外務大臣
昭和16年10月19日日曜日、正午、世田谷区用賀、東條自邸。
日中交渉と支那撤兵について方針がまとまると、東條は昼食にする。
弁当は知り合いの店から調理人を呼んで作らせた。昼食がすむと、松井は帰っていった。
この後は、首相と外相と二人で、三国同盟離脱に関して話すことになっている。
「独蘇開戦の今となれば三国同盟は失敗だ。だから離脱もやむを得ん」
「が、国外の評判はどうなるか」
「支那撤兵もありますし、三等国並みに落ちるのは間違いない」
「国際信義とすれば、独伊の敗色が見える前の方が、まあ、少しはいいでしょう」
「三等国でも、敗戦国になるよりはましだよ」
「ずいぶんと、ましです」
(撤兵とか敗戦とか、よくも帝国軍人の口から出るものだな)
「外相はどう思う。その、在欧大使館からは」
「蘇連の後に米英がつきました。米国が軍需物資を送れば、独伊の勝利は困難」
「武官府からも同様だ。一時はモスクワを抜いたとしても、南京の例もある」
「恐るべきは、米国の物資援助ですな」
「ああ、独蘇戦といっても、物資の面では独米戦なのだな」
「米蘇の支援路を断ち切らない限り、独伊の勝利はない。支那事変の帝国と同じかと」
「独逸は、大西洋の支援路はなんとか遮断できるだろう。英国封鎖の継続でよい」
「問題は、北太平洋、インド洋からの支援路」
「その支援路を遮断できるのは、なんと帝国なのだ」
「となれば、米国の要求は同盟の空文化ではなく、正式離脱です」
「米国の圧力で離脱声明するのと、独米開戦時に参戦義務を違反するのとでは?」
「独蘇開戦は事前通知がありませんでした。今ならまだ理由にできるかと」
「ふむ。やはり、わしにはこの説明は出来ん。すまんが外相」
「わかりました。連絡会議で方向が出れば、わたしから上奏しましょう」
「すまん」
「いえ。外交は外相の所掌です」
コーヒーが出てきて、二人はタバコに火をつける。
「総理、この間話された在米大使のことですが」
「ああ。野村さんは弱気に見えるのでね」
野村大使からは帰国伺い、つまり進退伺いが出ていた。
「若杉公使が、米国から疎まれていましてね。公使と大使もうまくいってません」
「過ぎたことはかまいません。吉田さんでお願いしたいですが」
「吉田さんですか。あの人は、その、癖が強いですよ」重光は困惑する。
吉田茂は、重光の9歳年上で、外務省入省も5年早い。煙たい先輩であった。
「その癖を米国に向けるように、お願いできませんかな」東條の眼が光る。
はっとして、重光は考える。松井大将は陸士9期、東條の8期上だ。年も6歳上。
その先輩に、東條は敵地である重慶に行けと命令したのだ。
「わかりました。外務大臣として、そうさせましょう」
「ありがたい。それで、吉田さんの赴任にあたっては、さらにお願いがあります」
「なんでしょう」
「今、緊急重大は日米ですが、これは対外各国にも関わることです。軍機です」
「ここまでもずいぶん重要な問題を協議してきたと思いますが」
「参謀本部第18班をご存知ですか?」
あっと、重光は思った。暗号か!
「私の口から直截なことは言えませんが、察してください」
「どうぞ」
「陸軍官衙の某部署で、米国本国から在日大使館宛の暗号電報の一部を解読した」
「はい」
「情報局の外務省発電報と比較研究の結果、大いに有意なる相関性が判読された」
「・・・」
「以上です」
重光は汗をかいていた。外務省の長としては反論すべきだ。
が、陸軍暗号班が米軍暗号電報を解読しているという事実は、秘匿されければならない。事は、外務省の面子などの次元では済まない。まさに、国家の枢機である。
幸いに、ここまでで東條の本心と真面目は得心できていた。今は、それに頼るしかない。
「首相、いや陸相、全面的にご指導願いたい」重光は、頭を下げた。
「大臣にも省内の立場がおありだ。事実の検証は、これはきっとやります」
「ありがたい」
「日米交渉は待ったなし。ここは、2つ3つではなく、4つ5つの代替案を準備すべきでしょう」
「なるほど」
「ご理解いただけて幸いです」
「聞かせてください」
日米交渉の方針をあらかた打ち合わせると、重光は帰っていった。
外務省に戻るという。さきほど電話を借りた相手は外務次官の天羽であろう。暗号の件は衝撃だったと見える。いずれにせよ、これから外務大臣が内閣総理と歩調を合わせるのは間違いない。
だいたいは目論見どおりに運んでいる。外交問題、それも外務省の官衙・官僚を使っての遂行など、門外漢に出来るわけがない。要は、結果が出るように制御すればいいのだ。前提となる情報と欲しい結果を示して、後は外務省に任せるしかない。いや、任せてもいいように管理する。
そこまで考えると、東條は応接室の内鍵を掛け、窓を確認しカーテンを閉めた。一冊の洋書を開くと、中の用箋を確認した。うむ、この通りだ。山口親子の父親、志郎が作成した脚本である。そして、吾朗が心理戦術に則って追記した台詞が書かれていた。
よくもまあ、と東條は呟く。
部屋の時計を見ると午後5時である。すぐに日没だ。カツに言って、座敷の準備をしてもらわないと。その前に風呂か。東條にとっても、星野や甘粕と飲むのは楽しみである。東條は台所に向かって、どんどんと歩いていった。




