「大臣、組閣に忙しいであろうに。着替えてきたのか」
「はい。建制ではないとはいえ、三長官会議は陸軍の重要会議です」
相変わらずの律儀な返答に、二人はげんなりした。
「「ま、いいか」」
東條は、お召しから大命降下、木戸内府との会談を一通り報告した。
杉山からは、昨日の重臣会議を聴取した報告があった。
それを聞いて東條は木戸内府の言動を得心した。
「話はわかった。首相が陸相を兼ねるのは、この時局からやむを得ないと思う」
「そのとおり。また同じく、現役に列っしたまま首相に就任することもだ」
「早速、ありがたく存じます」
「それから、特例ついでに、大将に進級とする」
「いや、それは。ありがたいですが、定年にはまだです」
「あと2ヶ月じゃないか。受けろ」
「そうなれば、同期の篠塚中将も大将に進級であらねば」
また東條の生真面目が始まったと、二人は慌てた。
「それはいかん。海軍との申し合せもある。中将から大将の5年は守らねばならん」
「一国の総理大臣だ。篠塚とは一緒に出来ん」
「それに海軍も海相には大将を出してくるだろう」
「そう。受けなさい。海軍も総理が中将ではなにかと不都合であろう」
「これは元帥宮の思し召しだ。受けるしかあるまい」
「そういうことであれば、お受けしましょう」
「「ほっ」」
二人は、せっかく大将、総理と持ち上げたのに、東條が喜色満面とならないのが不満ではあった。
「さて、三長官会議の議事は終わったと思う、が」
「この機会に、陸相兼総理の所信を聞きたいと思う」
「いや、もちろん組閣中で多忙の折であるし」
「所信も固まってはおらぬは承知の上であるが」
「お伝えします。東條は内務大臣も兼任しようと考えております」
「「それは!」」
「いざ和となった場合は、軍部のみならず、市中・国民の動揺も大きいかと存じます」
「ううむ」
陸軍部隊は参謀本部から各軍の命令で動く。しかし、軍事警察である憲兵は陸軍大臣の直轄であり、憲兵隊は陸軍大臣だけから命令を受ける。内務大臣は、全国の警察を総攬する。陸相と内相の兼任は、軍事警察と司法警察、それに特別高等警察を一手に握るというもので、発動すれば戒厳司令官なみの権限である。
「そこまでの騒乱があるのか」
「わかりませぬ」
「「えと。日比谷焼き討ちと226の同時発生とか・・・」」
東條がじろりと睨む。
「「あわわ。いやいや」」
「えーっと、それは総理の職掌だ」
「それより総理の考えだ、白紙還元とは?」
「白紙還元とは文字通り、国策の再検討を一からやるつもりです」
「それは良いが、海軍が勝てぬと言わぬ限りは、開戦は必至」
「そう。米英蘭いずれにせよ、海を渡っての戦。海軍が主、陸軍は従」
「それですが、海軍が降りても、日米交渉は残ります」
「米国との妥結は外務省の仕事ですが、仏印・支那からの撤兵が必須かと」
「「それはならぬ!!」」
「大御心は非戦であり、東條は承詔必謹です。なんとしてでも日米妥結であれば、いずれ撤兵に触れるしかありません」
「「それはならぬ!!」」
「すでに昨年来、支那戦線の縮小は陸軍の既定の方針であります。先月も再確認しました。今年度は2割削減、来年度は3割ですから、2年で半数となりますな」
それは事実だった。
「「うん」」二人は、ただ頷くしかない。
「今月の初めに、支那派遣軍の後宮総参謀長が上京し、米国の要求を容れるように意見具申がありました。それは畑総司令官の命。お二人ともご存知である」
それも事実だ。
「「うんうん」」二人は頷く。
「前後して、関東軍の梅津司令官の命で、武井参謀が出張してきた。南京政府の影佐顧問や藤江西部軍司令官からも同様の進言を受けている。ご存知ですな」
「「うんうんうん」」二人は頷く。
「これを要するに、陸軍は省部・前線ともに支那撤兵、日米妥協に同意です」
杉山と山田は目を合わせた。どうもおかしな流れである。
「組閣が終われば、すぐにも大本営政府連絡会議を開催します」
二人はようやく予想した話に戻ったと、ほっとした。
「うむ。なるべく早く頼む」
「わかりました。では、組閣がありますのでこれで失礼します。ご足労ありがとうございました」
東條は一礼すると、そそくさと出て行った。
残された二人は、また顔を見合わせて言った。
「「東條は、なにをしようとしている?」」