第参拾捌話 The false end
京が、驚愕の表情を浮かべている。――だがおそらく、自分も今、それに近い……いや、もしかしたらそれ以上に愕然とした表情を浮かべているのに違いないと、那由他はぼんやり考える。
しなやかな強さを持って掲げられた彼女の手を見つめながら、那由他は千恵の声に聞き入った。那由他の眷属らに呼びかける声。
その声に応え、集まった気配が千恵に懐き、歓喜に震える様を感じ取りながら、那由他はひたすら彼女の姿に魅入られ、動けなかった。
かつて、チエが那由他の巫女として山を駆け回っていた時分は確かに山に棲まうモノノケたちから好かれていた。少なくとも、ものを考えられる頭を持った者たちは、多くがチエを慕い、言葉を解すものたちと他愛ないおしゃべりを楽しむ様を見かけることも少なくなかった。
けれど、彼女に使役されるようなモノノケなど――迅のアレを除けば居なかったはず。
「……言ったでしょう? 大事なものは自分で守るって。あの日、あの時、もう二度とこんな思いをしたくなくて……。だから、那由他を開放するためにもって、力を得たのに……まさか――記憶を失くしていたせいで、秋刀を巻き込んだ上に守りきれなかったなんて……」
悔しげに強く握り締められた千恵の手から、血の雫がこぼれ落ちる。
「でも、もう、記憶を取り戻したもの。チエが命懸けで得た力と一緒に、ね。――あなたに風花は渡さない」
かつて。那由他を怖れる事なく笑顔を向けてきた、それだけで逞しい娘だと、そう思っていたのに。傷を負った那由他を、京や祓魔師から必死に庇おうと必死になる彼女をみて、強い娘だと、そう思っていたのに。
ほんの百年あまり寝こけていた間に、彼女はこれほどまでに強く、逞しくなっていた。――全ては、那由他のために、と。
千恵の手のひらからこぼれ落ちる血の雫を眺めながら、頭が痺れたように一つの事しか脳裏に思い浮かべられない。
この地の地霊たちを纏める彼女は、正しく地霊の主たる風格を備え、その姿はとても――美しい、と、那由他のぼんやりした脳裏に一際強く焼き付いた。
ポタポタと、次から次へと彼女の手のひらから血が滴っていく。
……モノノケを従えるのに、タダで済むはずはない。これだけの力を得るために、チエは一体どれだけ心身を削ったのだろう。
それなのに、またしても彼女の大切なものを失わせてしまったらしい。己の不甲斐なさが呪わしい。
那由他は、檻に囚われた風花をちらりと見やった。――花嫁にされただけであれば、まだ、なんとか間に合う。
何があっても、彼女は救わなければなるまい。千恵の、大事な友人なのだから。彼女の大事なものを守る、と、そう誓ったのだから。
「主、今です! ――早く!」
迅が、叫んだ。
ハッと、我に返る。京は、太い木の幹に土龍の身体に動きを封じられ、身をよじっている。
彼を封じるのに、今ほど絶好の好機はない。
那由他は頭を振って頭の痺れを払い、声高に命じた。
「風伯、その眷族たる鎌よ、我が声に応え、具現せよ! 切り刻め!」
京は、己の同族。何をすれば命取りになるか、那由他は他の誰より知り尽くしていた。
鎌鼬が、綺麗すぎる京の肌に、無数の切り傷を拵え、パッと血の花を周囲に飛び散らせた。
「刻め、そのまま……、完膚無きまでに切り刻め!」
那由他は己の牙で自らの手首を咬み切り、その血を風狛の糧とし、更に命じる。
「鬼火たち、奴に取り憑き、燃やせ! 龍精よ、奴の血を喰らえ!」
京の身体にまとわりつく土龍たちが鎌鼬が作った傷に喰らいつき、あふれた血を啜る。
ちろちろと、鬼火が京の体を少しずつ炎で包んでいく。
那由他は、眷属らに命じながら、自らも術式を編み出す。――より強固な拘束の術式。
眷属らの力は、あの日に比べ弱まっているものの、那由他自身の力は、祓魔師に傷つけられ、弱っていたあの時と違い、ほぼ万全に近い状態だ。
それでも、那由他は油断なく己の力の全てを以て、術を編んでいく。
己の血で作った印――勾玉の形をしたそれを、京に向けて放る。1つ、2つ、3つ、4つ、5つ、6つ――。
全部で6個の勾玉は、京の背の木ごと彼を囲うように円を描き、宙空に静止した。
――と、思えばそれらは互いに血のように赤い光を放ち、ある図形を宙に描き出す。
「籠目……?」
千恵が小さく呟く。六芒星とも言う、それは封じの意味を内包した形。
かつて、あの安倍清明と共に名を知られた蘆屋道満が用いたとされる、形。
星の中心の六角形の中に、京が押し込められる。星はどんどんその大きさを縮め、京を完全に木に拘束した。
京が逃れようと、どんなに必死にもがいても、幾度鎌鼬が京に切りつけても、土龍たちが京を締め上げても、鬼火たちの炎でさえ、それはびくともせず、京を強固に縛り付ける。
それを見届け、千恵がふらりとよろけた。
那由他は慌てて彼女に駆け寄り、その身体を支える。よく見れば、彼女の顔が若干青白い。――当然だろう。ただ人の身であれだけのモノノケを使役したのだ。喰らわれた血は、決して少なくないはず。ましてや、ここ数日の間に、那由他自身ががさんざん彼女の血を喰らった後だ。
むしろ、よくぞここまで身体が保ったものだと感心する程だ。抱き留めた彼女の身体を、那由他はそっと地面に座らせる。
「……千恵」
那由他は、血で汚れた千恵の右手を取り、そっと口づけを落とした。かつて、自らの印を刻んだその場所――。
「千恵――、お前が、私の巫女で……本当に、良かった……」
小さく呟き、那由他は立ち上がる。千恵の身を迅に預け、振り返る。恨めしげにこちらを睨む京の前に、那由他は立つ。
「さて。彼女をお前が花嫁と定めてしまった以上、最早封印という手段を選ぶ余地はなくなった。――お前を完全に滅ぼす以外に、彼女をその運命から開放する術がないのでな」
那由他は緋く染まった瞳で京を見下ろし、冷たく言い放った。――その瞳には、言い知れない怒りがこめられている。
「お前の魂、この那由他が今この場で喰らい尽くしてくれよう。正直、貴様の魂の味など知りたくもないが……こうなった以上仕方あるまい。お前の力を喰らい、彼女を開放してやらねばならないからな」
那由他が、がしりと京の頭を鷲掴みにして木の幹に押し付け、顔を無理矢理仰向かせる。
そして、顕になった喉笛に、容赦なく噛み付いた。
那由他の牙が京の喉笛に深々と突き立てられ、京の喉を喰いちぎらんばかりの勢いで食いつき、血を啜り上げる。
普段、チエの血を啜る時には決して見せなかった、荒々しい、獣じみた吸血。正しく、モノノケの本性をむき出しにした、相手を喰らい尽くすための本気の吸血だ。
京が、逃れようと必死にもがくが、拘束はまるで緩まない。京が、徐々に苦悶の表情を深めていく。
同族同士の喰らい合いに、吸血に伴う快楽の魔力は一切効果がないのだ。
ただ、己の存在を喰らい尽くされ、消えゆく運命に慄きながら食われる苦痛を味わい続けねばならない。
「ぐっ――!」
京の口から、小さく苦悶の呻きが漏れる。那由他に血を啜られ、ぴくぴくと痙攣を繰り返していた京の手や足の先が、ぴたりと動きを止めた。
元から白かった彼の肌は、まるで石膏のような艶のない白へと変わり、端からサラサラ身体が崩れていく。
「――終わりだ」
那由他が、京の喉元から牙を抜き、血に染まった口元を手で乱暴に拭った。
サラサラと、京の身体が端から塵へと成り果てていく。
「鬼火たち、そやつの身体、塵一つ残さず燃やしつくせ」
最後に、そう命じ、那由他は消えゆく京に背を向け、千恵のもとへ駆け寄った。
――だから。那由他は、京が最後に浮かべた表情を見逃した。
ニヤリと、浮かべた意味深な笑み。
那由他と京との本来の力の差を考えれば、そう不自然ではない幕切れのはずが、何故か見る者の不安を掻き立てる笑み。
だが、それを那由他は見逃した。――そして千恵も。ちょうど、那由他の身体に隠れ、死角になっていたせいでそれを見逃した。
けれど、一度は疑ってかかるべきだったのだ。何しろ、まだ一人、本日の行方不明者の行先は一向に判明しないままだの人物が存在していたのだから――。