番外編其の弐:運命の始まり
ふと、目を開けた。
乾いた寒風が萎れた葉を容赦なく枝から剥がし取っていくのを横目に眺めながら、彼はゆっくりと体を起こし、空を仰いだ。
空は青く、よく晴れているが――近頃は随分日差しが弱まり、日増しに空気が冷えていく。
とはいえ、そんな事は彼にとってはどうでもいい事だ。
山の中、大木の丈夫な枝の上でのんびり昼寝をしていた彼がふと目を覚ました理由、それは――。
「……人の、気配?」
山に棲まう数多のモノノケらが安易に人里へ降りて行かぬようにこの山一帯に張り巡らせた結界の内側に、人の気配がある。
もちろん、巫女のものではない。
村の者たちにとって、この山は神域であり、禁域とされており、彼らがここへ近づくことはまずない。
何せ、週に一度、祠へ供え物を捧げに来る者たちさえ、怯えながらやって来ては即座に逃げるように戻って行く有様なのだから。
だが、ごくたまに村の者ではない余所者が迷い込む事はあるし、ごくごく稀には、巫女となった少女を取り戻しに来た娘の恋人だとか、怖いもの知らずの子供たちが肝試しにやって来たりだなんて事もあった。
「……さて。今回は何者だ?」
何も知らない迷い人か、それとも何か明確な目的を持ってやって来た輩か。どちらにしろ、放っておけば遅かれ早かれモノノケたちの餌食となろう。
彼は木の上から飛び降り、その気配のある方へと歩き出した。迷い人ならそれとなく誘導して追い返せばいい。
だが、急勾配の獣道で見つけたのは――。
「女……、それも子どもか?」
まだ十かそこらの幼い少女が、片手に大きな籠を抱え、地面にへたりこんでいる。
見れば、籠の中身のほとんどが薬草の類だ。
少女の身なりを見るに、おそらくあまり裕福でない家の子どもなのだろう。
合わせて考えれば、何となく彼女の事情は察せられた。
だが、あんな幼い少女など、モノノケにとってはまたとないご馳走でしかない。早々にここから帰さねばなるまい。
彼女の前へ姿を現すべく、彼は一歩足を踏み出そうとして――その足元にあったとある草に気づいた。
彼は、モノノケだ。病などとは縁が無いが、それでも数千年の永い時間を過ごせば、無駄な知識も色々増える。
彼は一瞬逡巡した後、屈んでその草を摘み取った。
「……娘、ここは村の禁域だ。早々に去れ」
今にも泣きそうな顔をした少女に、彼は声をかけた。
初めて自分の存在に気づいたのだろう少女はびっくりした顔をこちらへ向けた。
「は、はいっ、あの……ごめんなさい、家族が皆倒れちゃって、でもお薬も買えなくて、だから……!」
必死の面持ちで謝りながら、少女は途方にくれた顔をする。
「あの、……山を降りる道は、どっちへ行けば……?」
成程、文字通りまごうことなき迷子という訳だ。彼はもう一度ため息を吐いてから、少女の手を取り歩き出した。
面倒だが、仕方あるまい。この山の主として、放っておく訳にはいかないのだから。
無事、麓へ着くと、少女は深々とお辞儀をし、丁寧に礼の言葉を述べた。
「あの、ありがとうございました」
彼女は、おそらく彼が何者なのかまだ気づいていないか、知らないのだろう。
こんな風に他意なく自然な礼を受けるなど、ずっと恐れられるばかりの存在であった彼にとってはまずないことなのだから。
だが、彼女の嬉しそうな笑顔は、彼の心をじんわりと温めた。
「――持っていけ」
彼は、摘み取ったまま手に握りしめていた草を彼女に突き出した。それは、大変滋養があり、大概の病に効果のある希少な薬草だった。
「ありがとうございます」
少女は、改めて深々と頭を下げる。
「あの、お礼はまた後日、改めて……」
焦ったように言う少女に、彼はぶっきらぼうに告げる。
「礼など、要らん。ここは、禁域だ。ニ度と近寄るんじゃない」
彼女はぺこぺこ頭を下げながら走り去った。
その背を見送りながら、彼はもう一度ため息を吐いた。
「……妙な娘だ。まあ、ニ度と会うこともあるまいが」
――だが。既に運命の歯車は、この瞬間にゆっくりと動き出していた。
十年後。知らず彼女と再会し、散々振り回される事になるなど、この時の彼は当然知る由もなかった。
ましてやその五年後、彼女と永久の契約を交わそうなどと自分が考えるなど。
その時の那由他は考えもしなかったのだ。更に百年後、実際に彼女と契約を交わし、己が神籍に加わるなど、欠片も――。




