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第弐拾陸話 old memoly and new memoly

 聞きなれた、ケータイのアラーム――風花とおそろいの、人気アイドルグループの曲で、千恵は目を覚ました。

 窓にかかったカーテンの向こうからでも十分すぎる光量で部屋を明るく照らしている。


 ――時計は……6時。起きて、身支度を整えて、食事の支度をしなければ。

 普段であれば、つい憂鬱になりがちな月曜日の朝。

 だが、千恵の心は憂鬱どころか、つい踊りだしてしまいたくなるほどに弾んでいた。


 彼の食事の支度をするのも、彼の巫女として重要なお役目の一つ。

 彼により喜んでもらえるような献立を考え、調理をする。朝一番のそのひと手間でさえ、チエにとっては至福のひと時だったのだ。


 ……そして、千恵も。

 前世の記憶を取り戻し、ようやく自分の心の奥底に存在していた感情の正体を知ることができた今、実に爽やかな朝の目覚めの時を得ていた。

 いつも、何か足りない気がしていた、虚ろな心は今、溢れんばかりに満たされている。

 

 「京の件が片付いたら。千恵、契約を、交わそう。今度こそ、必ず」


 那由他から貰った、大事な約束。――今度こそ、必ず果たすべき大切な誓い。

 『チエ、私のつがいとして永久の生を生き、私の仔を産み育てる未来を歩む――その覚悟はあるか?』

 あの時、そう問うた那由他に、チエは迷わず是と答えた。

 

 だが、その記憶を今、千恵として改めて振り返ると、羞恥で身悶えしたくもなるのだ。

 ――時代、なのだろう。

 あの時、子を産み、育てる……その未来を思い描いたその脳裏に、その為に必要なあれこれの正確な知識は、正直皆無に等しかったのだ。

 ……つまり、彼の子を授かるために必要な行為について、ほぼ無知に等しかったのである。


 『一応念の為に忠告しておこう。……モノノケとて人の姿かたちをとれば、子作りはできる。今後の為にも……良く覚えておけ』

 あの日、那由他を家へ招こうとした際、彼に言われた台詞が脳裏に響く。

 『私は人ではなくモノノケだが、……それでも“雄”だ』


 現代では、小学校高学年あたりから、男女別に“性教育”なる特別授業が組まれたりしているし、そうでなくとも漫画や少女小説など読めばそれなりの知識は得られる。当時のチエと違い、今の千恵にはその知識があるのである。

 ……いや、正直本当に細かい、正確な知識については色々あやふやではあるのだが。

 それでも。

 (い、嫌ってわけじゃないんだよ、那由他のことは好きだし、血を吸われるのだって嫌じゃないし、……触れてもらえるのだって、嬉しい、し)

 ――それでも、何も知らず純粋に喜べたチエとは違い、どうしても羞恥と混乱の方が先に立ってしまう。

 (うう……、ホント、夏也が平気で家に上がり込んでくるその延長線上みたいなつもりだったのに。あれって……やっぱりそういう意味、なんだよね)


 千恵は両手で顔を覆った。

 (あああ、朝から何考えてるんだろう、私。もう、早くご飯の支度しなくっちゃなのに。だいたい――)


 そうだ。それより前によっぽど考えなくてはならない重大事項があるではないか。

 (……京)

 背筋が、ゾクリと冷える。

 チエの記憶を取り戻す前から、何か嫌な感じはしていたのだが、“あの時”の鮮明な記憶を取り戻してしまった今、恐怖と嫌悪で頭がいっぱいになる。


 ある夜。那由他が『ちょっと野暮用を済ませてくる』と言って出かけて行った後で、小屋へと侵入してきた彼は、『ああ、君が――やっと見つけた、僕のイヴ……』と、何やらうっそり目を細め、『怖がらなくていい。すぐに済むよ、痛いのは最初だけ、すぐに気持ち良くしてあげる。さあ、僕の印をその身に刻み、僕のイヴとなれ』言いながら、チエを捕まえようとした。

 全く、良い予感はしなかった。外には迅が居たはずなのに。

 争う物音がして、一度、迅の遠吠えが聞こえたが、それきり……。迅の唸り声はすれども、助けに来てくれる気配はなかった。

 チエは、台所から鉈を取り出し、応戦しようとしたものの……普通の人間では有り得ない――まるで那由他様のような――素早い身のこなしをする彼に易々と捕らえられてしまった。

 あの時は、那由他様が助けに来てくれた、けれど。

 那由他様に退治されたものと思い込んでいたのに。再び現れた京に捕まり……着物を乱され、無理矢理胸元や首筋に幾度も口づけられ……。

 そのおぞましさといったら。……正直、思い出したくなかった。

 だけど、助けに駆けつけて来てくれた那由他から、それと同じ事をされた時は……


 (って、だから朝っぱらから何思い出しちゃってるの、私!?)

 余計なところまで思い出しかけて、一気に顔が火照り出す。

 

 「――とっ、とにかくご飯! ご飯の支度しよう!」

 頭に浮かびかけた光景を振り払うように、千恵は勢いよく部屋の扉を開けた。

 丁度その時、まるで図ったかのような絶妙なタイミングで向かいの引き戸が開いた。

 「うわあぁぁぁっ!」

 中から出てきた那由他に驚き、千恵は思わず叫び声を上げた。

 出会い頭に突然悲鳴をあげられた那由他は、怪訝そうに眉を潜める。


 「なんだ、いきなり。人の顔を見て化け物でも見たような悲鳴をあげて」

 「まあ、確かに化け物には違いないですがね、俺も主も。……けど、そんなもんで可愛く悲鳴を上げるようなタマじゃないでしょう、チエ様は」

 その背後から、のそっと鼻面をのぞかせた迅が訳知り顔で会話に口を挟んだ。

 「だいたいね、そういう理由で悲鳴を上げるなら、もっと青ざめた顔するでしょ? ……チエ様ってば、顔真っ赤じゃないですか。なーんか妙な想像でもしてたんじゃ――うげっ」

 にやにやとしたり顔で自説を説いていた迅の鼻面に、千恵の拳骨がクリーンヒットを決めた。

 迅は2本の前足で鼻をおさえ、涙目になって床を転げる。――鼻は、イヌ科の動物の急所の一つなのである。

 「ご、ごめん。ちょっと驚いて思わず叫んじゃっただけなの。何でもないから! ご、ご飯の支度、してくるね?」

 

 脱兎のごとく駆け出し、足音も高らかに慌てて階段を駆け下りていく、千恵。

 しかも最後の段を踏み損ねてこけかけたらしい物音と小さな悲鳴までもが那由他の耳に届く。


 「……何なんだ、いったい」

 「おー、痛え。相変わらず容赦ねえなあ、チエ様……。けどまあ、つまりは図星だったってことでしょう?」

 「図星? 何がだ」

 「だからぁ、主のことを“雄”だと再認識しちまったっってとこでしょう。チエ様も年頃の娘、昔の記憶を取り戻したばかりでまだ混乱してるんじゃないんすか? ……主も、何だかんだ言いながら、あれこれ結構大胆なことチエ様になさっていたじゃないっすか」

 「――っ」

 迅の指摘に、思い当たるフシのあった那由他は手で顔を覆い、ふいっと目を逸らし、視線を泳がせた。


 『私は人ではなくモノノケだが、……それでも“雄”だ』

 それは、確かに彼女へ向けた警告の言葉。

 『一応念の為に忠告しておこう。……モノノケとて人の姿かたちをとれば、子作りはできる。今後の為にも……良く覚えておけ』

 あまりにもあけすけで無防備な彼女に、警戒心を持たせようと告げた言葉。


 ――だが……時代、なのだろう。


 当時のチエと、今の千恵。年頃はそう変わらない。

 しかし、異性関係に対する社会常識や個人の意識は随分様変わりしたらしい。

 あの頃のチエは、確かに少々早くはあるものの社会常識的には十分結婚適齢期にあった。

 けれど現代の社会常識では、千恵は結婚可能な歳ではあっても、結婚適齢期と言うにはあまりに早すぎ、非常識とされる年頃なのだ。


 その一方で、まだまだ親の決めた相手に嫁ぐ場合の方が一般的で、純粋な恋愛結婚など滅多に見られず、ましてや女性の方から男性に積極的に迫るなどはしたないとされ、チエ自身、そうした知識には疎いようであったのに。

 今では、結婚を前提としない“お付き合い”というのも珍しくなく、むしろ男性より女性の方が積極的である場合も多いらしい。

 さすがに公衆の面前で堂々と、というのははばかられるも、学校の教室や、街の店屋などでその手の話題を口にしても、白い目で見られることはまずない。

 ……どころか、そういった知識を学校で授業として学ばされるらしい。

 つまり、当時のチエには無かった知識を現代いまの千恵は持っているのだ。


 その上で、あれやこれやそれの記憶を思い出してしまったのだとすれば。

 「それは……気まずいだろうな」

 理由に思い当たってしまえば、自分だって複雑な気分になる。

 

 彼女たちは確かに“同じ”だけれど、“違う”。

 千恵にはまだ自覚できていない“それ”を、那由他は既に見抜いていた。

 チエとして死を迎え、その記憶を失くしたまま新たな生を受けて以来過ごしてきた16年分の千恵の記憶。

 生活環境も、社会常識も、全てが当時と様変わりした中で培われた“違い”。

 彼女の本質に、変わりはない。

 だが、色々な物の見方は違ってくるだろう。


 まさに、その最たるものこそが――

 「さて……どうしたものかな」

 那由他は廊下に立ち尽くしたまま、悩ましげなため息をひとつ、吐きだした。

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