第弍拾弍話 a turning point
こくり、と喉を鳴らして飲み込んだそれは、常のものとは明らかに質が違った。
暖かくて甘い、熱と生命力に満ち溢れる、極上の血。――それは変わらない。
だが、それに含まれる力の濃度はまるで別物。まるで、魂の欠片を飲んだような。
喉を通過して腹に溜まったそれが沸き立つ溶岩のようにカッと熱を持ち、その熱が瞬時に脊髄を伝って頭を突き抜ける。
骨ごと燃え溶けてしまうんじゃないか――本気でそんな事を考えてしまう程の灼熱が頭の中を駆け巡った。
たった一口だけでこれだ。那由他は千恵の肌に埋めていた牙を慌てて引き抜いた。
人間が体調を崩し熱を出した時も、こんな風に感じるものなのだろうか?
チエが熱を出して寝込んだ時には、顔を火照らせて額に汗を滲ませながら荒い呼吸を繰り返しては苦しげに呻いていた。看病などしたことのない那由他は何をしていいのかもわからず、ただ彼女の手を握っていることしかできずにもどかしく思ったものだったが。
(待て、なんだ今のは――。)
覚えのないはずの光景。でも、確かに覚えのある光景。まるで、他人が書いた自分の記録を読んでいるような感覚。
(でも……そうだ。あれは……)
山に、異質なものが入り込んだ。
ざわめくモノノケたちの気配でそれを察した那由他は、まずチエの保護に向かった。
寒さも厳しくなり、日々冬らしさが増していく今日この頃だが、この冬が明け、暖かくなり始めたら……彼女は――。
春になれば、麓の村で祭りが行われる。――あれから5回目の春祭りが。
たった5年。気の遠くなる程の時間を存在してきた那由他にとっては元々あってないような時間だが、この5年間は常より尚短かったように感じる。楽しい時間ほど早くすぎる、というのはどうやら本当らしい。
那由他の印を持ち、迅を従えた彼女は、今や山に棲まうモノノケたちからも一目置かれる存在だ。
この山で、彼女に手を出そうとするような愚かなものなど最早存在しない。――この山に棲まい、那由他の庇護下にあるものたちの中には。
ふわっと、離れていても香る彼女の血の芳香。また、どこかに小さな傷でも拵えたのだろう。いつもの事だが、今は。十中八九、よそものはこの香りを辿り、彼女のもとへ向かうだろう。
――甘く香る魅惑的な香りは、モノノケを誘う絶好の撒き餌だ。
(……この気配。――同族、だな)
果たしてどれくらいぶりになるだろう。少なくともこの島国へと渡ってくる以前のことだ、――自分と同じように、血を糧に存在するものの気配をこうして直に感じ取るなど。
同族であるのであれば尚更、この香りはより強烈に欲を煽るだろう。極上の血を味わいたいと、喉を鳴らしているに違いない。あわよくば、全身の血を全て吸い尽くしてしまいたいと。
――それが、自分たちの本能なのだから、そう思うのは当然。……なのに、そう考えたら、腸が煮えくり返った。
那由他にとってかけがえのない存在が、あさましい欲に穢された気がして。
怒りも露に感情のまま、那由他は棲み慣れた山を全力で駆けた。
「あーあー、気をつけて下さいよ?」
迅の声が、沢の上から聞こえた。
「まあ、この位の傷なら、那由他様にいただいた“印”のお陰ですぐ治るから……、今はまずこの獲物を小屋へ持って帰ることに専念しましょう」
チエの声も。
よそものの気配もまだ遠い。那由他はホッとして、上を見上げれば、自分の身体の軽く倍以上はある鹿を引きずって行こうと縄を肩に担ぎ、引っ張って行こうとする彼女の姿が目に入った。
「……いくらなんでもそれは無理だろう」
「那由他様!」
呆れたようにため息をついてみせながらも、嬉しそうに自分の名を呼ぶ彼女の笑顔を見れば腹の奥底に渦巻いた穏やかでない感情もたちまちのうちに解けて消え、代わりに熱い衝動が心を占拠する。
「また怪我をしただろう、血の匂いを感じた」
見せてみろ、と、衝動が突き動かすままに空いているほうの手でチエの手に触れ、口元へと運び、既に閉じかけている傷口を舌でなぞる。
「嫌なら、怪我などするな。お転婆も程々にしておけと、いつも言っているのにお前が聞かないから、お仕置きだ」
――最もらしい事を言ってチエを誤魔化しても、もう、自分の感情は誤魔化しきれない。
もうじき、手放さなければならないこの温もりに、もっと触れていたいと――もっと深く溺れたいと思う。
愛おしいと、――そう想うようになってしまったのだ。
忌避される当たり前が当たり前でなくなり、暖かく受け入れられ惜しみない好意に包まれる毎日が当たり前になってしまった今、那由他はもう、新たな巫女を受け入れられる自信を失いかけていた。
「俺、腹減ってるんすよ。もう昼時でしょ? さっさと戻って、メシ喰わせて下さいよー」
迅の平和なセリフに乗っかって、那由他は鹿とチエの身体を抱える。
「うん、確かにそれは同感だな。……私も腹が減った。急いで戻るとしよう」
確実に近づいてくる同族の気配を背に感じる。
山の斜面を人には不可能な速度でその場を離れる那由他の後ろに迅が付き従って駆ける。
「……主」
迅が、チエには決して聞き取れない声で囁いた。
「分かっている。忠告は、一度だけ。それを聞かぬなら、今夜中に狩ってやる」
主の意を汲み、迅はすぐさま踵を返し来た道を駆け戻った。
――だが、結果として忠告は受け入れられなかった。
その夜――普段であれば草木は眠れども、この山が一番賑わう丑三つ時という時刻だが、今日はその気配を恐れてかいやに辺りは静まり返っていた。
「まだ百かそこらのヒヨッコのくせに、小生意気な小僧でしたよ」
迅はそう言っていた。百かそこらの若造など、那由他の相手ではない。狩るのは造作もないこと。
しかも、異質な気配を追い、駆けるこの場所は那由他の庭だ。地の利すらこちらにある。
すぐに済む。だから、那由他は当たり前にそう考えていた。
白い月明かりに照らされ、風に揺れるそれを見た時。してやられた、そう気づいたときも。
向こうが透けて見えるほど薄く、半透明な赤い色をした魚の鱗が、紐で木の枝にぶら下げられている。それこそが、この気配の元。――これは、那由他の勾玉と同じもの。この気配の主の“印”だ。それを疑似餌代わりにしたらしいと知り、那由他は慌ててチエの居る小屋へ駆け戻りながら、チエに迫る危機にザッと血の気が引く思いがして、思った以上に悪知恵の働く奴だと歯噛みはしたものの。
那由他はまだ、簡単に屠れる相手だと侮り、油断していた。
夜陰に、狼の遠吠えが轟いた。――迅だ。念のためとチエと共に小屋で休んでいたはず。
那由他は舌打ちをしながら、風伯を呼び出す。
「我が身を、チエのもとへ運べ。今すぐだ」
荒っぽい旋風に巻かれるに任せ、凄まじい空気の塊と一緒に宙へ吹き飛ばされる。息もつけぬほど乱暴に投げ出され、さすがに身体が悲鳴を上げるが、それでも自分で駆けるより格段に速度が出る。
投げ出されたと思った次の瞬間には小屋の庭先へ叩きつけられ、「ぐっ」と思わず呻きながら、背中で地面を受け止めていた。
小さくない衝撃を受け止めた身体が訴える痛みの全てを黙殺し、那由他は立ち上がり、血溜まりの中に蹲る狼に駆け寄った。
「おい、迅!」
「あ、主……、俺は大丈夫です、足を折られちまって動けないだけ……」
薄く目を開け、迅は呻くように言う。
「すいません、たかが小僧っ子だと油断しました。早く、俺はいいから、早く……っ」
力の入らないらしい前足を痙攣させ、迅は鼻先を小屋へ向ける。
那由他は扉に駆け寄り、スパンと勢い良く引き戸を開けた。
「チエ!」
素早く視線を巡らし、中の状況を把握する。
チエは、土間の壁際に追い詰められていた。台所にあった鉈を構え、必死に抵抗を試みている真っ最中――その刃を、血で濡らしながらも楽しげに掴み、じりじり押し戻しながら、もう片方の手でチエの肩を壁へ押し付けている、白い影。
黒髪黒目が当たり前なこの国の人間を見慣れた那由他の目には違和感たっぷりの白銀の髪に、濃灰色の瞳、それにやけに白い肌は最近やって来るようになった外国の人間のものに良く似た色をしている。
「……あんたが、ナユタサマ?」
少年か、青年か。見た目だけをいえば那由他より若干若く見える風貌。
「ハジメマシテ、ナユタサマ? ――僕の名前はケイ」
彼はチエを押さえつけたまま、視線だけこちらへ向け、慇懃無礼に名乗りを上げた。
「はるばるノルウェーからスウェーデン、デンマークからオランダ経由でここまで来たんだけど」
まさに小生意気という言葉がよく似合う笑みを浮かべて、ケイはチエの首筋をぺろりと舐めた。
「ねえ、この娘はあんたの何? 僕、彼女を僕のイヴにしたいんだ」
「――イヴ? 何の事だか知らないが、とっととその手を離せ。昼間の忠告を無視して我が縄張りを荒らしたのだ、当然覚悟はできているのだろうからな、改めては聞かない。――その身をもって贖え」
目もくらむ程の怒りに臓腑も脳みそもグツグツ音を立てて沸き返る。煮えたぎった腹の奥で鎌首をもたげる黒い衝動のままに、ケイと名乗った同族を睨みつけ、抑制なしの殺気を向ける。
だがケイは、笑みを深め、刃をさらに深く食い込ませながらがっちりとチエの手ごと鉈を掴んで押さえ込む。
こうしてチエが自分の手の内にあるうちは、那由他が下手に手出しできないことを十分理解した上での行為だ。
「あと10分、いや5分でいい。ちょっと待っててくれない? ――彼女の心臓に、僕の印を刻む間……」
肩を抑えていた手を外し、チエの着物の胸元をまさぐる。
怒りに震える手を那由他が抑えていられたのは、その行為にチエが嫌がる素振りを見せるまでの僅かな間だけだった。
「夜陰に遊ぶ鬼火たち、我が那由他の名において命ずる。――燃やせ」
低く命じると同時に、那由他の目が赤々と燃え上がり、ケイの視界いっぱいに青い炎が揺らめいた。
パッと、瞬く間に燃え広がった炎がケイの体を包む。
「な!?」
突然の事に怯み、チエから手が離れた一瞬の隙を、那由他は逃さない。
「風伯、その眷族たる鎌よ――我が名のもとに具現せよ。……切り刻め」
鋭い風の刃がケイに向かって飛び、血の花が咲いた。
「ぐっ、」
衝撃の反動と痛みによろめいたケイの体がまた一歩、チエから離れる。
チエも、その隙を逃さなかった。力いっぱいケイの身体を突き飛ばし、那由他の傍へ駆け寄る。
震える彼女に怪我がないのを確かめ、那由他はその身体をしっかり抱きすくめた。
「あーあ、逃げられちゃった。……今日はもう潮時、かな?」
「今日は、だと? ――ふざけるな。縄張りを荒らし、我が眷属を傷つけ、我が印を持つ者に手を出した貴様に明日などあるはずなかろう?」
腹に渦巻く衝動を手に集め、持てる力を凝縮させる。
「――終わりだ」