繰り返していたかったんだ
かつて即興小説トレーニングで書きました。
お題:名前も知らない発言
人の名前を忘れがちになった。
少年はクラスメイトに曲がり角でぶつかった。その人だということはわかる、声が証明してくれるからだ。しかし名前が出てこない。顔も記憶のなかの顔と一致していないような気がして、しばし、相手をぽかんと見つめてしまう。親しげに話しながらも、親しげに話す理由というものが自分の中には残っていない。漠然とした不安感のなかで少年が藁にもすがる思いで掴むのは、一瞬一瞬の「親密な会話」、自分の肩を叩く相手の手の重さ、他愛のないやりとり。少年が少年として学校に居ることを証明するのは、そればかりのように感じられた。
少年はクラスでも目立たないほうだったが、クラスメイトには愛されている。クラスメイトはよく冗談を言い、少年は笑った。植物が好きで、なかでも梅雨時に校舎裏に咲く花が好きで、毎日、様子を見に行った。土が乾けば水をあげた。教科書もカバンも忘れてしまうようになっても、そのことだけは忘れなかった。するとある日、校舎裏で美しく咲いている紫陽花のそばで、クラスメイトの少女が顔を伏せて泣いているのに出会った。
名前が思い出せない。顔も、なんとなく知っている子だ、くらいにしかわからない。けれど、少年は少女を慰めた。
顔をあげなよ、なにがかなしいの? 話してみて。
「A君ね、よくここに来ていたんだよ」
今も来ている。少年は、少女がおかしなことを話しているのに気がついた。ここのところ、毎日美しく咲き誇っている花の色が、急速に褪せてゆく。少年は夏服なのに、少女は冬服を着ている。
「クラスのみんなが話題に出さないようになって、まるでA君なんて最初からいなかったみたい。でも私、どうしても忘れられないんだ。A君がクラスにいないのは、かなしいよ」
手に持っていたはずの緑色の如雨露が、少女の足もとに置かれている。紫陽花は枯れている。少年はぼんやりと、視界に入った花を見つめた。
ああ、いつのまにか、季節はもう秋なのだ。
「大丈夫、きっと、きみが覚えていてくれてうれしい」
少女が顔をあげると、そこには誰もいなかった。どこに行ってしまったのだろう。知らない人に励まされちゃったな、A君の声に少し似ていたな。少女はハンカチで涙をふき、如雨露を持って立ち上がった。クラスに戻ろうと駆け出した少女の足元で、コスモスの花が揺れていた。