第拾陸話 a sacrifice
「那由他様、お待たせいたしました。念願の牡丹鍋でございます!」
この山で那由他に次ぐ力を持つ狼の九十九神、迅を従えたチエは、天気の良い日であれば弓矢を手に山を駆け回り、獲ってきた新鮮な食材で毎日の食事を作ってくれる。
天気のすぐれない日は繕い物などしながら、他愛もない話を那由他と交わし――。
暮らしぶりへの不満など一つもない、とばかりにとにかく毎日生き生き過ごす彼女が、くつくつと煮える鍋を囲炉裏に据え、得意満面の笑みを浮かべて那由他に取り箸を差し出してきたのは、彼女が初めてここへ来てから、ちょうど10日目の事だった。
これまで、10日に一度のその日以外はその日の気分次第で山の中のあちらこちらで好きに過ごすのが当たり前だったというのが嘘のように、この10日間はその殆どをこの住居で過ごした。
これまで長い事一組しかなかった布団は二組に増え、朝・昼・晩とこうして二人で食事を摂るのも既に当たり前の習慣になりつつあったが、今日はもう一名食卓を囲むものが居た。――あの日、一体何がどうしてそうなったのか……決して語ろうとはしないが、今は湯気を立てる鍋の前でパタパタ尻尾を振りながらきちんと「お座り」している。
「あの猪を仕留められたのは、迅のお陰ですから」
と、ご相伴に預かる事を許された迅は、
「人間の喰うメシなんざ初めて喰いましたが、……結構旨いもんですね」
と、どうやら気に入ったらしく喜んで食べていた。
食事の後片付けをする彼女の背を見ながら茶を啜る那由他に、迅が言う。
「……主」
「ああ、分かっている。――チエ」
片づけものが済んだ頃合いを見計らい、那由他は彼女の名を呼んだ。
「チエ、お前がここへ来て、今日が10日目だ」
「はい、『お食事』の日でございますよね」
呼ばれた彼女は、やっぱり嬉しそうに寄って来て、にこにこ答えた。
「今、お召し上がりになられますか?」
すぐ傍に立ち、嫌がる様子もなく那由他に伺いを立てる。
「――いや。その前に少し出かける用事がある」
「……主、折角だからチエ様を一緒にお連れになったらどうです?」
のそっと立ち上がった迅が、下から口を挟んだ。
「今日は月に一度の大仕事の日。地霊の主としてのお役目を済ませた後、すぐ傍にチエ様が居れば色々楽でしょう?」
迅の提案に、那由他は渋い顔をし、対してチエは首を傾げた。
「那由他様のお役に立てるのでしたら、私は喜んでお供いたしますよ?」
それでも、当たり前に言うチエを前に、少し逡巡し。
「まあ、確かに迅の言うとおりではあるが。……さて、その後でもお前は果たしてそうと言っていられるかな」
寂しげに言った。
満月の明るい晩。だが、木々の生い茂る山道は暗い。
那由他は、チエに暖かい恰好に着替える様命じ、着替えを済ませて外へ出てきたチエを横抱きに抱え、山の頂にそびえる巨木まで軽々と運び、その一枝まで登るのでさえも軽く一跳びで済ませる。
チエをその枝木に腰かけさせ、自身はその場に堂々と立ち。
瞬間、山がざわざわと妙に賑やかに騒ぎ、ざわめく気配が立ち上る。
下から、迅の遠吠えが聞こえる。
不意に、落ち着かなかった周囲の空気がシン、と張りつめた。
周囲の空気がビリビリと緊張していくのが、肌に直に伝わる。
ふと、見上げると常は美しい黒色の那由他の瞳が爛々と燃え光る赤色へと変わっていた。
柔らかな月の光を浴び、そうして立つ那由他の姿はとても綺麗で。
「今宵は満月。月に一度の証分けの日。――那由他の名に於いて命ずる。風伯よ、我が眷族らに我が力を届けよ」
那由他を取り巻く空気が、陽炎のように揺らめいたかと思えばたちまちに膨らみ旋風となり、那由他を中心に渦を巻く。
突風と言うべき強風に取り巻かれた那由他の髪や着物の裾が遊ばれ、あおられて翻る。
その中で、那由他は懐から小刀を取り出し、左の袖を捲ったかと思えば、いきなり無造作に刃を剥き出しの腕に突き立て、肘から手首までやけに景気良く切り裂いた。
一筋の線から派手に血が噴き出し、旋風に巻かれて那由他を取り巻く空気が一気に血色に染まる。旋風の全部が那由他の血に染まった――次の瞬間、ぶわっと風が爆ぜ、四方八方へと血の赤が霧散していく。血色の霧が、山全体へと降り注ぎ――。
何時にない程、山がざわめいた。まるで、何十万羽ものムクドリが一斉にねぐらの取り合いを始めた様な賑わいだ。
「我が力の恩恵に預かりし我が眷族らよ。那由他の名に於いて命ずる――」
対して、静かな声で那由他が命じる。
「人里へ降りる事、人間を害する事を禁ずる。禁を犯せば相応の制裁が下るものと知れ」
一つ、大きなため息をつきながら目を閉じる。
暗がりに月明かりの中では分かりにくいが、……少し、顔色が良くない気がする。
もう一度開いた瞳は暗がりの中でも赤く灯り、それがこちらへ向けられた。
枝を不用意に揺らしてチエを振り落とさぬよう、静かにこちらへ歩み寄り、チエの隣によいしょと腰を下ろし、もう一度、大きく息を吐く。
下からは、きゅうきゅうと興奮しているらしい迅が鼻を鳴らす音が聞こえる。
「あのっ……お怪我の手当て……」
チエが困った様に真っ赤に染まった那由他の腕に触れる。
こんな場所へ、手当ての道具など持参している訳がない。せめてもと、着物の袖を破こうと裾を咥えたチエを、那由他がそっと制した。
「私の身体は人のそれとは違う。手当などせずとも、この程度の傷はすぐに治る。――触れてみると良い……ほら、もう傷など無いだろう?」
腕を染める赤は、既に流れ出た分の血で、傷自体はとっくに消えて無い。
それでも、血で赤く染まった腕が痛々しく見えるのか、疲れの滲む吐息を吐き出す那由他を心配げに見上げる。
「……怪我などどうという事もないが、血は私にとって力そのものでな。あまり多くを失うのは良くないのだが、――月に一度のこれは、地霊の主であり土地神である私の義務だからな。欠かす訳にはいかない」
那由他の言葉で、察したらしい。
「血が、ご要りようなのでございますね?」
チエはその煌々と輝く赤い瞳を真っ直ぐ見上げ、躊躇い無く襟の合わせを緩め、首周りの肌を晒す。
「私は、那由他様の巫女でございます。那由他様のお役に立つのが、私のお役目。那由他様が必要だとおっしゃって下さるなら、私はどこへだって共に参ります」
「……そうか。またしても私の取り越し苦労だったようだな」
当たり前に捧げられた言葉に、那由他は苦笑した。
「この儀式は身体に著しい負荷がかかるのでな。この状態であの小屋まで行くのはなかなか骨の折れる仕事だったのだが……どうやら5年ばかりは楽ができそうだ」
晒されたチエの首筋へ口づける。
「新たに選ばれた巫女が、お前で良かった……」
とろとろと、心地よい眠りを離れ、意識が浮上する。
ぽかぽか暖かい陽だまりの中、草原の地面の上でついうたた寝をしてしまったようだ。
(また……何か夢を見てた……)
やはり、内容は覚えていない。
でも流石に千恵も察し始めていた。
(那由他が失くした記憶……)
京に声をかけられたとき。那由他と会ったとき。千恵の心の奥底の感情を動かすそれに繋がる夢。
(――血の、契約……か……)
千恵はそっと胸に手を置き、今し方――眠り込む前に聞かされた話を思い返す。
夏也の父に挨拶をしてから警察署を後にして。
千恵は、コンビニ弁当のビニール袋を片手に歩いていた。
「ちゃんと説明して欲しい」
そう求められた那由他は、それでもまだためらいを残すように、ぽつぽつと話し始める。
モノノケと契約を交わすには、3通りの方法があること。
一つは、言霊の契約。
一つは、血の契約。
一つは、魂の契約。
言霊の契約は、契約の約定を契約者の言霊によって縛る。
血の契約は、それを契約者の心血によって縛る。
魂の契約は、それを契約者の魂によって縛る。
「お前と今の契約を結ぶ際、私は言ったな。モノノケ相手の契約に、書状の類など必要はないと」
あの祠の前を通り過ぎ、ここまでの道より更に荒れた道なき道を登りながら、那由他は言った。
「当然だ。我々モノノケにとって、たかが紙切れ一枚に何の価値がある? 破くか燃やすかしてしまえば容易く破棄される契約に、何の意味がある?」
先を行く彼が、下草を踏みつけ、道を塞ぐ蔓や小枝などの障害物を除きながら進むその後ろに従い、千恵も同じ道を登る。
「モノノケにとって力は生命、命が力だ。使った力分が回収できないとなれば、モノノケにとって即死活問題だからな。使った力以上の見返りが確信できねばモノノケは契約など結ばない」
山の中は、時折鳥のさえずりが聞こえるだけでとても静かだ。
「契約の際に捧げられるもの――まず言霊はモノノケにとっては担保の様なものだ。例えば契約が不条理に破棄されることを防ぐための、な。だが、心血と魂は違う。それそのものが、モノノケにとっての報酬となる」
彼の後ろを歩く千恵には、彼の顔は見えない。ただ、彼の背を見上げながら、彼が語る言葉に耳を傾ける。
「心血とは、心臓を流れゆく血――精神と肉体の全てが凝縮された、モノノケにとっては最高のご馳走。魂は――言うまでもなく最上の糧だ。人や動物のように確かな肉体や生を持たぬモノノケは、より確かな生命を欲する」
パキッと小さく乾いた音を立て、葉の落ちた細い枝の先をへし折り、折ったそれをしばし眺めた後で地面へ放り捨てる。
「無論、ただでそんな報酬など得られない。契約者の方にも、差し出したものの分だけの見返りは……まあ、そこは人それぞれの考えようによりけりだが」
ふと、歩く足元の地面の傾斜がなくなり、足首にかかる負担が軽くなった。
「今、お前が私と結んでいるのは、言霊の契約。私がお前の血を得る代わりにお前を守る、そういう契約だ。つまりお前は血という対価で私を護衛として買い、私を通して私の力を間接的に使っているわけだが」
すでに無いに等しかったような道が、そこで完全に無くなり、僅かながら、木々のひらけた空間に草原が広がり、暖かそうな日溜まりができている。
「――契約者が心血を差し出し、モノノケがそれを取り込み自らのものとした場合、他のモノノケらからはその契約者はそのモノノケと同一の存在と見なされ、そのモノノケと同じ力を自分で扱えるようになる」
そこで那由他は振り返り、こちらへ向き直った。
「――そして契約者が魂を差し出し、それがモノノケのものとなった場合。契約者はその瞬間、人間という生き物ではなくなり、我ら同様、モノノケとしての生を歩むことになる。老いや寿命は無くなるが……もはや、次の生で人として生まれ変わる事はかなわなくなる。――永久に、な」
じっと見下ろしてくる那由他を見上げ、千恵は頷いた。
「それは……。うん、私は……私も、魂の契約はしたくない……できない。それは、分かった。人じゃなくなったら……きっともう普通の暮らしはできないもんね」
そんなことになれば、当然両親は悲しむだろう。それでは本末転倒だ。
「でも、あれは血の契約のほうでもいいんでしょ? 魂の契約である必要はないんだよね?」
血の契約に必要なのは心血――心臓を流れる血。
「ああ、そうだな。確かに血の契約を結べばお前と私の場合、今、印の力によって得ている加護ではなく、辺りに住まう我が眷属らを従え、使役を可能とする力がお前のものになる」
……単純に聞けば、いいことづくめのように思えるのだが。
でも、ひとつ気になることがある。
「ねえ、ひとつ聞いてもいい? ……心臓を流れる血なんて、どうするの?」
聞かれた那由他はひどく嫌そうな顔をする。
「――本当に、聞きたいのか?」
正直に言えば、あんまり知りたいと思える情報ではない。でも、知っておかなければならない情報でもある。
「ある意味当然だが……胸に心の臓まで届く傷を穿ち、そこへ直接牙を立てて血を啜る」
言いながら渋面を深め、
「……ほらみろ、聞かない方が良かったろう」
それを聞いて片眉をひそめた千恵に言う。だが千恵は首を左右に振りながら、
「あのさ、でもそれって、そんなことしたら死んじゃわない?」
と続けて尋ねた。
「言っただろう、血の契約を結べば私と同じ力が得られる。まあ、肉体の素地が人間である事には変わりないからな、瞬時にとは言わないが……一日大人しく寝ていれば治るだろうな」
那由他はため息をつく。
「だが、それに伴う苦痛は当たり前に甘受する事になる」
陽の当たる草原に腰を下ろしてあぐらをかいて寛ぎつつ、那由他は手を地面につきながら上半身ごと空を仰いで上向いた。
「私は封印される以前、巫女という名の生贄の血を糧に、常に恐れられながら存在してきた」
那由他は、苦い笑いを浮かべる。
「それこそ気の遠くなる程の時をここで土地神と称ばれて過ごしてきたが――こうしてまともに人と契約を交わしたのは……この土地に棲まうようになってからおそらく初めてのことだ」
千恵はその隣に腰を下ろして草の上に直に座り、買ってきた弁当を袋から出す。
「私という、血を吸う化け物を人の住まう場所から遠ざけるため、人は私に供物を捧げてきた」
だが、それに関しての契約などは一切なかったのだ。
「しかし、その供物を受け取る限りは、最低限の安寧を返すべきだろうと……そう思い、私は土地のモノノケに加護を与えて従え、決して人里に降りぬよう制してきたが……」
渡された弁当を受け取りながら、那由他は周囲の景色をぐるりと見渡す。
「人の手による手入れを受け育った木々は、世話をする者の手が離れれば独力では生きられず、枯れゆくだけだという。……どうやらモノノケも同じらしい。私が封じられ、加護を受けられなくなったものたちの大半は力を失くし、滅びの道を歩んだようだ」
そう言う彼の顔は寂しそうで。
「今の私には、地霊の主の名も土地神の名も相応しくない。ただ、生き血を糧に存在しているだけのモノノケだ。そんなもののために、今以上の犠牲を望むなど……」
パックのおにぎりを頬張り、言葉を途切れさせる。
もぐもぐと口を動かし、飲み込む。また、一口。
途切れた言葉はそのままに、那由他は黙々と食事を続ける。
小さめのおにぎりが二つ、唐揚げと卵焼きと漬け物が入っているだけの至ってシンプルな弁当など、食べきるのにそう時間などかかりはしない。
プラスチックでできた透明のパックはあっという間に空になる。
だが、それでも那由他は黙り込んだまま。パックをコンビニの白いビニール袋に戻し、ごろりと草原に身体を横たえ、仰向けに寝転がった。
さわさわと風が吹き、周囲の草木と那由他の髪とをなびかせる。
今日も、天気は上々。風は少し冷たいが、ここは日が当たって暖かくて。
そして、いつのまにかついうたた寝をしてしまったのだ。
那由他はまだ、目を閉じたまま草原に身体を横たえている。
――やはり、その光景は一枚の絵のようで。その絵に見覚えがある気が――いや、もうこれは気のせいなどではないのだろう、……見覚えがあるはずなのを、忘れている。
(記憶を失くしている……? 私……も?)
時折、さわさわと木々をなびかせていた風が、突如ゴウと強く吹き付けた。
平和に揺らいでいた木々の枝が大きくしなり、ざわざわと音を立てる。
不意に那由他が目を開け、緊張感も露に跳ね起き、即座に臨戦態勢をとった。
「――控えよ、卑しきモノノケよ」
ぶわっと、ひときわ強い風が吹き付け、あれだけ晴れていたはずの空が見る見る間に厚い黒雲に覆われていく。
その中空から、荘厳な声がそう命じるのが聞こえ――
バリバリと耳がおかしくなりそうな大音声と共に稲妻が走る。
それは、すぐそばの草原を焦がし――
そのぴりぴりと肌を焼くような緊張に張り詰める空気の中で、その声は彼の名を、呼んだ。確認するような口ぶりで。
「……そうか、お前が那由他か」
轟々と荒れる空に姿を現したのは――とぐろを巻く巨大な龍。
青みがかった緑色の鱗は、光の加減でキラキラ金色に輝き、背のたてがみは燃えるような赤い金色の毛が、美しく翻る。背には巨大な鳥の翼が生え、長い胴体には二本の手と二本の足とが生え、その右手には不思議な色をした美しい玉を握っている。
口元から伸びる二本の長いひげは、吹き荒れる風などものともせず優雅にたなびき、頭に生える鹿のような形状の角も、美しい木材を丁寧に研磨したような――。
どこをとっても美しく、神々しい。
降るような威圧感と、それに相応しい威厳に満ちた姿の前に、身体は本能的にひれ伏そうとする。
見れば、那由他もまたその存在の前に膝を付き、頭を下げている。
「本当にやり遂げるとは……。成功率など五分五分……どころか無いに等しいと思っておったのにのう。人の子の執念というものは……まあ……。――しかしそれにしても」
ギロリ、と、猫のように細い瞳孔を持つ瞳で、那由他を睨みつけた。
「まだ年端もいかぬようであった娘にあれだけの覚悟で愛されながら……お前は何をしている?」