鏡越しの配信者
高校を卒業して就職した会社は従業員30名程度の中小企業だった。僕は総務部に配属された。
そこは、何でも屋の様な部署だった。しかも、そこの部長がザ・昭和のパワハラ、モラハラ当たり前の人だった。
雑用はどんどん押し付けられ、それでいて定時に仕事が終わらなければ無能扱いされサービス残業を強要される毎日だった。数ヶ月が経ち仕事に慣れて来て定時上がりの目途が立って15時休憩を取っている事をさぼっていると評価されて、本当にさぼっている社員の仕事までやらされる事となって行った。
仕事が出来るようになればなる程、残業時間は増えて行くのだった。
そんな環境で三年間働き続けた結果、僕は精神に異常をきたして会社を辞める事になった。
それから三年の月日が流れた。僕は今『鏡越し王子』と呼ばれる程の人気動画配信者となっていた。
そもそも僕は両親の愛情に救われたのだ。僕よりも早く僕の異常に気付いたのは母だった。母はすぐに父に相談し、父も次の日には僕を飲みに連れ出していた。
安居酒屋で酒の力も借りて僕は現状を愚痴として父に吐き出したのだった。父はただ話を聞いてくれると、よく頑張ったと言って頭を撫でてくれたのだった。年甲斐もなく大泣きしてしまった。
翌日には心療内科に連れて行かれ、医者の診断書を取らされた。それと辞表を会社に持っていくと、あっけない程簡単に退職となった。その時の解放感は何とも形容しがたいものでした。
暫くは家と病院の往復だけの生活だった。親の優しさに甘え脛を齧らせて貰っていた。早期治療と薬が合っていた事と共に重要な役割を果たしたのが一枚の鏡だった。
少し大きめの姿見は子供のころから僕の部屋にあった。時に一人遊びの友であり、学生時代はクラスの出し物の確認に使ったり、社会に出てからは笑顔やネクタイの練習相手でもあった。
その習慣が続いていたお陰で、家に引き籠っていても最低限の身だしなみには気を使っていれた。ある時に自分の思いを伝えてみたくなり、それを動画で配信しようと思えたのもそれがあったからだと思っている。
それでも流石に顔を晒す勇気はなかったので、鏡越しにスマホを構えて思いの丈を吐き出したのが始まりだった。
温かいコメントに後押しされて続けて行くうちに、いつしか会社員の時の給料を超えていた。
父と母と温かい視聴者に囲まれて、僕は今、幸せです。