第肆話 an old story
「那由他様! ああ、こんなに傷だらけになって……」
身に着けた着物を、流した血でぐっしょり湿し、息も荒く地面に膝をついた彼に、チエは慌てて駆け寄った。
「……すまない。若造だと侮り、油断した私が悪かった。あいつめ……全く悪知恵だけは天下一品だな」
「モノノケ相手に、こう言うのも何ですけど……でも、それでも卑劣過ぎます! よりにもよって祓魔師と組むなんて!」
「私も、モノノケだぞ? 京と同じく、生き血を啜る鬼……化け物だ」
「違います!」
那由他の皮肉なセリフを、チエは即座にきっぱり否定した。
「人にだって、徳高き良き人も在れば、業深き悪しき者も居ます。モノノケだって、きっと同じです。那由他様は良きモノノケで、古よりこの地を守り続けて下さる土地神――ありがたい鬼神様です」
チエは、大量の出血で冷たくなった那由他の身体に寄り添い、誇らしげに笑う。
「私は那由他様にお仕えする、あなたの巫女。あなたを癒す糧となれる事、私は嬉しく思います」
そっと頬に触れたチエの手から流れてくる熱を感じながら、那由他はそっと目を伏せた。
「……巫女など。この地の民が私に供えた供物、要は生贄だ。なのに何故お前はそうして私に笑みを向けられるのだ?」
頬に触れるチエの手に、那由他は自分の冷たい手を重ねる。
「私がこの地で土地神と呼ばれるようになったのは、遥か昔の事。代々に亘り捧げられてきた巫女の数は両手両足の指の数では到底足りないが……皆、心底怯えた目をしていた」
「それは……村で行われている次代の巫女様を選ぶ儀式と言うのが、代々の村長の占いで。その占いというのが……村の年頃の娘たちの名を書いた切れ端を貼り付けた的目掛けて村長が矢を射るという……そのぅ、大変原始的……というか……正直いい加減なもので」
その矢に貫かれた切れ端に名を書かれていた娘が、次代の巫女として那由他に捧げられる。
「自分が巫女になるなんて、考えもしなかった娘が大半なんです。普通に恋をして結婚して、子を産んで育てて……。そんな普通の幸せを望む娘が、突然巫女にされるのです」
当たり前と思っていた未来の幸せを、突然奪われれば――
「不安に思って当然なのです。決して、那由他様のせいではない……」
コツンと額を合わせ、
「私のうちは……貧乏なくせに、きょうだいがたくさんいて。大姉さまは舶来物の反物を扱う大店へ、小姉さまは港の宿屋へ奉公に出ていましたし、私や妹たちも、遅かれ早かれいずれは何処か他所へご奉公にあがる事になっていました」
チエは静かに目を閉じた。
「でも、私は巫女になりたかった。あなたの巫女になるのが、私の夢だったから」
遠くで、祭り囃子の笛と太鼓の音がする。――今日は、村の春祭りの日。
「昔、村の禁域で迷子になった私を助けて下さった、優しくて綺麗な土地神様に、もう一度お会いしたかったから……」
「迷子……もしかして、10年前の……あの?」
「はい。あの時は……両親やきょうだいが、揃って風邪をこじらせて寝込んでしまって。でも、うちは貧乏でしたから。薬はもちろん、精のつく食べ物も買えなくて」
土地神である那由他が祀られた社のある山は、薬草も、木の実や山菜も豊富に採れるが、ここは神域であり、村では禁域とされている。
「けれど、まだ幼かった当時の私は必死になるあまり……禁を破って山へ登り……」
目につく薬草や山菜を夢中で採るうちに脇道へそれ、帰り路が分からなくなり……
「迷子になって、途方に暮れて……。泣きたくなっていた所へ……ふと現れ、麓まで手を引いてくれた方がありました」
面倒くさそうな顔をしながらも、幼子の足に歩調を合わせて歩き、別れ際には貴重な薬草を黙って渡してくれた。
それはとてもきれいな黒い髪と黒い瞳をした男の人。
「あの後、うちへ帰ってあの薬草を煎じて家族に飲ませたら、皆の具合もすぐに良くなって……。あの方が土地神様だったのだと……もう一度お会いして、お礼を言いたかったけれど……」
本来は、巫女に選ばれた者のみが入る事を許された場所だ。子どもがそう何度も立ち入れるような場所ではない。
「だから、あの年の春祭りの次代の巫女様を選ぶ占で、私が選ばれたと知った時……本当に嬉しかったのです」
5年に一度だけ、そこから先の路は拓かれる。前任の巫女が任を降りて山を下り、新たな巫女が任に就く為に山を登る路。
5年間、那由他に血を捧げ続けた巫女がそそくさと逃げる様に去っていくのを見送った翌日、新たな巫女を出迎える為、那由他はそこに立っていた。
哀れな生贄に、残酷な事実を告げる為、怯えきっているだろうはずの巫女を待ち受けて。
那由他とて、無駄な恐怖を与えたくてやっている事ではない。
下手に誤魔化すよりは、実際の所を正直に伝えてやる方が彼女たちの為には良いだろうという那由他なりの考えあっての事。
だから、縁日の屋台でも見に来た様な、実に楽しげな笑みを浮かべながらその路を上って来た、歴代の巫女の中でも比較的年若い娘を見て、まず拍子抜けした気分になったのだ。
そして、那由他の姿を見つけた少女の顔に、“花が綻んだような”と称すに相応しい、喜色に満ちた笑みが浮かぶのを見て、驚くと同時に憐みを覚えた。
きっと、まだ幼すぎて、自分に課せられた運命の意味をよく分かっていないのだろう。そう思い、那由他は子どもにも分かりやすい簡単な言葉を選びながら告げたのだ。
自分は村で言われている神と呼ばれる存在ではなく、ただのモノノケで。血を糧とし存在する鬼なのだと。
そう告げたところ、彼女はにこにこしながら「そうなんですか」と普通に相槌を打ち、「私はチエと申します」と、平然と自己紹介など始めた。
大いに調子を狂わされながらも、那由他はどうにかもう一つ、一番肝心な事を告げた。
巫女の一番大切な“仕事”の内容。那由他の糧として自らの血を捧げる事こそが、“巫女”としての最大の務めなのだと。
お前は生贄で、だからその血を化け物への供物として差し出せ、と。
そう告げられた途端、顔が恐怖で染まり、逃げ出そうとするも腰を抜かし、泣き喚く娘も少なくなかった。――というのに。
彼女はただ、不思議そうに少し首を傾げただけだった。
那由他はさすがに不安になってきた。
(どうしよう、この娘……馬……いや、少々頭が弱いのかもしれない……)
とにかく告げるべき全てを伝えるべく、言葉を継いだ。
巫女の任期は最低5年。任期を務めあげた後で巫女を降りて村へ戻ればその後の生活は充分な年金が保障されている事。しかし、任期の途中で逃げ出せば、一族郎党村八分にされるだろう事。
運悪く貧乏くじを引いたのだと諦め、5年我慢しろ、と。
そう、あの時那由他は言った。
そして、今日はあれからちょうど5回目の春祭りの日。5年に一度のその日、ここから先の路は拓かれる。
「お前にはもう、巫女でいなければならぬ義務は無い。私に血を捧げる必要も、もう無い。村へ……あの祭りの賑わいの中で、他の年頃の娘たちと同じように――」
那由他は、意地の悪い皮肉な笑みを浮かべながらチエに言う。
「好い男を見つけに行っても良いのだぞ?」
そっと、チエの首筋に視線を落とし、指で肌をなぞりながら。
「5年前のあの日……巫女として私の糧になれと言われて動じもしなかったお前なら、きっとどこででも強く生きていけるだろう」
言われて動じもしなかった……どころか、そう聞かされた直後に那由他の牙を受け、実際に血を啜られても尚、平然と笑い、この5年、くるくると良く働き甲斐甲斐しく那由他の世話を焼いてきた娘の、間近に迫る瞳に瞬間、怒気が閃いた。
ガツンと鈍い音と共に、視界に星が散る程の衝撃がもろに額に加わる。
……チエに頭突きを喰らったのだ。不意に離れたチエの体温を名残惜しく感じながら、那由他は顔を真っ赤にして憤慨するチエを呆けたような顔で見上げる。
両手を腰に当て、仁王立ちしたチエは、尻餅をついた格好の那由他を見下ろし、声高に宣言した。
「チエは、今も、これからも、ずっと那由他様の巫女です。村には戻りません!」
いつも笑っていて、滅多に泣く事なんか無かったチエの目から涙がこぼれた。
「だって……私が好いた方ならもう目の前にいらっしゃいますもの」
チエの顔が、更に赤く染まっていく。
「不敬だと……大それた想いである事は良く分かっております。でも、もしも許されるのなら……那由他様のお傍に在りたいのです」
「不敬……? 私は、神などではない。モノノケだぞ……?」
それも、生き血を啜るおぞましき化物。
それを怖れ忌避した村人たちが、自らに害が及ぶのを避けようと生贄を供物として捧げたのがいつしか因習として根付き、そのおぞましさを包み隠す様に、生贄は巫女と呼ばれ、化け物はいつしか土地神と呼ばれるようになっていたというだけで。
「生き血を啜らねば――巫女を欠かせば私は存在できない。私の傍に……私の巫女として在るという事は、私の糧で在り続けるという事だ。それを、お前は望むのか……?」
祓魔師につけられた傷は、モノノケであるが故の圧倒的な回復力で大半はもう治りかけているが、出血により大量に失った熱は、新たに生き血を吸い補充しなければ戻らない。
冷たく凍りついた身体は、チエの血を欲して飢え渇いている。
耳に届く、トクトク高鳴る心鼓が――こちらを見つめる、熱っぽく潤んだ瞳が――血が上り赤く上気した頬が――そして何より、真っ直ぐ那由他に向けられたチエの偽り無き想いが――那由他の欲を煽る。
そう、あの時も――。
本当なら、その必要はなかった。一昨日、前任の巫女から最後の吸血を済ませたばかりで、身体にはまだ熱と力が満ち溢れていたから。
しかし、百聞は一見に如かずと。実際に血を吸われれば、さすがに理解るだろう、と。
那由他は彼女の首に牙を突き立てた――のに、彼女は。
牙が肌に食い込んだ瞬間こそ痛みに顔を歪めはしたが、すぐにポーっと酔った様な表情に変わって。
……那由他と同種のモノノケには、血を吸う際に人を酔わす力がある。
元は本当に、酒に酔ったような酩酊感を与える程度のものだが、年を重ねる毎にその力は強くなり、百も歳を重ねれば性的な快楽に溺れさせる事も可能になる。
那由他ほどに年月を重ねれば、その力は更に強まり、吸血された人間は途方もない多幸感に酔わされることになる。
だがそれも、血を吸われている間だけの事。酔いから醒め、自分が何をされたのかを知れば……きっと。
――そう、思っていたのに。
ハッと、我に返り那由他を見上げ、彼女が最初に浮かべたのは――笑顔だった。
不安や恐怖を隠す為に無理に貼り付けたものではない、心からの笑み。
あの時、那由他は言葉を失い、脱力して近くの木に懐くしかなかった。
「私は、初めてお会いした10年前のあの時からずっと、那由他様の事が好きでした。この5年、毎日那由他様のお傍でお仕えし、日々を過ごす毎にこの想いは募るばかりで……もう、私一人では抱えきれません」
強張る身体でぎこちなく立ち上がり、餓えに揺れる瞳で那由他が見つめる先。
チエは着物の襟元を寛げて首筋を晒し、那由他を抱き込むように彼の頭部を引き寄せ、そこへ導く。
「この想い……私の心血の全て……那由他様に捧げたい――」
本能に抗い切れなくなった那由他が堪らず牙を剥き、チエの首筋に咬みついた。
牙が肌に刺さる瞬間に感じる痛みは決して小さくはないが、その痛みをやり過ごした後にやって来る感覚に、痛みなど記憶の彼方へ軽く押し流される。
――酔いそうなほどの、強烈な多幸感。
過去に那由他の巫女としてあがった少女たちは、当たり前の未来を奪われたせいでただでさえ不安感で一杯のところへ、自分が化け物へ捧げられた生贄なのだと告げられ、血を吸われて恐怖で満たされているはずの心が感じる、その感覚に強い違和感を覚えて面食らい、畏れた。
だが、チエは最初から人ではないと知りながら、那由他を好きになったのだ。
だから彼がまず初めに告げた“神ではなくモノノケ”宣言も、彼の自己紹介くらいにしか思わなかった。
血を捧げろと言われたのにはさすがに戸惑いはしたけれど、元々彼と再び会えた喜びで一杯だった心に雪崩れ込んだ多幸感に酔わされて、そんな瑣末な感情など忘却の彼方へ吹き飛び、ただ彼の傍に居られる幸せに、チエは心からの笑みを浮かべたのだ。
そして今も。チエの血が、奪われた生命力を満たし、凍りついていた那由他の心身を温め、傷ついた彼を癒しているのだ。
彼を癒す糧になれる事を嬉しいと思う事はあっても、血を吸われる事を嫌だと思った事は一度もない。
飢えを満たし、血で染まった唇を手で乱暴に拭う那由他を、やっぱりにこにこ嬉しそうな顔で見上げるチエを見て、彼は諦めたようにため息を吐いた。
「モノノケである私はお前たち人と違い、糧を断たれるか、余程の損傷を負わされぬ限りは老いも死もない」
寂しそうな顔で那由他は言った。
「チエよ、私と永久を生きる覚悟はあるか――?」