第肆拾肆話 The end and reproduction
一度、そうと決めてしまったら、案外すっきりと心が凪いだ。
京には、人の心を操る能力がある。那由他は、その京と同種のモノノケだ。京が持つ能力を、那由他が持っていないはずがない。
京のそれより遥かに強い力を、那由他は有している。
――人間の記憶を操作するなど、それこそ朝飯前の事。
彼女から自分の記憶を消し去り、人里へと戻す。
……正直、あの日チエに頭突きを食らわされ彼女の想いを直に聞かされるまでは本気でそうするつもりで考えていた事だ。
そう。ただ、少しの間、都合のいい甘い夢を見ていただけ。ただ、あの頃に立ち返るだけで彼女を救えるのならば。ためらう必要が、どこにあるだろう。
その甘い夢にあと少しで手が届くところだった事を思えば、京に操られた目の前の少年の頬の一つや二つ張ってやりたい気はするけれど。
京が繰り出す猛攻を捌きながら、彼の寄り代の要となっているはずの“印”の位置を慎重に探る。
(――どこだ?)
“印”を破壊してしまえば、まだ完全に馴染みきっていない京の魂はこの身体からはじき出される。そうなれば、先程散々彼の力を喰らってやった直後のこと、京にはもう、実体化するだけの力は残されていないはず。力を失くしたモノノケの行く末は――消滅、だ。
那由他は、感覚を研ぎ澄ませる。
魂を宿すからには、ある程度場所の候補は絞られる。
頭か、胸か、腹か――。
(……あった。――やはりそこか)
血を糧に存在するモノノケにとって、最も力に満ちた場所。――自らの内には存在しない、その場所に、那由他はその気配を見つけた。
(ふむ。ちょうど都合がいい。いくつも開けた風穴を閉じてやる手間が省けたな……)
那由他は、ニヤリと、京の十八番を奪うような笑みを浮かべ、彼の懐に飛び込み、腕を突き出し、ひと思いに胸を貫く。
那由他が、決してこの身体を無下に扱えないと確信し、油断をしていた京は驚愕の表情を浮かべる。
「――っ、グッ!?」
既に鼓動を止めた静かな胸の内を探り、それを力任せに掴み出す。
赤い、半透明の鱗――。間違いなく、京の“印”だ。それを冷たく見下ろし、那由他はそれを握りつぶしてしまいたい衝動を必死に抑える。
「……っ! や、やめろ……!」
核を奪われた京の気配が急激に薄まり、夏也の瞳が虚ろになっていく。
がくりと、前のめりに倒れこむ夏也の身体を片腕で抱きとめてやりながら、那由他は手にした“印”を己の口へ放り込んだ。
眉間にしわを寄せ、渋い顔をしながらそれを噛み砕き、飲み下す。
「………………………………!」
最早声にならない、無言の叫びが那由他の耳に届く。
今度こそ、間違いなく確かにその気配が消滅したことを確かめ、那由他は腕に抱えた夏也の身体を、そっと地面に横たえた。
たった今穿ったばかりの傷――京の印が埋まっていたその場所に、自らの印を埋め込む。
自らの血で形作った勾玉に、更に自らの血を惜しげもなく注ぐ。
血を――力を失い、どんどん冷えていく己の身体。
逆に、力を注がれた“印”は、どんどんその熱を増し、冷たく凝り、鼓動をやめた心臓を溶かしていく。
心臓に、熱がもどる。――少しずつ、少しずつ。とくん、と。微弱な鼓動がかすかに戻り、石化していた血管に熱を伝えていく。石化していた血管の中、固まっていた血液が徐々に溶け、流れ出す。
全身に、徐々に血流が戻り、枯死していた筋肉や内蔵にも、瑞々しい艶と張りが戻ってくる。
冷え切った身体に熱が戻り、生気が戻る。
心臓から送り出され、再びその血液が戻る。那由他の力を受けた血が、だんだん勢いを増し、どんどん全身に送り出されていく。
呼吸が戻り、足の指がぴくりと僅かに痙攣した。
那由他は、ひとつ、大きく息を吐いた。
いつしか、背に縋りつくように寄り添う手に触れ、その熱を味わう。
千恵が、声もなく嗚咽を漏らした。
千恵の手に触れる那由他の手は、千恵として初めて那由他に血を差し出したあの時よりも更に冷たくて――
空が、急に曇りだし、辺りが一気に暗くなる。ゴロゴロと、嫌な音が聞こえる。
ポツポツと、雨粒が落ちてくる。
ついさっきまでは確かに晴れていたはずなのに。雨雲の気配などこれっぽっちもなかったのに。
まるで、千恵の心中を映し出したかのような空模様に、那由他は苦笑を浮かべた。
彼女の手から感じる熱は、これほどにも心地良い。
最後に、もう少しだけこの感触を楽しんだら、最期の力で、胸の傷を塞ぎ、夏也の魂を呼び起こしてやらねばならない。
那由他は、そっと千恵の頬に手を触れ、彼女の顔を仰向けた。
涙で濡れた頬に、冷たい口づけを落とす。
千恵は、小さく首を横に振る。
――那由他が、これから何をしようとしているのかを察し、それを拒否して嫌々と幼い子供のように、首を左右に振る。
「――嫌! 那由他、ダメ……!」
まるで、千恵の叫びに応えるように。
――突如。
空気をつんざき、鼓膜が破れそうな豪音と共に、教会の庭に、稲妻が突き立った。