第弐拾捌話 The old me and the current me
「あー、もうヤダー! 疲れた! なんでこんな朝っぱらから外でマラソンなの? 」
学校の敷地の周囲をぐるりと一周回る、外周コースを走りながら、風花は半ば叫ぶように愚痴をこぼした。
――今日の一限目は体育。
HRが終わるなり、女子は急いで更衣室へ移動し、着替えて校庭に出た。
先週まではソフトボールだったのだが、今日からは来月末、試験の直後に控えるマラソン大会に向けての練習ということで、長距離走へと授業内容が変更になったのだ。
「百歩譲って、それはいいとしてもさー。何で女子だけなの? 男子は体育館でバスケだってのに!」
不満たらたらの風花には悪いが、千恵としては少しホッとしていた。
男女別の授業なら、ひと時ながら京から離れていられるし、何より。
千恵は切実に一人で考える時間が欲しかったから、持久走はそれにもってこいだった。
那由他から受けた、ひとつの提案。
『もう一度、やってみるか?』
あの、証分けの儀式をもう一度――。
正直に言うなら、見てみたい、と思う。記憶の中の姿ではなく、自分のこの目で見てみたい。
けれど、千恵はその思いに戸惑う。
(だって、チエは私、でしょう?)
だけど、明確に那由他に向ける想いの質が違うことにもう、気づいてしまった。――あの頃と、全く同じ思いに還ることはもう、出来はしないだろうことに。
那由他のを好きなことには変わりはない。那由他が何ものであろうと、傍に居たいと思うその心は変わらないけれど。
チエにとって、那由他は“神”であり“殿方”でもあった。
そう、まさに時代だ。
子ども時分ならまだしも、いい歳をした女が男より出しゃばれば即眉をひそめられる、そんな時代にチエは生まれ育った。
現代だって、女性の立場は欧米に比べれば遥かに遅れているとされている。だが、それでも当時と比べれば雲泥の差がある。
当時であれば考えることもできなかった選挙権を持ち、男性と同じ学舎で学び、大学まで卒業する者も少なくないし、男性と同じ職場で働き、政治の世界にまで進出している事が当たり前とされる時代に、千恵は生まれ育ったのだ。
神についてもそうだ。もちろん、現代だって神は敬うべき存在。それに変わりはないはずだけれど、“宗教の自由”がうたわれて久しい今、神の存在自体を疑うものも少なくない時代に生まれ育った千恵にとっては本来、“モノノケ”という存在自体縁遠いものだった。
かねてからの因習も手伝って大変信心深い者の多い村で、常に山神様への畏敬の念を、彼を慕う心と共に抱き続けながら育ったチエ。
あまりに違いすぎる環境の中で育まれたあらゆるものに対するものの見方、考え方の違い。
チエは、千恵。――そのはずなのに、どうしても違和感が消えない。
自分自身の預かり知らぬ心の奥の感情が、自分の制御の利かない場所で揺れ動く。その正体が、千恵の前世――チエとしての記憶だと分かった後も尚、まだそれが完全に自分自身の感情であるとは言い切れない。
千恵自身が知る那由他は、既に土地神として、地霊の主としての資格を半ば失いながらも尚、律儀に神として己を律する生真面目な“モノノケ様”。
そのくせ、自分の存在意義を見失いかけて自虐的なセリフばかり口にするから、放っておけなくて、傍で支えたいと思うようになった。
まあ、那由他が自虐的なセリフをよく口にするのは今に始まったことではないのだが……。
チエが那由他に想いを告げた日。あんまりな事を言ってくれるものだから、思わず頭突きなんかかましてしまったけれど。
普段であれば、いくらお転婆がデフォルトだったチエでも、那由他に手を上げるなんて考えられなかったはずだ。
チエにとっては最初から、那由他は“土地神様”であり、常にその自覚と誇りを持って勤めに励む姿に惹かれ、想いを募らせていった。
多大な負荷を承知で勤めに励みながら、土地のものには忌まれる彼の心の孤独に寄り添い、それを癒して差し上げたいと願った。
想いの質と温度が、今と昔で微妙に違う。
『一度転生すれば今ある記憶は全て魂の奥へ封じ込められ、新たな生ではまず思い出せなくなる』
そう、確かにあの時告げられた。
『……事実、前世の記憶など今思いだせるか? 思い出せないであろう?』
確かに“チエ”の前世の記憶は無かった。今も、千恵はそれを思い出すことはできない。
だけどあの時、チエには記憶を戻せる確信があったから。――だから、迷わず頷いた。
そして実際、記憶はこうして取り戻した。
記憶さえ戻れば、何の問題もなくまたチエとして那由他の傍に居られると、そう思っていたから。
(――あの頃見たものと同じものを、私自身の目でみたら……この違和感は消える? ……でも、チエとしてって、そうしたら千恵は? 私の気持ちはどうなるの? ううん、チエは、私。でも……)
チエの両親は、当たり前だがとうの昔に亡くなり、もうこの世にはいない。共にやんちゃをした兄たちも、先に奉公に上がった姉たちも、弟妹たちも。
彼らはチエの家族で、千恵の家族ではない。
千恵の家族は単身赴任中の父と、今は父と一緒に暮らしている母、そして一昨年亡くした弟の秋刀。
記憶や魂はともかく、人間としては完全に別個の存在。
チエの一番上の兄が、千恵の曽祖父の祖父に当たる人だから、一応血の繋がりはあるとはいえ……。
面差しだってそう大して似ていない。
那由他の傍に居たいと思う、その気持ちに違いはないのに、ここまで思い悩む理由。
(チエが命懸けで果たそうとした誓いを、特に何をしたわけでもない千恵が美味しいとこだけ貰っちゃっていいものなの?)
証分けの儀式のため、那由他が負う負荷は決して軽くはない。大した成果の期待できないそれを那由他にさせるのか?
(もっと早く転生して、もっと早くに那由他を救い出せていたら、那由他の加護が完全に途切れる前に助け出せていたら、那由他は今も昔と変わらず土地神で居られたかもしれないのに)
だが仮定とはいえ“それ”は“千恵”とはまた別の人間とて生を受けた場合の話となる。
そう、別人。
(あ……)
魂と、記憶は確かにチエのもの。
でも、今ある肉体と、それに宿る精神は千恵のもの。
前世の記憶の垣根は外れても、やはり2人は別の人間、違う存在なのだ。
そして、今在る現実も。
かつての当たり前を本当に取り戻すことは……現実的に不可能で。
(新しく……見つけていかなきゃならないんだ)
那由他と共に永久の生を歩む未来図を新しく描き直さなければならないのだ。
(でも……那由他は? 那由他が好きだったのは……那由他が契約を結ぼうと思ったのはチエと、でしょう?)
千恵と、新しく契約を結ぶ約束を彼はくれたけれど。
(あの時はまだ、私、チエの続きにいるつもりだったから……)
那由他は、チエではない千恵でも……共に居たいと思ってくれるだろうか?




