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第拾参話 the lull before the storm

 ――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……

 耳障りな鐘の音に、彼は暗い船倉の中で目を開けた。

 積荷に混じって密航を続けてきた彼は、荷物の影に横たえていた身体をむくりと起こして立ち上がり、甲板へと続くはしごに手をかけた。

 するすると上り、冬の太陽がつくる眩しい陽だまりの中へ頭を出した。

 「ちっ、ここにも“先客”がいるのか。折角連中の居ない場所を求めてきたってのに、着いて早々に頭の痛くなる嫌な音を聞かされるとはね」

 船は、接岸するため岸へとゆっくりゆっくり近付いていく。

 港には、船へかけるタラップの準備をする船員が慌ただしく働く姿があるが、船と岸との間にはまだ距離がある。

 見下ろせば、紺色の濃い青い水面がゆらゆら揺らめいている。

 強い、潮の香り。

 吹き付ける潮風に舞いながらうるさく鳴き交わすカモメ。

 てくてくと、京は甲板を歩き、船の舳先に立つ。

 「おい、君――」

 それを見咎めた船員が声を掛けようとするのを振り切り、京は船から跳び降りた。

 「……もう、脂ぎって不味いばかりの脳みそ筋肉族野郎の血なんざ沢山だ。久々に乙女の生き血にありつきたいね」

 てくてくと、人気のある方へと歩いて行こうとして――ふと、山の方へ目を向けた。

 「――何だ?」

 ざわりと、肌が粟立った。

 「……魔物の、気配?」

 京は、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。

 「丁度良い。脂っこい食事が続いた上、狭い船倉の中で体も鈍りっ放しだしな。食事の前に軽く暴れてくるか」

 町の方へ向いていた足を、山へと向け直し、京は再びてくてくと歩き出した。



 「チエ様! そっちの藪の方へ行ったぞ!」

 初冬。落葉樹の葉はあらかた地面へ落ちて、裸の木々が目立つようになった山の中、迅の巨体が急な斜面をものともせず獲物を追って駆ける。

 「了解!」

 人一人の体重くらいは軽く支えられる丈夫な木の枝の上、チエはお手製の弓をキリキリと引き絞り、狙いを定め――パッと矢尻を放し、番えた矢を放つ。

 矢は一直線に獲物である鹿の腿へ命中し、鹿は枯れ葉の上、ずささっ、と音を立てて足を滑らせ転倒する。

 「お見事!」

 すかさず迅がそれを前足で押さえつけ、首根っこに食いついて牙を剥き、とどめをさす。

 「ええ、これだけ大きな鹿なら当分お肉には困らないで済みます。証分けの儀式の日も近いですし……しっかり食べて、栄養を摂っておかなければ!」

 するすると木から降り、尾を振る迅の隣でチエは張り切って獲物に縄をかける。

 「この時期の鹿は脂も乗ってて旨いからなぁ」

 気の早い事に、迅はもう舌舐めずりをしている。

 「だからってつまみ喰いしたらダメですからね、――っ、て、痛っ、」

 ほんの少しよそ見をして疎かになった手元が狂い、手にしていた小刀で左手の甲を刺してしまったらしい。

 幸い、傷はそう深くない。小刀を抜くと、刃に付着した血がぱたぱたと地面に落ち、枯葉を赤く染めた。

 「あちゃー、やっちゃた……」

 とはいえ、この程度の怪我などチエにとっては日常茶飯事。

 「あーあー、気をつけて下さいよ?」

 迅も半眼で呆れる。

 「まあ、この位の傷なら、那由他様にいただいた“印”のお陰ですぐ治るから……、今はまずこの獲物を小屋へ持って帰ることに専念しましょう」

 ここへ来たばかりの時分に比べれば、背も伸び、身体の線も女性らしい丸みを帯びたものになりつつあれど、鹿の体躯はチエの軽く倍以上ある。

 四足にかけた縄を束ねて肩に担ぎ、引っ張る――

 「……いくらなんでもそれは無理だろう」

 呆れたようにため息をつく那由他の声が、不意に沢の下から聞こえてきた。

 「那由他様!」

 一跳びでチエの隣へ並び、チエから縄を取り上げると、重たい鹿の肢体を軽々と小脇へ抱える。

 「また怪我をしただろう、血の匂いを感じた」

 見せてみろ、と、空いているほうの手でチエの手に触れ、口元へと運び、既に閉じかけている傷口を舌でなぞる。

 「なっ、那由他様……!」

 カッと、チエの顔が真っ赤に染まる。

 那由他はそれをさも楽しそうに眺め、

「嫌なら、怪我などするな。お転婆も程々にしておけと、いつも言っているのにお前が聞かないから、お仕置きだ」

悪戯っぽく言う。

 ここへ来た頃には考えられなかった程に、最近の那由他のチエに対する態度は柔らかく砕けたものに変わった。

 そうなればなる程、チエの心は秘めた想いが今にも決壊を起こしそうで、苦しくなる。

 「あー、主ぃ、チエ様ぁ。ひと前でそーいうのは程々にして貰えませんかねぇ?」

 うげーっ、と空気を読むことも遠慮も無しに、迅が今にも砂を吐きそうな顔で茶々を入れる。

 「俺、腹減ってるんすよ。もう昼時でしょ? さっさと戻って、メシ喰わせて下さいよー」

 「うん、確かにそれは同感だな。……私も腹が減った。急いで戻るとしよう」

 言うが早いか、チエの身体をやっぱり軽々と肩に担ぎ、山の斜面を人には不可能な速度で走り出す那由他の後ろに迅が付き従って駆ける。


 ――そして誰もいなくなった山の中。

 「……血の、匂いがする」

 クンクンと辺りを嗅ぎ回りながら斜面を登ってくる人影が、一つ。

 彼は地面を染める赤を指で拭い、その指ごと口に含み――ピクリと身体を震わせた。全身の毛が総毛立つ。

 そして、恍惚と歓喜の笑みを浮かべた。

 「これは……凄い……。こんな、滴り落ちて時間の経った血ですらこの味……! ふふっ、ようやく見つけた……僕のイヴ……」

 スッと目をすがめ、京は辺りの気配を探った。

 「まだ固まってなかったって事は、そう時間は経ってない……まだ近くにいるはずだよね」

 だが、すぐに面白くなさそうな顔になる。

 「おかしいね、匂いはすれども近くに人の気配がない……? それに……何だ、この魔物の気配の異常な多さは。この山、魔物の巣窟じゃないか」

 麓の町を見下ろしながら、京は怪訝な顔をする。

 「あの教会の主はこれに気付いてないのか、まさか……」

 これだけ魔物が集まれば、町では相応の被害が当然出ているはずだろうに。

 しかし、気配が探れないのでは仕方がない。京は血に残る匂いを頼りに、辺りを探るため、しらみ潰しに周囲を歩き回ってみる事にする。

 普段、面倒臭い事や肉体労働的な行動を嫌う彼にとっては破格の決断だ。

 「……まあ、事は百年かけてようやく見つけた大事な大事なイヴの為だからね。多少の労力の浪費も事前投資の内……」

 独り言を呟きながら、自然と口元が緩み、にやけてくるのを抑えきれない。

 「ああ、ホント。長い船旅の間の退屈と粗食に耐えてまでこの国に来た甲斐があた」

 堪えきれず、肩が震える。

 「あ、あはは、ははははは」

 高笑いが虚しく空に消えていくのも構わず、京は狂ったように笑い続ける。


 「はは、はははははっ」

 ――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……

 最後の返信メールを見ながら、その耳障りな鐘の音を掻き消すように、京は声を上げて笑った。

 「全く、多少どころかこの僕がこれだけ多大な労力を費やす事になるなんてね……もう、後にも先にもきっとコレっきりだろうな」

 蓋の転がった真っ黒い棺を足で蹴り飛ばす。

 「寝てるんだからって、油断してたよ。折角無抵抗に寝ててくれてたんだ、早々にとどめをさしておくべきだったんだよね……全く、僕とした事が。とんだ失策だ」

 はあ、と息を吐きだし。整然と並ぶ埃だらけの椅子の一つに腰掛けて足を投げ出し、背もたれに両腕を広げて預け、高い天井を見上げる。

 ずっと、頭の上の方から重たい音が降ってくる。

 ――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……

 「――あの日も、こうして鐘の音が響いてたな」


 ――足元に、巨大な魔方陣が展開されて。

 途方もない力の奔流に、京の血が己の意思に反して竦み上がった。

 本能、という名のそれが、相手との力の差を勝手にはかり、全身の筋肉を萎縮させる。

 ――動けない。ギリっと牙を噛み締め、低く唸った。

 あちらも、もう息は絶えだえ……今にも膝をつきそうなのを気力のみで踏ん張り、術の詠唱を続けているような状態だ。

 あと一歩、あと何か一つあれば、この状況をひっくり返せる。

 その、確信があった。

 そしてあと一つの“何か”のアテもある。

 がくりと、その場に崩折れ、地に膝をつきながら、それを待った。

 (……クソッ、何処で何してやがる、あのエクソシストめ!)

 遠く、山の麓で教会の鐘の音が響く。――夜中の12時。

 麓の村はもう寝静まっている頃だろう。

 ――分かっていた。独力のみで、はるか悠久の時を過ごしてきたこの山の主に適うはずなどない事は。

 それでも、どうしても手に入れたかった。その、稀なる血を――。

 それを手に入れる為には、那由他の守護を打ち破り、そこから奪い去らねばならなかったから。

 真っ向勝負で適わない分、知恵をこらし、謀略を巡らせ――そして今、こうしてギリギリのところまで追い詰めたというのに。

 あと、一歩――、なのに……肝心のシメが締まらない。

 目が、霞んできて……。

 

 そうして、あの時京は那由他の術によって封じられたのだ。

 当の術者本人――那由他もその後すぐに神父によって封じられたため、術は完成せず、一時的なものとなり、数十年の後に京は封じから解かれ、自由の身になった。

 ――しかし、その時にはもう彼女はこの世になく。

 「ようやく、見つけたんだ。彼女の魂を持った娘……彼女の生まれ変わりを――」

 あれから、さらに数十年の時をかけて。

 なのに、彼女はまたしても那由他の庇護の内にある。

 またしても、彼女の魅惑的な血は那由他のもの――。

 愉快すぎて、笑いたくなる。

 「でも……」

 ククッ、と小さく笑い、京は椅子に身を投げ出したまま目を閉じる。

 ひゅぅ、と鐘楼に風が吹き込み、鐘を揺らす。

 ガラァン、と一つ、鐘が鳴り。

 「イヴ……君と永久の夜を生きるのは――那由他、お前じゃない。この僕だ」

 それだけ呟き、静かに眠りへと落ちていった。

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