明治神宮
昭和16年10月17日金曜日夕方 明治神宮
陸軍大臣秘書官の赤松貞夫は、陸軍大臣の東條中将に従って参拝していた。
まさか、東條が神頼みをしているとは知る由もない。
赤松は、一昨日の10月15日に陸軍大佐となった。
陸軍大臣の東條とは長い付き合いだ。因縁とも言える。
中尉の時は、歩兵第一連隊長の東條大佐の副官となり、陸大受験の指導を受けた。
東條少将が陸軍次官になると、秘書官に望まれ、あやうく欧州留学を棒に振るところだった。
やっとの欧州留学から戻ると、今度は東條陸軍大臣の秘書官である。
「やれやれ、いつになったらこの人と離れられるのか。もう大佐だと言うのに」
参拝をすますと、神官に誘われて社務所に向かう東條と別れて、赤松は車に戻った。
適当な頃合で社務所前の車寄せへ回そうと思ったが、例によって陸相は自分で駐車場に戻ると言う。
赤松にとっては慣れっこである。車に入って待つ。
なかなか東條は戻ってこない。
「大佐と言えば連隊長だが、東條さんに付いている限りは無理だな。あ~あ」
ぼやきながら、赤松は時計を見る。
「え」
赤松の時計は、ぐるぐると異常な速度で回っている。
「なんだ?」
おいっ、と声を出した。が、運転兵は返事をしない。
車の窓から外を見ると、本殿の方が青白く輝いている。
悪寒を感じて、赤松は、鞄の中の拳銃を確かめると、腕時計を見直した。
今度は、針が止まっている。眩暈を覚えた。体中の体毛が総毛立つ。
脈拍も上がったようで、さらに体重が重く感じられた。地震か?とも赤松は思う。
その時赤松は感じた。体ではなく心の奥に、重い重い衝撃を感じた。
ど~ん。
三人の男が立っている。
一人が言う。「着きましたね」
「ああ。これからだ」一人が答える。
もう一人は腰を落して、あたりを見回している。
「どれくらい持ち込めた?」
「やはり、背負った分だけみたい。ダンボール箱は着いてない」
「前と同じか、仕方がない。なんとかするさ。さて」
「まずは、君ら二人の住まいだ。今晩から忙しい。憲兵を呼んで頼むとする」
「早速、憲兵ですか」そう返事する声は、しかし弾んでいる。
「ま、今このときは憲兵が一番だ。直に呼べるからな」
「「・・・」」
「好きに使っていい。なに、死ねと言えば死ぬよ、大丈夫だ」
「流石ですね、東條さん。口調も変わっていますよ」
「ま、君たちの言葉で言えば、ホームだからね。では失敬するよ」
「東條さん、御武運を」
「ありがとう」
赤松が本殿を見ていると、青白かった屋根に赤みが戻りつつあるようだ。
腕時計を見ると、針はもとのようにゆっくりと刻んでいる。
外を見ると、陽炎のような3つの柱が近づいてくる。
陽炎は、人の形に集束しつつある。
しゅしゅしゅ、しゅ~っ。
赤松秘書官は、書類鞄の中の拳銃を握り締めた。なむさん。
「赤松、どうした」唐突な声は、東條陸相のものだった。
「はあ」毒気を抜かれた赤松は返事をした。汗でびっしょりなのに気がついた。
戻ってきた東條は、東郷神社に行くように赤松に告げた。
そのあとは靖国神社へ行くのだ、と言う。
「どうされたのです」
「組閣の大命を拝した。恐懼で何も奉答できなかった。お上から漸時の猶予をいただいた」
「ただただ恐れ入り、この上は神霊のご加護をと思い、参拝することにした」
「そうでしたか」赤松も驚いて、続ける言葉がなかった。
すると、
「神慮というものはあるものだな」そう、東條陸相は呟いた。
「は?」赤松は、しばらく陸相の顔を見つめていた。