第伍話 a new story
「……かく、ご……?」
見慣れた我が家の自室に鳴り響くのは、風花に貰った昨今大人気のアイドルグループの最新曲の着メロ。目覚まし代わりのケータイのアラームだ。
「夢……?」
そういえば……昨日、保健室で寝込んでいる間にも妙な夢を見た様な気がする。
ベッドから身を起こし、ケータイで時間を確認する間に、眠気と一緒に夢の記憶も霧散して消え、代わりに昨日の記憶が蘇る。
『――お前の血を、私に捧げろ。代わりに、私の加護をお前に授けてやる』
彼から渡された勾玉は、確かに昨日一日京から千恵を守ってくれた。――いや、それ以前に京と初めて会ったあの夜も、千恵は彼に助けられている。
その貸しにかこつけて血を要求する事だって出来ただろうに、彼は律義に契約を持ちかけ、一晩の猶予とその間の護りまで与えてくれた。
モノノケだと言いながら、神であろうとする、おかしな男。
一晩じっくり考えても、やはり彼の助力に頼る以外に京に対抗する手段など思いつかない。
……十字架とか、ニンニクとか、思い至らなかった訳ではないけれど。本当にそれが有効である保証はない。
現に昨日、京は真っ昼間の学校に平気で現れた。……つまり太陽は弱点ではなかっとという事だ。となれば、それに続く弱点の数々の信憑性も怪しくなってくる。
何故、那由他を見て心が揺らぐのか。何故、本性を現す前から京に恐怖を覚えたのか。……まだ分からない事だらけだが。
今、千恵に選べる未来が二つだけなのは理解る。
為す術もないまま京に好いようにされるか。
那由他の提示した契約を受け、血を捧げる代わりに彼に守られるか。
迷うまでもなく、選ぶなら当然後者だ。
……でも。那由他にそう持ちかけられるより前――初めて彼の姿を目にしたあの瞬間から、それを望んでいた様な気がするのは……本当に気のせいなのか。
彼のあまり具合の良くなさそうな青白い顔を見て、首のあたりが疼いた様な気がしたのも、本当の本当に気のせい……?
霧散したはずの夢の名残が耳奥で囁く。
(――那由他様……)
「……もう、行かなくちゃ。早くしないと、“寄り道”する時間が無くなっちゃう」
朧な夢を振り払うように、千恵は急いで身支度を整え、家を出る。
この街には神社は二つある。一つは少し前まで正月の度、毎年家族で初詣に出かけていた氏神様の社。そしてもう一つ、今は既に廃神社となっている社が、千恵の通う高校の裏にある山にある。
昨日那由他はどちらの社か明言しなかった――のに。
千恵は当たり前の様にいつもの通りに学校への道を辿っていた。
――高校までは、自転車を飛ばせば10分程で着ける。
千恵は一度校門を入って学校の駐輪場に自転車を置き、裏門へ回った。表の路を通るより、こっちの方が幾分か近道ができる。
鍵がかかった裏門をよじ登り、向こう側へ飛び降りる。まあ、この程度の事は慣れたものだ。一本、舗装もされていない狭い路地を挟んだ向こうに、その荒れ放題の小山が鎮座している。
今はもう、誰も通る事のない獣道の様な参道の小道は、傾斜は大したことはないが、手入れのされていない下草や小枝が道を塞ぎ、掻き分け掻き分けしながら進まねばならず、体力にはそこそこ自信のある千恵も、山の中腹にある祠を見つける頃にはさすがに息が上がっていた。
ずっと昔、戦前より更に前には、頂上に小屋の様な社があったらしいが、今は鳥居すらなく、申し訳程度に古ぼけた小さな祠だけが残っているだけ。
那由他は、その祠に背を預け、地面に座り込んでうつらうつらと眠り込んでいた。
衣服が朝露に濡れている。もしかして、こんな所で一晩明かしたのだろうか?
風に吹かれた木々がざわめきを奏で、彼の前髪が風に遊ばれさらりと揺れる。
もう、11月だ。朝晩の冷えは厳しく、風も冷たい。野宿をするには辛い季節だ。
だが彼の寝顔は比較的穏やかで、木々に囲まれたこの場所で眠る彼の姿は一枚の絵画の様だった。
――その画に、千恵は何故か既視感を覚えた。いつだっただろうか、こんな風な景色を何処かで見たような……そんな気がするのも、やはり気のせいなのか……。
起こしてしまうのが躊躇われる程、良く眠っている様子の那由他に、千恵はそっと近づき、肩に触れた。
熟睡しているらしいところを起こしてしまうのは心苦しいが、一応約束の時間だし、あまりゆっくりしていると学校に遅刻してしまう。
そうして触れた那由他の肩は、氷の様に冷たかった。
「もう、こんな所で眠るから……」
でも、ここは確かにこの土地の土地神を祀っていた神社の跡で、彼は確かにここの土地神で。
もしかしなくとも、昔はあったという社が、彼の家だったのだろうと思い当たり、ツキン、と心の奥が痛んだ様な気がして。
それを振り払うように、名を呼び、肩を揺すろうとして――はた、と。
……さて、何と呼ぶべきだろうか?
いきなり呼び捨て、というのはどうかと思うし。くんとかさん付けで呼ぶのも何だか違う気がする。
「……那由他様?」
呼びかける、というよりその響きを試す様に口の中で頃がした名前に、ずっと規則正しく上下していた那由他の肩がピクリと動き、呼吸のリズムが崩れた。
「……チ、エ?」
ゆっくりと目蓋を重たそうに持ちあげ、寝起きで掠れた声で名を呼ばれた。
こうして間近に見ても、顔色こそ不健康そうな青白い色をしているが、まつ毛は長いし、彫りが深く鼻も高過ぎず低過ぎず、形の良い唇も――全てが完璧な造作をしており、それを全て詰め込んだ綺麗な顔で、上目使いに無駄に色気のある声でささやかれたら……
「ああ、……もう朝か――。すまない、寝過してしまったようだ」
周囲を見回し、空を見上げてから、那由他は少し目を伏せ、
「私にとって血は生命力そのものでな。長く欠かせば身体は冷えて凍り、動く事すらままならなくなる。……もしも今、身体に大きな損傷を負えばひとたまりもなく私は消滅するだろう」
肩に置かれた千恵の手に自分の手を重ねた。
直に触れると、まるで冷凍庫から出して来たばかりの氷水みたいに冷たい、那由他の手。
だが千恵は、それよりも彼の言葉に冷や水を浴びせられた気がした。
カチンと、急激に冷えた心と反比例するように頭に血が上り、スイッチが入る。
「そう。じゃあ、あなたと違ってたぶん生命力に満ち満ちて元気一杯なんだろう京クンをどうにかする方法は? 十字架とかニンニクとかで何とかなる?」
自分で思うより随分と低い声が、思わず口をついて出た。……しかもタメ口。
「……ならないな。ついでに言えば、聖水や流水、外国の神の書とやらも役に立たないぞ」
しかし那由他がそれに目くじらを立てて咎める事はなく。
「銀と炎は……喰らえば確かに大きな痛手となるが……」
淡々と答えを返す途中で那由他が濁した語尾に続く内容は、あの日の夜の戦闘を目の当たりにした千恵には良く分かっていた。
「当てられなきゃ、意味がない?」
語尾を引き取りながら、ふつふつと沸き立ってくる感情に千恵は満面の笑みを浮かべる。
「ねえ、あのさ。何で私がこんな朝っぱらから山登りしてまでこんな所へわざわざ出向いて来たと思ってるの?」
無駄に綺麗な顔が何だか小憎らしく見えてきて、思わず手が出る。
「分かってるよ、私の力じゃ京をどうにかするなんて逆立ちしたって無理だって事くらい、最初から!」
むにょ〜ん、と両手で彼の両頬をつねり上げ、左右に引っ張ってやる。
触れた肌はやはりひどく冷たかったけれど、存外に柔らかく、人のそれと変わらない。
「あれだけ人並み外れて暴れる様を目の前で見せつけられたら、どんなバカでも分かるよ。私じゃ……普通の人間じゃ、到底適わない。京にも、あなたにも」
良く伸びる頬を力いっぱい引っ張り、つねり上げる。
「京は私を狙ってる。どういう理由かなんて知らないけど、初めて声を掛けられた瞬間からずっと、心の中は恐怖と嫌悪で一杯。……それこそ、うっかり気絶なんかして保健室に担ぎ込まれちゃうくらい。……でも、」
その暴挙にさすがに驚いたのか、見開いた目をぱちくり瞬かせた彼を見て、千恵は少し溜飲を下げ、彼の頬から手を離す。
「でも、あの時あなたは私を庇ってくれた。昨日くれた勾玉の効果もてきめんだったし」
その頬は僅かに赤くなっていて。
「何よりあなたが言ったのよ、『契約しろ』、『守る代わりに血を差し出せ』って」
その片頬に、千恵はそっと手を伸ばした。
「学校の成績は正直良い方じゃないけどさ。でも、そこまで馬鹿じゃないつもりだよ、私」
那由他の目を真っ直ぐ見つめて言う。
「今なら私の力でもあなたを消せる? ……そんな事していったい何になるの?」
唯一助かる可能性のある道を自ら潰すなど、愚行の極みとしか思えない。
「……肚を決めた、と?」
「そうだよ。一応これでも、それなりに覚悟は決めて来たつもり。だって、その為に来たんだよ。あなたが言った“契約”を成立させる為に」
――そのつもりで来たのは本当だけど。でも今、彼をこのまま放っておいてはいけない様な気もして。
「で、私はどうすればいいの? 契約書かなんかにサインとかすればいい?」
「書状の類など、我らモノノケ相手の契約には必要ない。我らモノノケにとって、言霊の契約は絶対だからな。お前はただ宣言すれば良い。だが、一度成立した契約を破棄する事は不可能だ。破れば最悪の場合お前の命がその代償となる可能性もある」
那由他と名の通り、遥かな時を重ね続けてきた威厳を最前面に押し出し、彼は千恵の問いに答えた。
今の今まで、外見は千恵とそう変わらない年頃に見えていたのに。……その途端、彼が悠久の時を生きてきた“モノノケ”なのだと改めて思い知らされる。
厳かな迫力に満ちた雰囲気。たとえ身体は弱っていても、その精神は健在。
外見の、人並み外れた美しさ以上に、それがとても綺麗なものに思えて。
自分の預かり知らぬ所で動く心の奥の感情とは関係なく、千恵自身で確信した。
この那由他と京とはまるで違う存在なのだと。
同族だと、那由他は言ったが。確かに種族としては同じなのかもしれない。でも、違う。
だから、大丈夫だと。この選択は間違いなんかじゃないと、信じられた。
「私は、あなたと契約する。あなたに私の血を捧げる。代わりに私を守って。
「………………」
千恵の宣言に、那由他は一呼吸の間をおいてから、
「……いいだろう。お前の血と引き換えに、私の守護をお前に与えよう」
頬に触れていた千恵の手を取る。
もう片方の手の指を、自分の口元に運び、ガリっと牙で傷をつけ、ジワリと滲んで来た血で千恵の手の甲に何かの紋様を描いた。
血で描かれたその紋様は、完成すると同時に肌に吸い込まれていくようにして消える。
「えっ、……これは?」
「私の“印”だ」
那由他は苦しげな吐息と共に答えをこぼした。
「我らモノノケは本来、己より永き時を存在したものには逆らえない。私より後にこの世に生じたものに、私の“印”に逆らう事は出来ない」
……心なしか、彼の顔色が更に白くなった……ような……
「あの勾玉と、原理は同じだ。あれは、私の“印”そのもの。私より若い京が私の“印”に抗うのは難しい」
眉間にしわを寄せて目を閉じ、背後の祠に体重の殆どを預けてもたれる。
「だが、ああいう形態の“印”は長くは保たない。一日か、長く保ってもせいぜい三日で消えてなくなる……が」
ゆっくり息を吸い、そして吐き出して。
「……こうして刻んでおけば、私との契約を続ける限りは消えずに効果も持続する。取り敢えず一先ずの護りにはなるはずだ」
意を決した様に、祠に縋りつくようにしてふらふらと立ち上がる。
「しかし、あの京というもの。侮ってはならない気がする」
言いながら、よろよろと今にも倒れそうな足取りで一歩踏み出し、
「それに、“印”でただ守るだけでは何も解決しない。私が直接赴く必要があるだろう」
ここへ来るのに千恵が使った道を降りて行こうとする。
「ちょっと待った」
千恵は那由他の腕を掴んで引き止めた。
「赴く……って、学校に行くの?」
……掴んだ腕が、さっきより更に冷たくなっている気がする。
「そのつもりだが。……何か、問題でも?」
「いや、学校に来るのは構わないし……っていうか私的にはむしろ心強いし、ありがたいんだけどさ」
振り向いた那由他の顔はやはり辛そうにしかめられている。
「そんな状態のままで行くつもりなの? そんなふらふらな状態で行って、京に勝てる? ……無理だよね。だって昨日、自分で言ったんだよ。『力が足りない』から『どこまで渡り合えるか分からない』って。それに、今さっき言ってたよね。『血がないと動けない』って」
那由他の腕を掴んだまま、千恵は彼に一歩近づいた。
「……報酬とは、何かを為した謝礼として支払われるべきもの。……私はまだ契約の約定を何一つ為していない」
千恵は、その彼の誠実で律義な答えに感心しつつも呆れ返るしかなかった。
「あのね、だからってあなたが京にやられちゃったら意味ないじゃないの、もう……」
掴んだ腕を強く握りしめて、
「なら、昨日の勾玉分と、その前に庇って貰った分のお礼って事ならどう?」
彼と向き合った。
「だって、山を下り切るまでに倒れそうに見えるんだもん。そんなんじゃ、私が困るの。だから、行くならまずはちゃんと力を回復させてからにして」
「……良いのか?」
那由他は苦い笑みを千恵に向ける。
「怖いのだろう?……心の臓が先程から騒ぎっぱなしだぞ?」
ここで那由他を見つけた瞬間からドキドキしっぱなしだった心を見透かされ、千恵は思わず那由他の着物の胸倉を掴み、
「そりゃ、平気じゃないよ!? 当たり前でしょ!」
力任せに揺さぶった。
「いきなりモノノケだのなんだのって分からない事言われて、悪夢みたいな事態に巻き込まれてパニくるなって……そんなの無理に決まってるじゃない。しかも、血を差し出せとか言われて、平常心を保ってられる訳ないでしょ?」
火照って熱くなった顔を、那由他の冷たい胸板に埋める。
「でも……何でかな。分かんないけど、怖いとか嫌だとか……どうしても思えないんだ」
合わせの裾を強く握りしめて。
「……平気じゃ、ないけど。怖くはないから……大丈夫」
那由他の手が、どんどん熱を孕んでいく千恵の頬に触れる。その冷たさが、今は心地良い。その冷たさが肌をなぞりながら首筋へと降りていき、制服の襟元辺りで止まる。千恵は意を決してブラウスのボタンを一つ、二つ目まで外し、那由他の顔を見上げた。
「お願いだから、なけなしの覚悟を溝に流すような真似はしないでよね」
少しの強がりを含めて、軽く睨んで。
「良いんだな? ……それなりに痛みも伴うが、それでも?」
据え膳を前にしながら……本当に、どこまで律義なんだろう、このモノノケ様は。思わず心の中で突っ込みつつ、脱力しそうになる。
「何、私の覚悟を試してるの? あのね、ここまでしといて今さら嫌とか言うワケないでしょ。いいから、さっさとその今にも倒れそうな状態、何とかして」
「……分かった。私からすればありがたい申し出だ、正直助かる」
那由他の片腕が、千恵の背を支える様に後ろに回され、首元の手がうなじにかかる髪を後ろへ梳き、襟を開く。
「すぐに済ませる。痛むが、少しの間我慢していろ」
そう言って、那由他は口を開いた。
綺麗に並んだ真っ白い歯列の上あごで鈍く光る二本の牙。
千恵の首筋を見つめる瞳は――やはり相当抑制していたのだろう、熱っぽく揺らぐ瞳に渇望が見え隠れしている。
それは、京に襲われた時と殆ど違わぬ光景であるはずなのに。
こうして千恵を捉えているのが那由他であるだけで、喰われようとしている事に変わりないのに。
それでも、あの時の様な恐怖や嫌悪は涌いてこない。
唇が首筋をなぞり、ある一点で止まる。
――あ、……と。思った次の一瞬。
肌から唇が僅かに離れ、グッと、牙が肌に押し当てられた。
服の裾を握りしめた手に力を込め――そして。
ブツッ、と、思っていた以上に生々しい音がして。那由他の牙が肌を貫き、深々と打ち込まれる。
「――っ」
牙が刺さる瞬間の鋭い痛み。牙が埋まった傷口を強く吸われる、鈍く疼くような痛み。思わず上げそうになった声を何とか喉の奥で押し殺し、服の裾を握った手を更に強く握りしめる。
……大丈夫、我慢できない痛みじゃない。
耳元で那由他が傷口を強く吸い上げ、血を啜りあげては飲み込むかなり生々しい音を聞きながら、詰めていた息を静かに吐き出す。
――本当に、血を吸ってるんだなぁ、などと埒もない事に思いを巡らせた――その時。くらりと、一瞬、酩酊感を覚えた様な気がして。
「――?」
ドクン、と一拍心臓が跳ね、続けてトクトク刻まれる鼓動に高揚感が高まる一方で、暖かな春の日だまりの中でうとうとしているようなぼんやりとした夢心地気分が瞬く間に物凄い勢いで心に満ち満ちて。
溢れんばかりのそれに押し流される様に、抱えていた不安やら何やら、今の今まで我慢していたはずの傷の痛みも全部が意識の外へ消えていく。
そうしてまっさらになった心は至福一色に染まる。
それは……例えば宝くじに当たったとか、そんな時に感じる安っぽい幸せではなく。もっと深くスケールの大きい……安心感に満ちたもので。そう、きっと大切な人と想いが通じ合った瞬間に感じる様な……
「……千恵」
名を呼ぶ那由他の声に、ドクン、と。一際心臓が大きく跳ねた。
心地の良い酔いの中にあった意識が、現実に舞い戻る。
いの一番に間近にある那由他の顔が視界一杯に映り込み、ドカンと心臓が爆発した。
「……大丈夫か?」
熱を測る様に額に那由他の手が触れる。
「あれ……あったかい?」
さっきまで、氷みたいに冷たかったのに、ちゃんと人肌の温もりがある。気付けばそれは額に触れる手だけじゃない。背を支えている腕も、合わせから覗く胸板も。
青白かった顔色からも具合の悪そうな青さが消え、小憎らしい程白くて綺麗な顔に、那由他は柔らかく慈愛に満ちた苦笑を浮かべていて。
「……もう、いいの?」
強く握り過ぎて皺くちゃになった裾から手を離し、やけにトコトコうるさい心音を誤魔化す様に尋ねた。
「この通り……冷えて強張っていた身体も程良く解け、全身に熱が満ちている。体調は万全だ。力も幾分か戻った様だしな」
言いながら、那由他は一歩千恵から離れ、そっと背を支えていた腕を解く。
「それより、お前の方は大丈夫か? 一度に吸い過ぎないよう加減したつもりだが……何しろ余りに久方ぶりだったものでな……」
僅かに目を逸らす彼の足は力強く大地を踏みしめ、先程の様にふらつく事なく真っ直ぐ立っている。
「多分……大丈夫だと思う。私、血の気多いから貧血で悩んだ事なんか一度もないし」
とは言え傷口に絆創膏を貼るくらいはしておくべきだろうか、と傷に手を伸ばし――
「……あれ?」
そういえば、傷の痛みを感じない。……と、いうか――
「傷は……?」
「もう、治っているはずだ。お前は私の“印”を持っているからな」
「え……、何、どういう事?」
「私は永らくこの地に棲まい、この地に棲まう地霊の主も務めていたからな。……封印されている間にだいぶ減ってしまった様だが……まだ、この位は――」
おもむろに手を伸ばし、山を下る道の先を指し、
「この地を加護する風伯、その眷族たる鎌よ――我が名のもとに具現せよ」
威厳ある厳かな声で静かに告げる――その直後、ざわりと何かの気配が急激に高まり、凄まじい鎌鼬がまるで衝撃波の様に放たれ、道を覆っていた下草や枝葉が一瞬のうちに伐採され、下へと落ちる。
「……と、まあ、この地の地霊を従えているのでな。私の“印”を持つお前もその力の加護を受けられる。今の様に治癒力を高めて傷を癒したり……な」
モノノケの頂点に立つ、山の主――那由他。
「さて、では行こうか」
木々の向こうからチャイムの音が小さく聞こえ。
千恵は差し出された手をキュッと握りしめた。
夢と現実の狭間に居る様な不思議な気分になりながら、彼について歩く。
――繋いだ手の温もりに、懐かしさと切なさとを感じながら……