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第拾玖話 a blood that arouses sexual desire

 面白いくらい、那由他の表情が驚愕一色に染まる。

 ――信じられない。

 そう言っているのが、声に出して言葉にせずとも一目瞭然な表情。

 ハハっと、思わず自嘲の笑みに肩を震わせ、千恵は目を閉じた。その目蓋の裏がやけに熱くて。

 千恵は腕で両目を覆う。

 (……分かってた。――言うつもりなんか、なかったはずなのに)

 その場の雰囲気というのは、げに恐ろしい。

 (ううん、違う……。本当は……)

 先ほどからしくしく痛む心に刺さった小さなとげ。あの龍神が那由他に放ったセリフ。

 『まだ年端もいかぬようであった娘にあれだけの覚悟で愛されながら……お前は何をしている?』

 自分と同じ――いやそれ以上に彼を好きだったが居た。

 那由他が忘れているのはまさにその人の事であるらしい。

 そうと知って、千恵の心は大いに揺れた。

 (そんな人のこと、思い出して欲しくない……。でも……)

 「フェアじゃないよね、こんなの。記憶喪失で大事な人のこと忘れてる間に告っちゃおうなんて」

 頬を、冷たい感触が撫でる。

 これは……昨日から那由他が胸に下げているあの勾玉――。

 「そんな……よりにもよって……この状況で言う事か……お前はっ……、正気か!」

 那由他の声が震えている。

 「言っただろう、私はモノノケで……雄だ、と」

 ぎりぎりと手に力がこもり、胸に開いた傷が大きくなる。

 今まで栓代わりに傷口を塞いでいた那由他の指より広く開いたその隙間から、生暖かい血が溢れ、肌を伝う。

 「飢えた獣の前で……無防備にも程があるだろう!」

 苦しげに吠え、荒い呼吸を繰り返す那由他の唇が、ゆっくりと近づいてくる――吐息が肌を撫で……唇が、肌に触れ――湿った感触が肌を伝う血をなぞり――その源泉へと近づいていくごとに彼の呼吸はいっそう苦しげなものになっていく。

 つぷっ、と傷口を押し広げていた指が抜かれ、みるみるうちにそこから湧いてきた血が、四方へと流れ出そうとするより早く、それを強く吸い上げる。

 (――っ、あ、……またっ)

 閉じた視界の暗闇が覚えのある酩酊感に揺らぐ。

 遠のいていきそうになる意識の端で、ビリビリと着ていた上着が派手に破られる音が聞こえ、これまで以上に胸元の風通しがやけに良くなる。

 (――え?)

 ぱっと目を見開くと、今まさに服の胸元から腹部にかけての布地が力任せに引き裂かれているところで。

 「ちょっ、なゆ……た……」

 痛みと、押し寄せる至福の波とに揉まれて揺らぐ視界の中、、彼の苦しげに歪んだ表情に浮かぶ脂汗と、服の布地を掴んでいる手が小刻みに震えているのがやけにはっきり見えて。

 ぢゅっ、という音がして、那由他の喉仏がゆっくり上下するのと同時にこくりと喉が鳴った。

 「――っ!?」

 血で赤く染まった唇が傷からわずかに離れたかと思えば小さく呻き、那由他は息を飲んだ。同系色の瞳が埋まった目が限界まで見開かれ、傷口を凝視する。

 「……何故、」

 震える声。

 「何故……お前の心臓に……これが?」

 胸の傷に指を入れ、そこから何かを取り出した。

 それの色とそれを濡らす血の色とがまだらになった勾玉――那由他が下げているのと同じサイズの赤い勾玉。

 「これは……この勾玉は……間違いない、私の“印”――それが何故お前の心臓に埋まっている?」

 千恵は、後頭部を地につけたまま、首を左右に振る。

 「私には、分からないよ……少なくとも今の私には」

 意識を飲み込む前に引いた波は代わりに傷の痛みを引き戻し、今度はそれが思考を支配しようとするのをどうにか押しとどめる。

 「でも……。やっぱり私が忘れてる記憶は那由他が失くしてる記憶と何か関係あるんだよ。だってそうでしょ? それ、那由他の印のはずが自分じゃ覚えがないんでしょ?」

 那由他はそろそろと首から下げた勾玉を外し、手のひらに二つの勾玉を載せて見比べる。

 「……そうだ。これは間違いなく私の印。だがこちらの……天羽のものにはやはり何も感じない……が、――同じものに見える」

 「じゃあ、それも……那由他の印?」

 「いや、まさか……効力だけじゃない、本来二、三日でそのものごと消えてなくなるはずのものが……どうして……」

 天羽は三つの勾玉が、と言った。あと一つ。迅が持つはずのそれも……では……

「私の……印?」

 迅との付き合いは確かに長い。だが彼に加護を与えた覚えはあっても、印を授けた覚えなどないというのに?

 「全ては失われた記憶の内に、か……」

 今開いたばかりの傷に牙を埋めれば戻るはずの記憶。

 そこから溢れる血はまだなお那由他の欲を煽る。

 ――永遠に味わっていたいと思える極上の血。まるで他人事のように言ってはみたが……所詮は同族、同じ穴の狢ということか。

 「――常により確かなものを求め、欲している。モノノケとはそういうものだ。お前は……一体どれだけ理性の限界に――我慢の限界に挑戦させたら気が済むんだ!?」

 血の契約を結べば確かな記憶が戻り、“花嫁”にすれば常に確かな存在が傍らに在る確約が得られる。

 だが――

 「それでは、あれと何が違う?」

 京から守ると言ったのに、当の自分が欲に抗いきれずに彼女をこうして傷つけて。

 あれは単に自らの欲に忠実に生き、行動しているだけ――モノノケとしてはむしろまっとうな生き方と言えよう。

 もしもあれが那由他じぶんの縄張りの外のどこかで誰ともしれない女を相手にしていたなら、たとえその事実を知っても自分はそれを歯牙にもかけなかったはず。

 「ああ、もう本当に――土地神だなどと……過去の話としてすら言えそうにないな」

 自嘲を多分に含んだ苦い声で呟く。

 「私を封印の眠りから喚び起こしてまで乞い、無いはずの心鼓を逸らせるお前が――こうして私の印を持つお前が一体何者なのか……。まるで不確かな夢の中で見ては起きるたびに霧散する過去の記憶の中にその確かな真実があるのなら」

 那由他がかすかに苦く微笑む。

 「もう、我慢も限界だ。……いいだろう、契約を――新たな契約を結ぼう」

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