第肆拾伍話 Indispensable existence
不意に、不穏な空気が、膨れ上がった。ざわざわと、木々が風に揺れ葉が擦れる音が、……何故だろう、不吉な予感を掻き立てた。
こんな、空気に、千恵は覚えがあった。
――それは。あの祓魔師が、那由他にかけた封印術がなんたるかを理解した上で、それを破れる可能性のある術を手に入れるための手がかりを求めて、久しぶりに懐かしいこの町に戻ってきたチエの記憶。
那由他が封じられてしまった悲しい記憶の残る町。だが、、彼と5年の月日を過ごした幸福な記憶がそこかしこに残る場所でもある。
だが、山の姿は、――町の様子も、がらりと様子を変えていた。
山から決して降りてくることなどなかったはずのモノノケたちが、街中を堂々と闊歩し、町の人間たちは、気休めにもならないような魔除けだけを頼りに怯えながら暮らして――。
那由他から得ていた“力”を、“糧”を得られなくなったモノノケたちが、それを求めて街へ降りてきた。――まさに今、目の前に広がるこの光景を現実のものにしないために、那由他は満月の夜が来るたび、身を削って“お勤め”を果たしていたのに。その彼を、封じてしまったから。
これは、その結果。
あの日、頑として彼を悪魔と断じて譲らず、チエの主張を一笑に付した神父は、住民たちに白い目を向けられながら、モノノケ退治に明け暮れ、疲れ果てていた。
気の遠くなるほど永い時の中、この町を守り続けていた力。チエにとって那由他はなくてはならない存在だけれど。それは、この町にも言える事だったのだと、痛感した。
だけど、まだ。――消えて失くなったわけじゃない。……眠っているだけで、彼はまだこの町に確かに居るのだ。
だって。まず、ここに。まだ、ここに那由他の守護は存在している。
那由他に貰った、彼の印。
チエは、モノノケが多く集う中へ躊躇いなく飛び込み、その力を開放した。
チエが持つのは、那由他の力の欠片。そんなもので、――ましてやただの人間の身で、“儀式”など行えるものではない。
だが、それを承知でチエは彼らにひとつの誓いをたてた。
彼らが、那由他を慕っているのを、チエはよく知っていたから。彼は、こんな事を望みはしないと、彼らを説き伏せ、ひとつの誓いを立てた。
――必ず、那由他を救い出すから、と。……そして、それは果たされた。
そして、もう一つ。
――もう一度、彼を、山の主に、と。
「そうですよ。ねえ、主……。俺らが、いったいどんな思いで、どれだけの時間、待ってたと思うんです? ――多くの仲間は、待ちきれずに消えちまった。……もちろんね、俺らだって分かってますよ、あの時代の暮らしそのままを取り戻すのはもう、無理だって。だから、俺たちはただ、あんたに主でいて欲しいだけなんです。ただ、それだけなんですよ」
茂みから、のそりと迅が姿を現した。
「俺らは、主が主として、チエ様とよろしくやっててくれれば、それで構わなかったんです。別に、無理に山に住まわなくてもいい。この町に居てくれさえするなら、それで良かったんですよ。――なのに……」
迅が、低く唸る。
「そんなチンケな小僧っ子一人のために主が消える? ……ふざけんなよ」
低く、低く。怒りを込めた迅の言葉に呼応するように、木々がざわめく。――風狛、だ。他にも、覚えのある気配をいくつも感じる。
「主。――この際、別にチエ様の血じゃなくても構わないでしょう? ……残念ながらここにあるのはチエ様のそれと比べるべくもない、あのクソ祓魔師の血を引いた野郎どもの不味そうな血ばかりだが、とりあえずこれだけあれば量は足りるはずだ。もしも足りないようなら、俺がひとっ走りしてそこらへんの連中を2、3人引っ張ってくる。……俺たちは、主が消えるなんて選択肢は、認めねえ」
ざわざわ騒ぐ気配に交じるのは――殺気。
「俺らモノノケが求めるのは、確かなもの」
迅は、静かに言葉を紡ぐ。
「俺らの中の誰よりも、悠かな時を生きた主の力は不確かなモノノケでありながら、俺らのそれより遥かに確かで、何より主のそのモノノケらしくない律儀な性格も、この土地に根付いた主の存在も、俺らにとって惹かれずにいられないものだったんだよ」
迅の鋭い目が、悔しげに細められる。
「チエ様が巫女になられて。チエ様は、決して俺たちの存在を否定しなかった。俺らを認め、当たり前の付き合いを平然としてた。……そんなチエ様に、俺たちがどれだけ惹かれたか。」
迅の爪が、地面を抉る。
「……でも。傍から見てたら、チエ様の想いは一目瞭然でね。どう見ても俺たちに勝ち目はない。それでも、かまわないと思ったんですよ。主と、チエ様。見るからに似合いでしたしね、下手に首を突っ込んだら馬に蹴り飛ばされそうだったし。……なのに、主はいつまでも男らしくないこと言ってうだうだしてるし、もう、見ててイライラしたもんですが」
牙を見せ、ほんの一時、迅は苦笑を浮かべた。
「やっと、まとまったと。――そう思った矢先に……あんな……。何故、主が封じられなければならなかった? 村の連中に害を為したことなど一度としてない。捧げられた巫女とて、必ず5年で村へ帰してた。もちろん、五体満足のまま、何の欠損もないままに、だ。なのに……。いや、人間なんて結局そういうもんなんだよな」
迅は、今だ目を閉じたままの夏也を憎々しげに睨みつけた。
「チエ様は、主を開放する術を得るのに、何十年もかけて、心身削ってその術を得て、最後には命まで懸けられた。そうして、やっと、ようやく主と再会を果たしたばかりなんですよ? なのに、何でこんなことになってるんですか? あの小童に唆された結果とはいえ、こいつが主を祓おうと考えたのは確かなんすよね? でも、なぜ? 主がこいつに一体何をしたんすか? 恋敵が人間じゃなかったから? ――ふざけるな!」
迅が、吠えた。
「そんなくだらない理由で、俺らの主を奪われてたまるか!」
迅の叫びに、空気が応え、地面が応え、満ちた殺気が急速に膨れ上がる。
「主の恩恵に預かりし主が眷族らよ。主が一の従、迅の名に於いて命ずる――、主に力を! 供物を捧げよ!」
迅の遠吠えが、町に轟いた。
「ダメ、……迅、それは……!」
千恵が小さく叫んだ。
「――迅、やめろ!」
那由他が、かすれた声で命じる。
だが、迅は冷たく静かな視線をこちらに向けて言った。
「申し訳ありませんが、こればっかりは譲れません。――俺たちには、主が必要なんです」
(そう、そうだよ……。那由他は、居なくなっちゃダメ……。でも、これは……。でも、他に方法は……)
千恵は、己の不甲斐なさに打ちひしがれる。
――もう二度と、こんな思いをしたくなくて、力を得たのに。結局、一番大事な時に何の役にも立たないなんて。
「いや、いや、いや……」
雨と涙とでひどい有様な顔で空を仰ぎ、千恵は叫ぶ。
「いやあああああああああああああああああああああ」
叫んだって、何にもならないのに。分っていても、やめられない。まるで何もできない幼子のように、ただわめき散らす。
まるで、その千恵の叫びに応えるように。
空気をつんざき、鼓膜が破れそうな豪音と共に、教会の庭に、稲妻が突き立った。