第参話 take on oath
悲しくて、悔しくて。
心にぽっかり空いた埋めようのない喪失感に、どうしようもないやるせなさ。
固くて冷たいそれに取りすがり、声を詰まらせながらむせび泣く。
冷徹なばかりの真っ黒い棺桶。蓋に描かれた銀の十字架は、この棺の中に納められたチエの大切な人を更に傷めつける為の印。
(……せめて、安らかに眠らせて差し上げたいのに)
チエは己の無力を呪った。
「あなたは、悪魔に騙されていたのですよ」
憐憫の情を声音に乗せ、静かにそう言いながらチエの肩に手を置くのは、この教会の神父を務める祓魔師。
チエの大切な人を、この棺に閉じ込めてしまった張本人である。
「彼は悪魔などではありません。……本当の悪魔に騙されているのはあなたの方です」
だが、海を渡ってこの国へとやって来てまだ日の浅い神父は、チエの言葉を肩をすくめただけで聞き流し、
「淑女、あなたは悪魔のまやかしで混乱しているのですよ」
棺に取りすがるチエをそこから離す為に、肩に置いた手を引く。
「那由他様……申し訳ございません。今の私に、力が足りないばかりに……封印を解けず……苦しむあなたに寄り添う事すら叶わない……」
男の腕力の前に、女の力で抵抗するのは難しい。意思に反し、チエの身体は棺から引き剥がされる。
「ですが……お約束いたします。いつの日か必ず、あなたをここからお救いする術を携えて参りましょう」
チエは棺の中の彼に、誓いの言葉を捧げる。
「どうか……その日まで……」
しかし、その後に続ける言葉に詰まる。
「那由他様……」
最後にもう一度、愛しい人の名を棺に投げかけ――棺の安置された部屋の扉が無情にも閉じられ、彼との間に壁となって立ち塞がるのを、想いの心を断たれる痛みをじっと堪えながら眺める。
きゅっと、胸の前で固く拳を握り、その心の痛みに改めて強く誓う。
「必ず、戻ります。愛しい、あなたの許へ……」
今の自分ではいつまでもここに突っ立ていた所で出来る事など泣く事以外何一つ無い。
掴まれた腕を振り払い。
チエは教会に背を向け、歩き出した。――真夏の日差しが照りつける日なたの、その向こうへと。
「いつの日か、またお会い致しましょう……那由他様……」
最後にもう一度、再会の約束を小さく呟いて。
そして彼女は、この小さな港町の村を旅立った。
いつ終わるとも知れない旅路へと。
その背に、昼の12時を告げる教会の鐘の音が響いて――
――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……
「なゆた、さま……」
呟き、腫れぼったい目蓋を持ち上げる。……泣き過ぎたせいだろうか、頭が痛む。
「……目は、醒めたか?」
額に当てられた冷たい手の感触が気持ち良い。
遠くで、教会の鐘の音がする。ゆるゆると時計に目をやれば、針は12時を指している。
「あれ……私……」
涙に滲む視界を乱暴に拭いながら、千恵は半身を起した。
「もう、良いのか? ……気分は――」
耳朶に響く、落ち着いた声音が心地良い。
「あ……、はい……」
ここは……保健室。
「……あれ、私、何でこんな所に――」
いるんだっけ、と。その先の思考へと頭を切り替える前に、背筋が凍る様なあの視線の記憶が蘇る。
「京……」
それは今朝の――HRが始まる少し前。
「昨日はどうしたんだよ、千恵?」
いつもと同じくがやがやと騒がしい教室で、そう夏也に問われ、千恵は予め用意していた答えを返した。
「ゴメン、人混みとか大音量に酔って気分が悪くなっちゃって」
「は、酔った……って、千恵が……?」
しかし、夏也は怪訝そうに眉をひそめた。
「乗り物はもちろん、遊園地のコーヒーカップをメチャメチャに回しまくってさえケロッと平気な顔してるお前が??」
遊園地――と言ってもデートとかの話じゃない。大昔、夏也の家族と千恵の家族とで一緒に出かけた、まだ普通に幸せだった在りし日の記憶。
全く、こういう時、幼馴染みというのは厄介だ。なまじ互いを知り尽くしている分、この手の誤魔化しを成功させるのは至難の業だ。
――だが、真実を話した所で……どうなるというのだろう?
千恵はため息をついた。
京に港の倉庫街に無理矢理連れて行かれて襲われそうになった所を、見ず知らずの男に助けられて……その途中で気を失い、その後の記憶が一切無いまま、目を覚ましたらいつの間にか自宅のベッドの上で眠っていただなんて。
京の目が、赤く光って……まるで人じゃないみたいな動きで襲いかかって来て……。
そして、助けに入った見ず知らずのはずの男に胸を焦がしただなんて。
夏也どころか誰一人……正直、自分自身だって納得させられる自信が無い。
……昨日の様に、自分自身の預かり知らぬ心の奥の感情が、自分の制御の利かない場所で揺れ動くのは、何も初めてでは無い。これまで、幾度かそういう事はあった。
例えば、泊まりがけの旅行に行ったりして、この街を幾日か離れると、何故だかどうしようもなく不安な気持ちになる。
いつでも、何か欠けている気がして。
だが昨日、彼を見た瞬間、その欠けた部分の隙間を埋めてくれた甘くて暖かい優しい何かが、今朝起きて彼の姿を視界に収めることが叶わなかった時、再びそれが溶けて流れ出した。
そうして再び冷たく空いた心の隙間を、千恵は自覚せざるを得なかった。
チャイムが鳴る。HR開始の鐘。そしていつもと同じように、チャイムが鳴り終わるとほぼ同時に教室の前の扉が開き、担任の男性教師が教室に入って来る。
だが、今日に限ってはその後ろからもう一人、先生に続いて教室に入って来た。
瞬間、女子が浮足立った。
カツカツと、担任は黒板に白チョークで大きく彼の名を書き出した。
――百世京
透き通るような白銀の髪。真っ白な肌。くりっと幼さを強調する丸っこい目に埋まる瞳の色は――髪色に比べて少し灰の色味の濃い白銀。
甘い面に、魅惑的な笑みをのせて。
「転校生の百世君だ」
ごく短い、担任の紹介の後で、
「……皆さん、すでに僕の顔と名前はご存じいただいているかもしれませんが。改めまして、今日からお世話になります百世京です。放課後はバンドやってて。『レイブンズ』って言うんですけど。そこで僕はヴォーカルやってます。ちなみにこの髪と瞳の色はたった8分の1の北欧の血が強く出ちゃったせいで、僕自身は完全に日本人。もちろんカラオケとか大好きなんで。バンドの練習ある日はダメだけど、そうじゃない日はぜひ誘って貰えると嬉しいな」
……と、ライブのステージ上や、ましてやあの時の様な攻撃的な態度はおくびにも出さず、甘い声音で語る声を聞きながら。
千恵は、全身の血の気が一気に引いて行く音を、耳の奥で聞いた。恐怖に息を飲み。
怯えを隠す余裕さえ無い千恵を見つけた京は、楽しげな微笑みを浮かべてこちらに視線を向ける。
彼の視線に射竦められた千恵の背筋を滑り落ちて行った氷塊が、全身の血を凍りつかせていく。
――千恵の精神が、その恐怖と緊張に耐えられたのはそこまでだった。
千恵は、教室で卒倒するという、夏也に言わせれば真夏に雪が降るくらいに珍しい失態を演じ、保健室にかつぎ込まれて――。
彼は一体何者……というかそもそも人間なのだろうか?
……人でないとするなら。一体、何だというのか。
「京、というのは昨日の男の名か?」
「……え?」
投げかけられた問いに、千恵は声の主を見上げた。
「……そうか。完全にのしたつもりだったが、日が昇るまでの僅かな時間にこれだけ回復できるとは……大したものだな。成る程、それで同じ室の中で共に勉学に励む事になったらしい、と」
千恵が答える前に、微妙に焦点のずれた彼の瞳が、宙に浮かぶ視えない何かを読み解く様に揺らぎ、千恵の記憶ほぼそのままの今朝の様子を口にした。
あまり具合の良くなさそうな青白い顔の眉間にしわを寄せながら、彼は気遣わしげな視線をこちらへ向けた。
その、思わず惹き込まれそうになる綺麗な黒い瞳に映り込むのは、驚きに目を見張る千恵の顔。
「愛羽千恵よ。あれが何か知っているか?」
咄嗟に言葉が出ずに、辛うじて首を左右に振った千恵を見た彼は困った様に、さらりと流れる癖の無い艶やかな黒い髪を無造作に掻き上げ、
「何やら、私とも因縁のありそうな様子であったからな……。外国から参った私の同族、というのは分かるが……」
じっと千恵の瞳を視線で捉えたまま、
「余りに長きに亘り封印されていたせいで記憶が混乱している」
まるで道着の様な、上下とも墨染の袴を着こなした男は、
「身体も、まだ万全には程遠い……」
その襟の合わせから覗く胸板に右手を置き、
「だが、一つだけ確かな事がある。私を封印の眠りより喚び起こし、今この瞬間も私を乞うているのは……」
静かに告げる。
「……お前だろう? 愛羽千恵」
名乗った覚えもないのに、彼は当たり前の様にその名を口にする。
「目覚めた瞬間から、こうも私の心を占める……お前は一体、何者だ?」
だが、問われた所で千恵には答えようがない。
というかむしろ、千恵こそが彼に問いたかった。
「私は、気の遠くなる程の昔に大陸から渡ってやって来た、生き血を糧とし存在するモノノケだ。この辺りに棲まうようになってからはこの地の民に祀られ土地神と称される様になったがな」
西暦も2000を越して久しい科学の時代で、彼はそう平然とのたまった。
だが。
……生き血を求めるモノノケ、というのはつまり――
「吸血……鬼……? 京も?」
赤く光る瞳と、上顎の異様に大きな対の犬歯が、脳裏に蘇る。
「そうだ。……私と比べればはるかに若いが」
京に感じる恐怖と嫌悪。
しかし、彼と同族だと自ら認めたこの男に千恵が抱くのは――“今この瞬間も私を乞うている”と、男が言った通りの、京に抱くそれとは真逆の感情。
「封印にあらかたの力を奪われ弱体化している今の私では、正直どこまで渡り合えるか自分でも分からない」
自らの手を眺めながら、
「一応、土地神でいる以上は、この土地の者に害を為すものを放置できない。だが、今のままでは力が足りない」
苦い笑みを浮かべ、
「あれは、お前を狙っている様だったが。お前に、あれから身を守る術はあるか?」
千恵に問うた。
首を横に振る千恵に、那由他は――
「愛羽千恵。……私と、契約を結ばぬか?」
一つの提案を交渉の卓に乗せた。
「……私は、長き封印の最中、糧を得られず飢え渇いている」
さっき、彼は言った。
「糧を得さえすれば混乱した記憶も、力も、自然と戻るはずだ。……私はモノノケだ。本来神と呼ばれる存在とは違うが、それでも土地神を自負する身だ。狩りと称してそこらで見境なく人を襲う化け物に身を堕とす様な真似はしたくない」
生き血が糧なのだと。
「――愛羽千恵よ。お前の血を供物として私に捧げろ。代わりに、私の加護をお前に授けてやる」
千恵の血を糧として差し出す代わりに、那由他が千恵を守る。
――それが、彼の提案。
現状、京という差し迫った危険から身を守る術など持たない千恵がその案に否やを唱える余地など、あるはずもない――のに。
「……案ずるな。今ここで無理強いするつもりはない。いきなりでは、混乱もあるだろう。一晩、考える時間をやる」
言いながら、那由他はそっと千恵の手に何かを握らせた。
「……考えを決めるまでは、それを持っていろ。長くは保たないが、一晩くらいの間なら、京避け程度の効果はあるはずだ」
そっと掌を開いてみれば、それは真っ赤な勾玉の根付で。
「明日の朝、神社の祠で待っている」
それだけ言い置いて、彼は部屋から出ていく。窓から、身軽に飛び降りて……。
そうして、目の前から彼の姿が消えた時、千恵の心の奥に浮かんだのは一抹の寂しさで。けれど、手に残された勾玉を見下ろせば、心の奥がほっこり暖かくなる。
「千恵ぇ? 目ぇ覚めたのか?」
からり、と保健室の戸が開き、夏也の声がした。
「全く、千恵が倒れるなんて……何の天変地異の前触れなんだか。昨日といい今日といい……そんなに体調悪かったのか?」
ずかずかと、遠慮なく千恵のベッドの脇に歩み寄ると、丸椅子を引き寄せて腰掛け、ベッドの上にドカッと千恵のカバンを乗せた。
「もう、昼休みだ。……どうする? 早退するか?」
決まり悪そうに、夏也があさっての方を眺めながら、
「……悪い。昨日も気付かないで夜遅くに連れ出したりして……。帰るなら、俺、送って行くよ。おふくろに頼んで粥くらいは差し入れてやるし」
そう呟くのを、騒々しく扉を開ける音が遮り、
「千恵、大丈夫!?」
ここがどこだか分かっているのか甚だ疑問の浮かぶ、通りの良過ぎる大きな声で割って入って来たのは――
「……ゴメン風花、心配かけちゃって。大丈夫、大した事は無いから」
夏也をどついて椅子を奪った親友に苦笑を向けて千恵は答えた。
「やあ、大丈夫かい? 2日続けて僕に会えたのが気絶するほど嬉しかったとか?」
もう一つ続けて部屋へ入って来た声に、
「千恵ってば、あのレイブンズのヴォーカルといつ仲良くなったの? 私、前からファンだったのに!」
この幸せ者め~、と、何も知らない風花は千恵を肘でつついてからかうが。その横で、夏也は面白くなさそうに尋ねた。
「風花、お前もか……。でも、転校生が千恵に何の用だ?」
「やだなぁ、保健室で寝ている女の子を尋ねる理由なんて一つしかないだろう?」
千恵は、縋る想いで手の中の勾玉をギュッと握りしめ、身を固くした。
クスリと微笑んで、京は平然と千恵の居るベッドへ近づいてくる……が、途中でギクリと突然歩を止めた。
「……君。その手に何を持ってる?」
微妙に強張り、引きつった表情で京は尋ねた。
「ん? ……あ、勾玉のストラップ。千恵、そんなの持ってたっけ? へぇ、可愛いじゃん、どこで買ったの?」
「……那由他か」
京は小さく呟き、そして踵を返した。
「京クン?」
風花が不思議そうに呼び止めると、
「……隣の彼氏クンに噛みつかれそうだから。今は身を引いておくよ」
不敵な笑みを浮かべつつも、足早に部屋を出て行く。
「あー、行っちゃった……」
風花は残念そうに呟いたが、千恵はホッとしながらもう一度掌の中の勾玉に目を落とした。
今の彼のあの反応は、やはりコレのおかげなのだろうか……?
「風花、お昼は?」
「んー、購買行こうか学食行こうか迷ってたトコ」
「なら、一緒に学食行かない?」
ベッドから降りながら、千恵は風花を誘う。
「ちょっと、疲れが溜まってただけなの、ホント。午前中ずっと寝てたら随分楽になったし、お腹も空いたし。この後は現国と日本史だけでしょ? ……それより夏也、帰ったら今日の午前中分のノート、貸してくれない?」
「さっきメールで……おふくろが、今晩メシ食いに来いってさ。そん時にでもコピーをやるよ。それより、俺も学食行く。ラーメン食いてぇ……」
「じゃあ行こう、早くしないと席が無くなるよ!」
追い立てる様に2人の背を押し、保健室を出る。せめてあともう数時間、当たり前の日常に浸っていたくて。
千恵は、那由他の勾玉を制服の胸ポケットにそっと忍ばせた――。