第弐話 meet again
ライブハウスのある駅前の通りから千恵の家までは歩いても15分ほどの距離にある。明るい時なら何でもない道のりだが、こんな時に一人で歩くのはあまり気分の良いものではない。
外気の冷たさ以上に心を占める氷塊が、重くのしかかる。
(早く帰って、暖かいホットミルクが飲みたい……)
歩く足が、早足から次第に小走りに、やがて駆け足へと逸る。
早く、早く――。
寝静まった住宅街の路地に、突如バイクのエンジン音が響いた。それは千恵の背後から迫り、不意に路面が明るく照らし出された。
「Trick or Treat! ……こんな夜道で君、また一人なの?」
「……ケ、イ、……どうして――」
「つれない彼氏の代わりに君を奪いに来たんだよ」
「な、夏也は彼氏じゃ……。ううん、そうじゃなくて……」
「……おいで、僕のイヴ」
京は、千恵の腕をとると力任せに引き寄せ、バイクの後ろに乗せた。
「さあ、今宵は僕らに似合いの夜だ」
すぐさま、アクセルを一杯に吹かし、急発進させる。
千恵は振り落とされないよう、咄嗟に京にしがみ付くしかなくて。
「僕のイヴ。君のその甘い果実を、存分に楽しませて貰おう」
囁かれた甘いセリフに脳髄が痺れる。
バイクは物凄いスピードで、港への路をひた走る。この道の先にあるのは、人気のない海辺の倉庫街だ。
こんな時間にそんな場所へ向かう理由。どう考えても、嫌な予感しかしない。
だが、猛スピードで駆けるバイクの上では、彼の身体に縋る以外、千恵にできる事など無い。
制限速度も信号をも軽く無視した彼のバイクは10分もかからず目的地に到着した。
バイクのエンジンを切れば、そこにはただ静かな波音だけがうるさくこだまする。
寒さと緊張で冷たく強張った身体をぎこちなくバイクから降ろし、千恵は京を警戒しながらそろそろと後ずさり――倉庫の壁に背をぶつけた。
「ああ……そんなに怯えなくても大丈夫だよ。すぐに済むからさ。痛いのも初めだけだし、慣れればむしろ……」
月を背に、京の顔が迫って来る。
熱っぽい白銀の瞳が見据えるのは、千恵の首筋。
「ヤツに負わされた傷を癒して、君を見つけるまでに百年かかったんだ。……もう、我慢も限界だよ」
京の唇から漏れる冷たい吐息が、脈打つ首筋にかかる。
訳も分からないまま、硬直した千恵はギュッと目を閉じた。
両の手の手首を片手で掴まれ、頭上で固定される。
もう片方の手が、首筋にかかる髪をさらい。
――その吐息も、肌に触れる皮膚の感触も、ひどく冷たくて。……とても、生きた人間のものとは思えない。
「さあ、僕のイヴ。君はどんな味がするんだろうね……?」
視界が閉ざされた分、より鋭敏に研ぎ澄まされた聴覚が、耳元でささやかれたあの甘い声音に刺激され、思考が揺らぎ、乱れる。
ただ、“嫌だ”という強い感情だけが、千恵の脳裏に強く閃いて。
――そして。
ボグッ、という鈍い音と共に突然両手の拘束が剥がれ、間近にあった気配が突如遠ざかった。
「……?」
恐る恐る開いた視界に映ったのは。
先程までは確かに無かったはずの、もう一人の男の姿。
ふらふらと、立っているのがやっとであるのが傍目にも一目瞭然な様子で、男は京と千恵との間に割って入り、千恵の前に立ちはだかる様にこちらに背を向け京と向き合った。
その男の背を、視界に収めた瞬間。
心臓が、爆発した。それくらい強い衝撃が、千恵の胸を揺るがした。
「那由他……お前! 生きていたのか!?」
頬を押さえて立ち上がった京が、憎々しげに男を睨みつけながら叫んだ。
「なゆ……た……」
京が叫んだその名を耳にした時。千恵の心臓が、もう一度爆発して跳ねた。
胸の内を怒涛のように満たしていくのは、言い様のない歓喜の渦。
“ナユタ”なんて名前を、千恵は知らない。目の前の男の姿に見覚えもない。
「那由他……お前はまた、僕の邪魔をするのか!?」
低く、京は唸る。こちらを見据える赤く燃える瞳が、那由他、という名であるらしいその男と千恵とを刺し貫く。
しかし、心が先程の様に恐怖に縛られる事はなく。
代わりに心を占めるのは、焦がれる様な想い。心臓は力強く脈打っては沸き立つ血潮を全身に廻らせ、冷え切っていたはずの身体に徐々に熱がこもり、とろりと、甘くて暖かい優しいものが、千恵の心の隙間を埋めていく。
――分からない。もうさっきからずっと、自分の心の内に沸き起こる幾多の感情の理由が分からない。
けれど、千恵の目からはとめどなく涙があふれ、頬を流れて落ちていく。
その男に触れたくて。
恐らく初対面であろう、誰とも分からず得体も知れない異性相手に抱くにはどう考えても不相応な想いが、何故かどうしようもなく胸の奥を焼き焦がし――千恵は、背を預けていた倉庫の壁から離れ、一歩、踏み出した。
「やっと見つけた、僕のイヴだ! 今度こそ、邪魔はさせない!」
京が叫び、地面を蹴ったのはそれとほぼ同時だった。
瞬間、京の姿が闇に融けて消えたのを、千恵の目が捉えるのと同時に、那由他の懐に京が現れ、その横っ面を殴り飛ばし、同時にぐしゃっ、と何かが潰れるような酷く嫌な音が千恵の耳に届く。
目と耳が伝えるその情報を、千恵の脳がまともに認識するより早く、爛々と不吉に輝く赤い瞳をギラつかせた京が、千恵の背を再び倉庫の壁に張り付けた。
「さあ、僕のイヴ……僕の永久の糧となれ……」
言いながら開いた口からこぼれる真っ白い歯列――その、上あごに生える異様に大きな対の犬歯が、千恵の首筋に迫る。
だが、今度は千恵が目を閉じるより早く視界に映る光景が入れ替わる。京の襟首を掴んで力任せにその身体を引き倒す那由他の、血で真っ赤に染まった顔へ。
――スプラッタ以外の何物でもないその姿は、大の男が悲鳴を上げてもおかしくないだろう程に酷いものであるのに。
それでも。千恵は何かを考えるより前に、反射的にその顔に手を伸ばそうとした。……その彼の瞳もまた、京と同じように赤く燃えているのを、確かに目にしていたのに。
胸に浮かぶのはやはり……恐怖ではなく、言い様のない喜びで。
しかし、彼に伸ばした手が届くより前に、彼の手を逃れて起き上がった京が振り上げた拳から千恵を庇うように立った那由他の身体に加えられた衝撃に押しつぶされて意識が飛ぶ方が早かった。
「……那由他!!」
白銀の髪を振り乱し、殴りかかって来る少年とも青年とも称せそうなその男の拳か彼はら咄嗟に背後の少女を庇った。
腹に正面から入った拳の勢いを、自由の利かないままの身体では充分に殺し切れずに、彼の身体は背後の壁面に叩きつけられる。――当然、壁と自分の背との間に挟まれた少女も、もろともに。
せめて、押し潰してしまわぬよう、反射的に腕を引き、背と壁の間に僅かな隙間をつくる。
――が、その分、肘と肩、そして後頭部を余計に酷くぶつけ、鈍い痛みに顔をしかめる。その直後、背後の少女の身体がふわりと彼の背にもたれかかってきた。
ハッと背後を見れば、気を失い、前屈みに倒れ込もうとする少女がいて。その身体を支えるべく、無意識のうちに腕を差し出す自分が居て。
先程から幾度も連呼され、自分が那由他という名であるらしい事は察せられた。
この少女をイヴとよぶあの男が、どうやら自分と並々ならぬ因縁のある相手であるらしい事も、さすがに察している。
……だが。少女を抱き止めた瞬間、冷え切り温もるはずのない身体が一気に燃え上がったその理由が、分からない。
けれど、目が覚めた瞬間から逸り続けた衝動が、この場所で彼女の姿を網膜に映した瞬間に、大いなる安堵と、突き上げる歓喜へと昇華していくのを感じたのは確かな事実で。
「私は……。彼女は……一体……?」
きゅっと、腕に閉じ込めた少女の身体を抱きすくめるだけで、失われていた全てが、甘く暖かい優しいもので補われていく気がする。
もっと、ずっと……永遠に、こうしていられたら――。
ほんの一瞬脳裏を過った想いは、無防備に晒したままだった背に迫りくる気配に掻き消された。
那由他は、腕の中の少女を横抱きに抱えなおし、やおら振り向くと人には不可能なスピードで殴りかかって来る男に、そのすらりと長くしなやかな脚を振り上げ、脳天目掛けて踵を思い切りめり込ませた。
その滑らかな一連の動きは、それまでのぎこちないカラクリの様だったそれとは全くの別物だった。
彼女に触れている部分から流れ込む熱が、凍りついた全身を溶かしていく。
一気に漲る“熱”が、空に浮かぶ月の加護を受けて更に増大していく。
強烈な踵落としの直撃を受け、地面に叩きつけられ身体を半分固いコンクリートにめり込ませながらもまだ立ち上がろうと地面に手をついた男に向けて、那由他はその“力”の塊を無造作に投げつけた。
「……!」
途方もないエネルギーの塊は地面を抉りながら滑り、そのまま海へと落ちても尚、その海面を大いに荒ぶらせながら水平線の向こうまで音速で突き抜けていく。
地べたに伏せっていた為に全身でその直撃を浴びる事こそ免れたものの、身体の半身を根こそぎ灼き尽くす衝撃をまともに喰らい、京は堪らず昏倒した。
相手がピクリとも動かなくなったのを確認してから、那由他は改めて腕の中の少女を見下ろした。
肩ほどまで伸ばした黒髪も、ほんのり化粧を施したまだ少し幼さの面影の残るあどけない寝顔も、貧乳とは言わないがどちらかと言えば小ぶりな胸も、どれもがそう取り立てて言う程魅力あるものとは言い難い。
……正直、何処にでも居そうな至って普通で平凡な少女。
少なくとも、外見だけを言うならそれ以上の感想を抱くのは難しい――はず、なのに。
淡い月明かりに照らされた少女の姿は、いくら見つめ続けても飽き足りない。
腕に感じる少女の重みを、いつまでも感じていたいと思う。無いはずの心鼓が踊る、この感情を何と言うのか……。
クシュン、と腕の中の少女がくしゃみをした。
那由他は目をぱちくりさせて少女を見る。
人ではない彼が空気の寒暖を意識する事はまず無い。だから、那由他は不思議そうに首を傾げた。
だが、少女がもう一度くしゃみをし、歯をかちかち言わせながら小刻みに身体を震わすのを見て、ようやく得心がいったように頷く。
「……そうか。寒いのか」
しかしそれが分かった所でどうしろというのか。
周囲は閑散とした倉庫街と、海とが広がるばかりの場所で。
自分のこの、冷たいばかりの身体では体温で温めてやる事も出来ない。
「……仕方が無いか」
那由他は、少女の身体を片腕で抱き直し、空いたもう片方の手の親指を口に含んでプチっと犬歯を皮膚に突き立てて傷を穿ち、溢れてきた血を数滴、少女の口に含ませる。
「飲め」
そして、命じる。
「お前の記憶を――お前の家の在り処を私に示せ」
那由他は、そっと目を閉じ、脳裏に浮かんできた景色に意識を集中させる。
「そうか、お前の名は愛羽千恵と言うのだな……」
その名を、下の上で転がす。
「千恵……」
その言霊は、この世のどんな飴玉よりも甘く蕩けそうな味がした。
那由他は、もう一度丁寧に千恵を抱き直し、静かにその場を離れ、歩き出した。
その背に、月の柔らかな光の加護を存分に受けながら。
そして、その場には気を失ったままの京だけが一人、残されたまま。
月はゆるゆると宙空から西の空へと降り、東の空に太陽の訪れを予期させる淡い青が徐々に広がりを見せる。
それを待ちわびていたカモメがうるさく鳴きながら飛び交い始める頃。
「……那由他」
むくりと、京は身体を起こした。
「那由他。イヴは、僕のものだ――」