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——……って、なん……の。こ………の…ひど……よ。
夢見心地の世界でそんな声がする。阿良々木らあらはどこかうっとりとしたような頭でその声のする方向へ手を伸ばした。何故だか分からないがそうしなければならないと思ったのだ。手を伸ばし、そして声の主をこちらに引き戻さなければ、と。
しかしらあらの感情とは裏腹に、どれだけ伸ばしても手は届かない。それどころかだんだん声は離れていくように感じた。待ってと声を出そうとしても音になることはなく、徐々に体も意識も重く沈んでいく。耳の奥のほうで機械的な音が聞こえ始めて、その瞬間「これは夢だ」と頭が認識した。沈んでいた意識が急速に引き上げられていくような感覚がする。
「……あ?」
はっとしたときにはいつも通りの天井が目の前に広がっていた。時計の目覚ましが鳴っていることに気づき、寝起きの気だるい体を引きずるようにしてアラーム音を止める。伸びをして一つ大きな欠伸をする頃には、先ほどまでの夢の内容は靄がかったような印象になっていた。
暖房を入れたあと寝間着を適当に脱ぎ、深い藍色の制服に腕を通す。クローゼットから取り出した制服は周囲の温度に馴染んで冷え切っていた。衣擦れの音と自分の呼吸音しか聞こえないような静かなここは、阿良々木家の離れである。本邸と離れたこの離れにはらあらしか住んでいない。らあらが学校や依頼所に行っている間に使用人たちが最低限の家事を済ませておいてくれるが、人の出入りなどそれくらいのものだ。おおよそ一般的な家庭とは言えないだろうが、らあらの出生や状況を考えればまだましな環境だと言えた。
この世界には妖魔というものが存在する。常識や科学で解決できない超常現象を引き起こす原因とされるものだ。所謂天災や未解決事件と呼ばれるようなものはこれが絡んでいることが多い。
そして、それを滅する特殊能力を持つ人間を“退魔士”という。その中でも名門と呼ばれる【十家】の一つ、【四之坂】の本家、阿良々木家が彼女の生家なのだ。
らあらは阿良々木家の次女だが、長兄や長姉とは腹違いだ。らあらの母はもともと阿良々木家で働く使用人だったが、頭首である父に手を付けられてらあらを宿し、本妻の怒りを買って家を追い出された。しばらくは母子二人で過ごしていたものの、成長したらあらの有した能力が本妻の子二人よりも勝っていたために本家に連れ戻されたのだ。血と実力がものを言う世界とはいえ、振り回される側としては迷惑この上ない。そこでらあらは「本家の円満な家庭のため」というもっともらしい理由をつけて離れで生活をしているのだ。
ようやく温まってきた部屋で作り置きの朝食を適当に口に入れる。バランスのとれたメニューであり、多くの人が好むような上品な味付けなのだろうが、一人で食べれば味気ない。機械的に食事を詰め込み、空いた皿をシンクに放り込む。あとは学校から帰るまでに使用人が処理しておいてくれるだろう。身支度を整えてもう一度伸びをすれば、もう朝見た夢の内容は思い出せなかった。
送迎すると言う運転手をそれらしい言葉で断り、他の学生や通勤のサラリーマンに混じって電車で学校に向かう。名家には名家なりの外聞があるのだろうが知ったことではない。学生の身分でできることなどたかが知れているものの、らあらなりの小さな反抗でもあった。無論、そこまでのダメージがあるとはもともと思ってもいない。
「阿良々木~おはよ~!」
「んあ、おはよ~。朝から元気だねえ」
声をかけてくる級友たちに返事を返しつつぶらぶらと駅から学校に向かって歩く。全く心配事がないとは言えないが、比較的穏やかな日常。退魔士の家系に生まれなければおそらく当たり前のように享受できていたそれを、しかし退屈に感じてしまうのも血なのかもしれない。
しかし往々にして、そうした平穏な日常は続かないものである。
◇ ◇ ◇
「おかえりなさいませ、お嬢様」
学校を終えて帰宅し、予想外の場所から声をかけられたらあらは少なからず驚いた。静かに部屋の隅に控えていた女性の姿に気づき、ああ、と短く返事をする。
「うん。今帰ったよ。ええと……」
「青垣でございます、お嬢様。日頃こちらの離れで、お嬢様のお世話周りを担当させていただいております」
青垣と名乗ったその女からはほとんど人間味を感じない。年の頃は三十前だろうか。普段顔を合わせていないことも相まって妙な気まずさがその場に横たわる。らあらがその沈黙に耐えられなくなる直前に青垣は口を開いた。
「本日は青垣からお嬢様にお願いしたいことがあり、大変不躾ではございますがこうして離れで待機させていただいた次第でございます」
「お願い? まさか、そんなことを言いながら旦那様や奥様からのお小言を君が伝えに来たってことじゃないよね?」
「ええ、この件にはご頭首様も奥方様も関わっていらっしゃいません。青垣の独断によるものでございます」
らあらはじっと青垣の目を見つめる。感情の読めない目ではあったが、しかしそこに嘘をついている様子はない。再びしばらくの沈黙があり、次はらあらが先にその沈黙を破った。
「……それで、君のお願いって?」
その前に、と青垣は椅子を勧める。らあらが座ると飲み物を机に置き、それからそっと一つのクリアファイルを差し出した。中には数枚のプリントが入っているようで、らあらが何か尋ねる前に青垣は「中をご覧くださいませ」と声をかけた。らあらもそれにひとつ頷き、中のプリントを取り出す。
飾り気など一切ないそのモノクロのプリントの一枚目、そこに書かれた文字を見てらあらは一瞬眉根を寄せ、それから青垣のほうを見た。
「これは、君からの“依頼”ってことかい?」
「受けていただけるのであれば依頼になります。もちろん、お返事次第でお嬢様が所属していらっしゃる黒本退魔依頼所のほうへ青垣が正式に依頼をさせていただきますので、それ以上のお手間は取らせません」
青垣に冗談を言っている様子はない。らあらは再びプリントに目を落とし、そこに書いてある冗談としか思えない文言をもう一度見た。
“天川町連続失踪昏睡事件”と銘打たれたそれは、どう見てもらあらが所属している必要最低人数がそろっていない弱小チーム、“R”で取り扱うような規模の事件ではない。そもそも人数が少ないチームが扱う依頼は部屋や家で起こるような小規模なものであり、広域に渡るものは大人数のチームや実力のある退魔士が担当するからだ。この事件も依頼名に漏れず、一町規模のもの。いくらRが一度市規模の退魔依頼に携わったからといって、そう何度もこの規模の依頼が転がり込んでくるわけではない。
らあらがある程度目を通したことを確認したのか、青垣は静かな声で依頼内容を復唱し始めた。
「“天川町連続失踪昏睡事件”は、四ヶ月ほど前……ちょうど夏ごろから天川町で断続的に起こっている怪奇事件の名称でございます。お嬢様は天川町に行かれたことはなかったと記憶しておりますが……」
「行ったことないね。基本的に自分は遠出すると監視が付くから県境を越えるもことないし……隣の県だよね」
「はい、このあたりからですと公共交通機関等を利用して三時間程度かかります」
隣県北部にあるという天川町という地名に聞き覚えはほとんどない。かろうじて天気予報で見かけたことがあり、なんとか隣の県だと分かったくらいである。人口が極端に少ないというわけではないが、以前担当した佐々熊市の“赤ずきん連続殺人事件”ほどの規模にはなるまい。少しばかり安心して続きを促す。
「まずこの事件ですが、被害者には表立った共通事項がございません。唯一共通事項と呼べるのが、“天川町内で”失踪し、その後発見されるというくらいで……年齢、性別、居住地等は全くのランダムのようです」
「となると、佐々熊のときみたいに目立った特徴が本当にないんだね」
「左様でございます。被害者たちはある日忽然と姿を消し、早くて三日、最長で十日後に発見されます。全員が深い昏睡状態にありどのような外部刺激を与えても目覚めることがございません。脳波から夢を見ているような状態が確認されておりますが、それ以上のことは分かっておりません。現在までで約五十人近い人数が当該の症状で病院に搬送されております」
「随分人数が多いな」
僅かにらあらの片眉が上がる。四ヶ月で五十名も行方不明者が出ればそれは大騒ぎになるだろう。全国区のニュースくらいにはなっていてもよさそうだが、しかしそんな様子はなかった。らあらの表情から言いたいことを悟ったらしい、青垣は「現地の退魔士が対応に当たっておりましたが、残念ながらそちらも昏睡状態のようです」と付け加えた。どうもその退魔士の所属する団体から報道のNGが出ているらしい。全く報道に出ないというところだけで判断すれば、十分事務所が絡んでいるレベルだろう。
しかし、町規模の依頼を任されるような退魔士ですら返り討ちにあうような依頼であれば、なおのことなぜ自分に任せようとするのか。青垣の意図が読めず、らあらは少しばかり困惑する。しばしの沈黙ののち、先に口を開いたのは意外にも青垣だった。
「差し出がましいことではございますが、青垣はお嬢様のお世話周りを担当させていただきながら、お嬢様の人となりを拝見しておりました。もちろん一介の使用人に分かることなど多くはございませんが……それでも、お嬢様が本家の皆様が仰るような方には思えなかったのです」
本家の皆様とはすなわち、らあらの実父、義母、義兄、義姉のことだろう。頻繫に話題に上がることはないだろうが、夏頃派手に依頼周りで暴れたこともある。【十家】の一つである【九之山】の少年、綾也に直接ケンカを売った時はさすがに義兄からきつめの折檻を受けたものの、事件解決以降特にらあらに対しての直接的なコメントはなかった。向こうとしても何か思うところはあったのかもしれない。らあらは特段気にしていなかったわけだが。
「青垣は、主君としてお嬢様をお慕いしております。それ故にお嬢様が正しく評価されることを望んでおりますが、青垣の独力ではお嬢様の評価を変えることは大変困難でございます。青垣にできることは……お嬢様の評価を変えるきっかけを探すことだけでございました」
それでもどうやら、この青垣という女はらあらに酷く惚れ込んでいるらしい。今までの経験上、そういう風に見せているだけという可能性もないではないが、それを今の段階で疑うほどらあらも狭量ではなかった。
「あ、そ」
ポーズとして気のない返事をし、もう一度ファイルに目を通す。それから大きく聞こえるようにため息をついた。顔にも態度にも出さないが、僅かに青垣がまとう空気が緊張感を帯びる。
「とりあえず、このファイルのスキャンデータあるでしょ? そっちを自分の端末に送ってよ」
相方にも先に聞いてみないと、依頼所に持ち込まれてからじゃ面倒なんだよね。
憎まれ口のようにそう付け足したらあらの言葉に、青垣は頷く。それから、ようやく人らしく笑った。