第漆話 after school
「引ったくりー!!」
放課後、帰宅途中の出来事だった。
夏也は軽音部、風花は調理部の活動日なのだそうで、那由他は千恵と2人で街を――スーパーで買い物をしたいと言う千恵に付き合い、人通りの多い駅近くの道を歩いていたその時、後方から女性の金切り声が聞こえて。
すぐ隣を駆け抜けて行こうとする、全身黒っぽい服を着た20代から30代くらいの中肉中背の男に、那由他の前を歩いていた千恵が即座に反応した。
「こぉら、この不届き者がぁ! いい歳した大の男がお婆ちゃんの荷物盗むな!」
押していた自転車をほっぽり出して、男の腕を掴み豪快に投げ飛ばしたかと思えば、即座にその手を捻り上げ、関節技をかけて地面にねじ伏せ、叫んだ。
「だれかー、そこの角の交番からサブちゃ……お巡りさん呼んで来てー」
そして、その数分後。
「よう、ちーちゃん。今年はこれで32人目だな。……で、今日のこいつは?」
「引ったくり。このお婆ちゃんからバッグ盗ったの」
「だ、そうだ。おい磯野、奥でこいつの聴取取っとけ!」
「……千恵。一応聞くが、32人目、とは?」
「ちーちゃんがとっ捕まえた小悪党どもののべ人数さ。この辺、強盗やら殺人やらみたいな凶悪犯罪なんかは滅多に無いんだが、引ったくりやらコソ泥やら万引きやらの軽犯罪は絶えなくてねー」
「そういう不心得者の現行犯逮捕件数は、正直な所、正規の警察官より彼女の方が成績優秀でね。よく街中で大立ち回りなんかするから、この辺じゃあ結構有名なんですよ」
豪快な笑いが印象的な、50歳代に見える男性警察官の部下であるらしい、磯野と呼ばれた彼が完全に世間話のノリで喋りながら、お茶を淹れてくれる。
「で、ちーちゃん。この連れの優男は?」
お茶を音を立てて啜りながら、目でこちらを指して尋ねられ、
「え、……ああ、イトコ……で」
しどろもどろに答えた。
「イトコ? あんま似てねぇな。何だ、折角ちーちゃんにも春が来たのかと思ったんだけどな」
「……この辺りの悪ガキ連中は皆、彼女の武勇伝に怖れをなしてますからね」
「橘んとこのクソガキは今日は?」
橘、とは夏也の名字だ。
「部活ですよ、軽音部。何とかいうバンドの某ちゃんだかに影響されたっぽくて」
千恵の答えを聞いた彼はあちゃー、と頭を掻いた。
「あーあー、父親に似たのかぇ。全然ダメじゃねーか……」
そこでようやく、千恵が彼を
「ああ、えっと、この人はこの交番勤務のお巡りさんでね、普段から色々お世話になってて。名前が船越三郎だから、私はサブちゃんって呼んでるけど。で、夏也のお父さんも警察官なんだ。サブちゃんは、その元指導員なの」
と紹介してくれる。
「おう。まあ、俺は今も昔もしがない交番勤務。けどヤツは今じゃ所轄の刑事課長だがな」
と、陽気な調子で会話を続けていた“サブちゃん”がふと表情を改め、
「親父とおふくろさんは……まだ相変わらずかい?」
目を伏せながら尋ねた。
「うん……まだ家に居ると色々思い出しちゃうからって……」
「そうか……。こっちもコツコツ聞き込みやなんかしちゃぁいるんだが、……すまねぇな、まだコレっていう手掛かりが見つからんでなぁ」
引ったくり犯を引き連れ、奥へ引っ込む磯野氏の背を見送りながら、サブちゃんは湯呑に残った茶を一気に干し、
「橘のとこの親爺さんも心配しとったぞ。近頃のちーちゃんはちと根を詰め過ぎだってな。今日もこれから行くのかい?」
壁にかかった時計で時間を確かめる。
「ううん、今日はスーパーに用事があって」
「ああ、今日は木曜、か。駅前のスーパーの特売日だったな、そういえば。ああ、もしかしなくてもタイムセールが目当てだったか……婆ちゃんも?」
「そう! タマゴとトイレットペーパー!!」
「うーん、相変わらず現役ぴっちぴちの女子高生とは思えぬ台詞だなあ」
「もー、船越さんも、ですよ。そのセリフ、一体どこの助平オヤジですか?」
呆れたサブちゃんのセリフに被せて、奥の部屋から磯野氏が更に呆れた声を出す。
「でも、それなら千恵ちゃん、急ぐんじゃないかい? 今日はもういいから、行きなさい」
磯野氏に促され、千恵が席を立つ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。あ、お婆ちゃんも気をつけて。手提げバックだと狙われやすいからね、カバンはリュックの方がお勧めだよ。両手も空くから安全だし」
被害者の初老の女性に一言かけ、
「行こう?」
会話の最中に殆ど口を挟む余地もなく立ち尽くしていた那由他の手を引いて交番の外に出る。
「じゃあな、ちーちゃん。ああ、そうだ。今度、橘のにたまには呑みに付き合えって伝えといてくれるか?」
それを見送りに出てきたサブちゃんを振り返り、
「もー、下戸なの良く知ってるくせに面白がって呑まそうとするから、嫌がってこの辺に近付きたがらなくなるんだよ、おじさん」
千恵が答える。
「まあ、一応伝えるだけは伝えておくけどさ」
「おう、頼むぜ」
にかっ、と笑って中へ引っ込んでいくサブちゃんを背に、千恵は自転車を押して歩き出す。
この時期、5時を過ぎれば辺りはだいぶ暗さを増してくる。
「――夏也のお父さんは刑事さんなんだけど、夏也のお祖父さんは街で道場をやっててね、警察で武道の師もやってるの」
那由他はそれに、「そうか」とだけ返し、賑わう街中を黙って千恵の後について歩いた。
「たっだいまー!」
誰も居ない、静かな家の玄関をバタンと音を立てて開け、玄関の明かりをつける。
「荷物持ちさせてごめんね? 取り敢えずそこに置いといて」
生鮮食品の入った袋だけ持って、千恵はダイニングキッチンの扉を開けた。野菜やら肉やら魚やら、冷蔵庫に押し込むだけ押し込んで、和室の居間に置かれた仏壇の前に座り、線香を焚き、チン、と一回、鐘を鳴らす。
仏壇の前に置かれた写真は、若い――と言うよりまだ幼い男の子のもの。
「……弟なの」
那由他が尋ねるより前に、千恵が口を開いた。
「秋刀っていってね、私より五つ年下だったんだ」
それに、那由他が言葉を返そうと口を開くより前に、今度は玄関のチャイムが鳴り、それが鳴り止むのを待つ事なく扉が開いて。
「おい、千恵ー、帰ってんだろー? おふくろがー、そのイトコとやらを連れてメシ食いに来いってよー!」
夏也の騒々しい声が響いた。そのまま、断りなく靴を脱いで上がり込み、
「ああ、いた。……もしかして、今帰って来たとこ?」
遠慮なく部屋へ入って来た。
「うん、ちょっとサブちゃんとこ寄った後でスーパーにも寄ってたから……。ちょっとここで待ってて。すぐ着替えるから」
キッチンの流しで手を洗い、千恵は那由他を連れて2階へ上がる。
「ここ、秋刀の部屋だったんだけど、今はもう誰も使ってないから。……それと、はいこれ着替え。お父さんので悪いけど」
渡されたのは、道着の袴。
「うちのお父さんも、昔は夏也のお祖父さんがやってる道場に通ってたんだよ。そこで、やっぱり武道を習わされてた夏也のお父さんと知り合って……。そういう縁で、私も武道習ってたからね。……昼間、夏也や風花が言ってたのはそういう事」
千恵は那由他に苦笑を向けた。
「小学校の頃に一度だけだけど、合気道で県大会までいった事もあるんだよ、私。だから、人が相手なら男にだって負けない」
それからくるりと後ろを向いて、ちえ、と下手なひらがなで書かれたプレートの下がった扉を開けた。
部屋の壁一面に、賞状の入った額縁やメダルが飾られ、棚には幾つもトロフィーや楯が並ぶ。
「だから、余計に悔しい。あの時、もし私が傍にいたら……あんな事にはなってなかったんじゃないかって。あれから、お母さんは泣くばっかりで笑えなくなっちゃって。この家に――この街に居ると、辛い事とか色々思い出しちゃうからって、お母さんは滅多に家には帰って来ない。お父さんは元々仕事で単身赴任中で。……もしもこの上私までどうにかなっちゃったら、お母さん、本当に壊れちゃう」
那由他は、目の前の引き戸を開けてみた。部屋は六畳ほどの和室。
「京が、私をどうしたいのか知らないけど。京の言う“イヴ”って何なのか、分かんないけど。お母さんをこれ以上悲しませるような事にはさせたくないの。だから――」
「おーい、まだかー?」
階下から、夏也が叫ぶ声がして。
「まだに決まってるじゃない、もう! 別に急ぎじゃないんだから、いいでしょ?」
階下に叫び返し、
「……もう。夏也もうるさいし、さっさと着替えちゃおう」
那由他は急かされる様に部屋へと押し込まれた。
ピシャンと騒がしく閉められた扉越しに、千恵が一言、呟いた。
「これから、しばらく……よろしくね。それと、遅くなったけど。――ありがとう」
千恵の気配が扉から離れ、向かいの部屋の扉が閉まる音がして。
「……」
那由他は部屋を見回した。
押し入れの襖を開けてみると、ちゃんと手入れのされた布団が入っていた。
だが、他に家具といえる様なものは壁にかかった時計くらいのもので、少々ガランとした印象は拭えない。
ただ一つ、押し入れ脇の柱に刻まれた、背比べの跡らしき傷跡が、かつてのこの部屋の主の面影を思わせた。
那由他はその前にしゃがみ込み、そっとその傷跡に触れた。
「――家神よ」
「――。」
那由他の囁きに、周囲の霊気が揺らいだ。
家神とは、各家に憑くモノノケの一種で、神と名はつけど、地霊の一種だ。主の声に応え、寄り集まった霊気がぼんやりと像を結ぶ。
昔は実体化などして座敷わらしと呼ばれる事もあった、それなりに力のあるモノノケであったのだが、……これはどうやら実体化どころか姿を保つ事すらままならない程に弱体化しているらしい。
「……それでこの邪気、か」
玄関を入るまでは那由他にも分からなかったが、家に入った途端、表とは明らかに濃度の違う邪気を感じた。
「それは、居つきたくないだろうな。肉体の健康に差し支える程の邪気ではないが……弱った精神には痛すぎる毒だ」
こんな中で、千恵はよくぞああもつよくいられたものだ、と那由他は感心する。
「この邪気の質……京、か?」
この程度の邪気なら、本来は家神が祓ってしまえるはずなのだが。
「その様子では、悪霊一匹祓えまい……。仕方ないな、おい、愛羽家の家神よ。我が那由他の血を分け、お前に私の分身の力を与えてやる。その力を以って、家神としての本分を全うせよ」
那由他にとって血は生命力――力そのもの。モノノケにとって力は存在の証であり、年月を重ねる事により増大していくもの。
那由他の血は、那由他の存在の証。それを喰わせるということは、自分の存在を喰わせるという事。
自分より永い時を存在した者の力を喰らえば、通常では与り得ない力が得られる。
「これは契約。我が力を得る代わりに、私の従となれ」
那由他は自分の牙で手首を噛んだ。傷口から滴った血が朱玉となって零れ落ちるのを、朧な霊体が飛びつくように受け止める。
実体のない、霧の様な霊体の身体に落ちた血は、それに触れた途端、赤い色の霧になり霧散するように消え、陽炎のようにゆらゆら揺らいでいた像も呼応するように霧散する。
瞬間、グラグラっと家が揺らいだ。
「きゃ、じ、地震?」
隣の部屋で千恵の声がして。
「おわ?」
階下からは驚く夏也の声もした。
揺れはすぐにおさまり、天井からぽたりと、一滴の水滴が落ちた。
ぽたり。ぽたり。まるで雨漏りの様に。ぽたり、ぽたり。落ちる滴が畳敷きの床に水たまりをつくる。
ある程度まで溜まった水が、突如その粘度を急激に増し、ぐにゃぐにゃと動いた――と思えば見る見る間に膨張していき、一つの姿を成したところで固まり、パリン、と氷が砕けたような音と共に殻を破ったそれが姿を顕わした。
――大鴉。
鷹ほどの大きさの、真っ黒な鴉が翼を広げ、一度、二度、三度と羽ばたき、旋風を起こす。
家に充満していた邪気はその風に吹き飛ばされる様に消え、代わりに清浄な気が満ちる。
「い、今地震っ、大丈夫だった!?」
ノックもせずに戸を開けた千恵は、通常ではありえないサイズのからすに
「わ!?」
思わずといった様子で叫んだ。
「おい、今地震が……っ、大丈夫だったか千恵?」
バタバタと階段を駆け上がって来て、千恵と似たようなセリフを口にしたのは夏也で。
しかしこちらは部屋を覗き込んでも特に驚く事はなく、
「どうした、千恵?」
むしろ不思議そうに千恵を見た。
「え……?」
部屋の中を指さし、那由他とからすと夏也とを見比べた後で、
「あ……、と。何でもない……」
何かを察したのか、千恵は夏也を促し部屋の戸を閉める。
「き、着替えの邪魔してごめんね? ……私たち、下の居間で待ってるから。着替え済んだら降りて来て」
那由他は大きく長いため息を盛大に吐き出し、
「あー……、お前、名は?」
威厳も緊張感も厳粛さも中折れした気分になりながら問うた。
だがこの家に憑いた家神は、当然こうした事態など日常茶飯事なのだろう、全く動じる事なく問いに応えた。
「天羽、と申します。お懐かしゅう御座います、那由他様……」
「……お前は、私を知っているのか?」
「はい。……とは言え手前はしがない家神風情。直接お目にかかった事は御座いませんでしたが、人の世が江戸から明治へと改められた時代より、この家に憑いております故。この度、この地の地霊の主たる那由他様から直に命を賜れました事、これもチエ様の想い故と信じ、この天羽、誠心誠意お仕え致します事を誓いましょう」
「ああ、……では。聞いていたな、ひとまず私は出掛けるが。留守は頼んだぞ」
そそくさと着替え、そして鴉に告げた。
「……行ってらっしゃいませ」
天羽は丁寧に頭を下げた後、するりと融ける様に床へ消えた。
(珍しく義理堅そうな奴だな。しかも鴉、ときたか。……もしかすると小笠か富士の天狗に縁あるものか?)
この地からそう遠くない山に棲まう天狗の一族。よく晴れた日に望める富士の山にもまた由緒ある天狗の一族が棲まっている。
「おーい、まだかー?」
階下から、夏也の急かす声がして。那由他は思案を中断し、扉を開けた。
「いや、もう済んだ。……待たせて悪かったな、今行く」
メール着信を知らせる着メロが鳴り、彼女はケータイを開いて届いたメールを開いた。
Time 11/2 18:12
From 京クン
Sub 初メールだよ♪
▼みんな、昨日今日と一日色々ありがとう☆彡
なにかお礼したいな〜と思ってメールしたんだけど(*^^)v
今日これから、僕とカラオケ行かない?
即座に返信メールを打ち、送信する。
少女は、慌てて髪にくしを当て、クローゼットを開け放ち、鏡との睨めっこを開始した。
Sub 行く行く〜!!
Sub 誘ってくれてありがと(^o^)丿
Sub 嬉し〜♪
……
……
引っ切り無しに鳴り続ける携帯の画面を眺めながら、京はほくそ笑んだ。
「別に、僕が動かなくても、僕のお願いを聞いてくれる娘はこれだけいるんだ」
ケータイを上着のポケットに滑り込ませ、京はカラオケチェーン店の扉をくぐった。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
「いえ、連れが後から大勢来るんで、広めの部屋をお願いしたいんですけど。……そうだな、取りあえずまずは3時間からで」
カウンターの店員から、リモコンやらマイクやらの入ったカゴを受け取り、告げられた部屋番号をメールする。
「駅前のカラオケBOX、301号室で、待っ、て、る……よ、と」
ケータイの送信ボタンを押し、京は部屋の扉を押し開いた。
部屋の明かりをつけ、カゴをテーブルに置き、機器や部屋ののセッティングをしながら、
「――待ってるよ、たっぷり酔わせてあげる」
冷笑を浮かべた。
「代わりに君達の大事なもの、僕にくれたら嬉しいなぁ」