第拾弐話 one's real intention
「い、痛ってー! 何すんだよぅ」
ゴン、とかなり痛そうな良い音がした。
「ふん、ここでは師範と呼べといつも言っているだろう。……で、夏也。そちらさんは?」
「ん、ああ。千恵のイトコ……だってさ」
那由他は軽く会釈をする。
「お初にお目にかかります。若宮那由他と申します。千恵のいとこで、訳あって先日から彼女の家でお世話になっています。その縁で、彼や彼のご家族にも良くしていただきまして――」
「……それで、ちょっと部屋、貸して欲しいんだけど」
那由他の言葉を遮り、夏也が言うのを見下ろし、彼はハーっと拳に息を吹きかけ、もう一発ガツンと殴りつける。
「夏也。ここではきちんと礼節をわきまえ、目上の者には敬語を使え、といつも言っているはずだな」
……やっぱりいい音がして、
「痛てっ!」
夏也がうっすら涙目になりながら悲鳴を上げる。
「夏也。今日は千恵はどうした、来ないのか? それと……若宮君、と言ったかね。君は夏也の同級生かね? 武術の方は――」
「はい、同じクラスです。千恵なら、柊木さんと一緒ですよ。武術は……正式に習った事は一度もありませんが」
「ふむ。……それで夏也、部屋を何に使うつもりだ?」
「ちょっと、男同士の話し合いを――」
するつもりで、と続けようとした夏也を、彼は三度殴った。
「神聖な道場を、私闘に使う事は許さん。……自己紹介がまだだったな。私はこの道場の師範を務める、橘柑吉、聞いてはいるだろうが夏也の祖父だ。君は、何のためにここへ来た?」
「……すみません。行き先も聞かずに彼について来たので。ただ、昨日駅前の交番の――船越さん……でしたっけ、彼から千恵を心配していると聞きました。もし良ければ、話を聞かせては貰えませんか?」
夏也が、頭を押さえながら、こちらを見た。
「私はしばらくの間、彼女と同居する事になっています。簡単な事情は千恵自身から聞きましたが、彼女が話してくれた以上の事を、彼女の前で聞くのは良くないと控えていました。けれど、私は知るべき事をきちんと知った上で彼女を支えたい、そう思うんです」
「……そうか。取り敢えず上がって……来なさい」
師範は廊下の一番奥の扉を開け、中へ二人を導いた。
「――で、どうなの実際のとこ? 千恵、まんざらでもないんじゃないの、若宮君の事」
かなり強引に連れてこられたのは、風花の自宅。その彼女の部屋で、湯気の立つミルクティーを飲みながらビスケットをかじる。
カーペット敷きの床に座布団を敷いて座り、適当に足を投げ出して寛ぎながらも、そう迫る風花の顔は全然寛いでいない。完全に真剣そのもの、何かしら有益な情報を得るまでは諦めないからね、と、言葉には出さずとも、その視線が雄弁に語っていた。
人間相手の喧嘩なら負けない自信のある千恵も、風花にこうやって迫られると弱い。
「……どう、と言われても。いとこ、って言っても会うのは初めてで。本当にまだ会ったばかりなんだもん」
しかも人には言えないが本当はいとこでも何でもなく。それどころか人ですらない。
「でも、嫌いじゃないでしょ、彼の事」
……それは、そうだ。人ではないけれど、誠実で、律義で。
よく心臓に悪い事もしてくれるけど、責任感が強くて、契約とはいえちゃんと千恵を守ってくれて。
「うん。嫌いじゃ、ない。ううん、私にとっては大事な人。でも、彼氏とか、そういうのじゃなく、風花や夏也や……お母さんたちを大事に思うのと同じで……」
言いながら、千恵は思い出す。
あの時、音矢さんを抱き止めた那由他を見てチクリと痛んだ心。
怒りと悔しさに震えながら睨みつける赤い瞳に思わずドキッとしてしまった胸。
ここ最近、しょっちゅう爆発する心臓。
そして何よりも、彼の傍に居る事で得る安心感が。
例えば夏也や悠兄、風花や両親相手には今まで感じた事のない感情。
――本当に……
「ねえ、千恵。それ本当に、例えば夏也相手に感じてるのと同じ?」
千恵の頭に僅かに過った疑問を風花が言葉にして尋ねた。
「最近、夏也ってばどこだかのバンドの女の子に夢中だけどさ、それについて千恵、何か思う事ある? こう、胸が痛いとか」
千恵は首を左右に振り、
「え? ……ないけど」
一瞬ドキッとしながらも答える。そう、夏也相手には感じた事のない――
「だよね。でもじゃあ、若宮君相手には? 実はさ、昼間千恵がクラスの女子に連れ去られちゃった後、私、若宮君を呼びに行ったんだけど……その時さ、あのグループの一人が彼に告ってたんだ」
「え!?」
「まあ、若宮君の注意を千恵から逸らすのが目的だったんだろうと思うし、若宮君もその場でソッコー断ってたけど」
「あ、あー、そ、そうなんだ……」
「ねえ、千恵。今、ホッとしなかった? 若宮君が告られてたって聞いて、一瞬ドキッとしなかった?」
……した。胸がチクリと痛んで。その後で、すごくホッとした。
「ねえ、その時彼、何て言って断ったと思う?」
風花が何故か半眼になりながら言った。
「『今、私にとって一番大事なのは千恵を護る事。千恵との約束がある限り、私は彼女の傍に居ると決めている』」
それは――それが、千恵が那由他と交わした契約だから。……分かっている、はずなのに。勝手にドキドキする心臓を思わず止めてしまいたくなる。
「ねえ、どこの少女漫画のヒーローなの、彼は。告った女も凄い顔してたけど、私だってしばらくトイレで鏡と睨めっこするハメになったよ……」
意思とは無関係に火照る顔をクッションに埋める千恵に、
「……認めなさい、千恵。若宮君の事、好きなんでしょ?」
風花が突きつける。
――好き。……那由他の事が、好き。
初めて会った瞬間から蠢く心の奥の感情とは別に。
実際に彼と関わり合う中で育ったそれは、紛れもない千恵自身の想い。
でも。
彼が千恵を護るのは、契約だから。
彼は、モノノケで。
千恵は、人間で。
千恵は、彼の糧で。
彼の事が好き。……だけどきっと、この想いが叶う事は無い。
――だから。
「……好きじゃ、ないよ。彼の事、夏也より大事に思ってるのは認めるけど。そういう好きじゃ、ない」
午後五時半。……夕飯時までにはもうしばらくある。ケータイで時間を確認し、千恵はぽつぽつ星が浮かび始めた空を見上げた。
自覚してしまった想いと、分かりきった未来に痛む心。
思わず泣きたくなって、風花の家を飛び出してきた。
――このまま家に帰ればきっと、那由他が待ってる。
「ちょっと、道場に寄って行こうかな」
ちゃんと心頭滅却していかねば、きっと心が耐えられないから。
そう思い、見慣れた道場の扉を開けた。
「こんばんわー。師範、いらっしゃいますか?」
ガタっ、と奥の部屋から音がして、ガラリと開いた扉から師範が顔を覗かせた。
「おや、千恵。風花と一緒だったんじゃなかったのか?」
何故師範がそれを知っているのか。
「はい、ついさっきまで一緒でしたよ。でも、帰る前にちょっと身体を動かして行こうかと思いまして」
千恵は首を傾げながらもそう答えた。
「……そうか、ちょうど良い。千恵、少し彼の相手をして貰えるか?」
「はい……?」
千恵はもう一度首を捻りながらも、道着に着替えて奥の部屋へ入る。
「え、那由他に夏也? ……師範、相手ってもしかして」
「若宮君の実力を知りたい。夏也では不安だからな、私が相手をしてやろうと思っていた所なのだが、自分で相手をしながらでは、どうしても主観が混じってしまう。ちょうど良い所に来てくれた」
……那由他への気持ちを冷ます為に来たはずなのに。
だが、師範には逆らえない。
千恵は畳敷きの部屋の真ん中で、那由他と向き合った。
「千恵は空手に柔道、合気道に剣道、弓道と一通りの心得がある。実力もお墨付きだ。若宮君、ひとまず型など気にせず自己流で構わん。一度千恵と組んでみろ」
言われた那由他は少し困った顔になる。
それはそうだろう。
彼にとって千恵は守るべき契約者で。
彼は、モノノケで。
千恵がどんなに強くても、どんなに頑張ろうとも勝てる相手じゃない。
そんな事は、分かっているけれど。
「――よろしくお願いします」
軽く頭を下げた後で、那由他に足払いをかけ、そのまま彼の身体を投げ飛ばした。
不意を突かれ、割合簡単に投げ飛ばされた彼はしかし、床に転がりながら反射的に受け身を取って衝撃を受け流し、即座に立ち上がった。
そこへ、間髪入れずに突きや蹴りを繰り出すと、那由他は戸惑いながらもそれを全て完璧に受け止め、受け流す。
なかなか間合いが詰められず、懐に入れない。体勢を崩す為の攻撃は全て流される。
勝てる相手じゃない、なんて事は、良く分かっているはずなのに。乱れた心が、ムカムカしてくる。
先程から殆ど動いていない那由他に対し、次から次へと攻撃を繰り出す千恵の息は上がり始めている。
不意に、外で雷鳴が響いた。……さっきまで、晴れていたはずなのに。夏でもないのに夕立だろうか?
その音に僅かに気を逸らした隙を逃さず、千恵は那由他の胸倉を掴んで押し倒し、床に伏せる。
ざあざあと、音を立てて降りだす雨。
ぽたりと、那由他の頬に滴が、一つ、落ちて。
那由他はここで向かい合ってから初めて真っ直ぐ千恵の目を見た。
戸惑いに揺れていた瞳が、その一点を見定め。
那由他の手が、千恵の道着の襟を握り、そして引いた。
力任せに体勢の上下を入れ替え、千恵の拘束から逃れた彼は再び立ち上がる。
転がされた千恵も、反射で立ち上がり、二人は先程と立ち位置を逆に変え、再び向き合った。
那由他が、動く。
中段の回し蹴りを腕で防いで受け流した千恵は、その勢いを利用して那由他の懐に入り、那由他の襟を取ろうとするも、即座に体勢を整え直した那由他に逆に襟を取られ、そのまま背負い投げられた。
パシン、と背が畳に叩きつけられる。もちろん、身体が即座に受け身を取っているからそう痛くはないが。
「――そこまで」
と、ここで師範が終了を告げた。
転がった千恵が、自分に差し出された那由他の手を取った時には、いつの間にか心は凪いでいて。
「……とまあ、こういう訳だ」
師範は、そう言って那由他の肩を叩いた。
「もう、分かっただろう。自分の事も、今必要な事も」
そして、師範は千恵を見た。
「千恵、この若宮君とやら。今時の若者には珍しい良い男じゃないか」
それは……そうだろう。
(だって、今時の若者じゃないし)
千恵は心の中だけで呟く。
「久々に、仕込み甲斐のありそうな見込みのある奴だ。今度からは一緒に来ると良い。一人で黙々打ち込むより、誰かと組む方が楽しいだろう、千恵」
「師範……」
「ほら、今日はもう帰れ。ああ、夏也。お前は残れ。たまには爺孝行でもしてけ」
夏也の襟首を掴み、師範は裏口を開ける。そこには、二階にある自宅へ上がる階段があるのだ。
「貰い物の素麺が大量に余っててな。食べていけ」
「は? この時期にソーメンて」
夏也の抗議をまるっと無視して、師範は、
「良いから、来い」
と、ズルズル引きずって行き、パタン、と扉は閉じられて。
「……取り敢えず、着替えて帰ろっか」
「ああ」
短いやり取りをかわし、千恵は更衣室で手早く着替えを済ませる。
「……済んだのか?」
更衣室を出ると、とっくに着替えを済ませた那由他がカバンを持って立っていた。
「うん、帰ろう」
「ああ」
やっぱり短いやり取りの後、何を喋るでもなく、街を歩く。
那由他は、じっと何かを考え込んでいる様だったから。
でも、その静けさに気まずさはない。
ただ、何かが少し、変わった気がした。
風花は、ケータイを開いた。千恵とお揃いにした、お気に入りのアイドルグループの最新曲の着メロ。
新着メールが、一件。
Time 11/3 18:39
From 京
Sub 明日、ヒマ?
▼今日、バンドメンバーから隣町にある
美味しいって噂のパスタ店の割引券を貰ったんだ(*^^)v
良ければ一緒に行かない?
あ、もちろん皆には内緒で(^_-)-☆
「……千恵。夏也には悪いけど、私はホントに若宮君との仲、応援したいと思ってるんだよ。千恵にはいつも笑ってて欲しいし。……私も、幸せになりたいから」
呟きながら、風花は返信メールの送信ボタンを押した。
▼了解〜♪
店の前で待ち合わせしよっ☆
時間はどうする?
すぐに返信が返って来る。
▼11時半でどう?
▼いいよ、11時半ね( ..)φメモメモ♪
明日、楽しみにしてるネ☆
風花はもう一度、返信メールの送信ボタンを押し、送信完了の画面が出るのを確認してからケータイを閉じた。
「私、昨日久々に見たんだよ、千恵がちゃんと笑ってるの。……あれからそこそこ経つのに……。千恵の笑う顔が見たくて、夏也を応援してきたけど。……夏也じゃ、ダメなんだね。……ねえ、私、千恵と一緒にダブルデートとかするの、結構楽しみにしてるんだから。絶対、若宮君をモノにしなきゃダメだからね、千恵……」