夏の妓楼跡
ちいさな人影が廃墟に見えたので、桐村北斗は足をとめた。八月の日差しを手でさえぎりながら、雑草におおわれた建物を見つめる。
今にも取り壊されそうな、日本古来の木造建築。戸や土壁がなくなって、トタンで補修されているところもある。二階窓には欄干、丸窓には細工が施された格子がついていて……妓楼であったとわかる。
「兄ちゃん、ここらは幕府公認の色街やってんで」と、通りすがりの老人に教えられたので、隠れた歴史は知っている。アスファルトの割れ目から草が生えている界隈だが、夜に栄えた時代もあったのだ。
風情のある格子や窓。迷路のような細い路地。
かつて遊郭だった名残は、片田舎のそこかしこにある。妓楼だった建築は、現在は住居や飲み屋として使われているものが多い。しかし桐村の前にあるのは、誰も出入りしない廃墟だ。
……さきほど物影に消えた人影は、見間違いだろうか。
……それとも、ときどき出会ってしまう、ひとでないものか。
霊なら、ほうっておけばいい。身を守るには無視するのが一番だ。だけれど生きている子が廃墟にいるのなら、見過ごせない。図書館での自習を終えて帰るだけだ。寄り道してもいい。
桐村は空き家に近づいた。微風が吹き、むっとした草の匂いが鼻につく。
玄関前で耳をすませると、かすかに幼い声が聞こえてきた。
――五、六、七……モウイイカイ。
――もういいよー!
ああ、かくれんぼの声だ。最低ふたりはいる。
もういいよと答えたほうは、近くにいるのか、はっきり聞こえた。女の子の声だ。
「きみら、なにやってんねん――」
桐村が中に向かって呼びかけた、そのとき。
閉じた玄関から、青白い二本の手がすり抜けてきた。
白い両手は桐村の腕を掴み、廃墟へと引っぱった。桐村は急に目眩を覚え、前に倒れ込んだ。玄関の引き戸があったはずなのに、どこにも体がぶつからない。
――ミツケタ。ミエルヒト、ミーツケタ。
子供がはしゃぐ声を聞いた。
◇◇◇
桐村は暗がりで目を覚ました。いつの間にか、古びた畳の上に寝転んでいる。陰湿な空気が肺にくる。
気づけば薄暗い座敷にいた。体を起こすと、土や虫の死骸が服についてきて、気分が悪い。ボディバッグには蟻が這っていた。
時刻を確認すると、正午を過ぎていた。
以前に霊に会ったときは、しばらく同じ場所から出られなかったが、今回はどうだろうか。
「かんにん」
うしろから明るい声がした。
振り返ると、座敷の隅に、白い狐面をかぶった子供が立っていた。
「………」
「あんさんのこと、巻きこんでもうたみたいや。な、ケガしてへんか?」
狐面が光の当たるところまで歩いてくる。狐面は張り子のもので、やけに古そうだ。仰々しい面をつけているが、子供が着ているのは、いまどきの女の子が好むスポーティファッション。髪はお団子状にまとめて、ピンでとめている。
「あんさん、霊とか見えるひとやんな」
桐村が黙っていると、狐面は小首をかしげた。
「なんか、喋ってえな」
「聞いてええか? きみは生きた人間やんな?」
「おっ。せやで」
声がより明るくなる。この声は、さっきかくれんぼで「もういいよ」と返していた女の子だろう。
「あんさんをここに引っぱってきた子は、ちょっと平成はじめに死んどるわ」
女の子が白い狐面を取った。人懐っこい笑顔が出てくる。
「挨拶が遅なりました。わたし、千堂果南っていいます。小学五年生」
果南と名乗った娘が、ぺこりと頭をさげた。
「……あんさん、いくつ? 高校生?」
桐村はにこにこしている果南相手に、顔をしかめた。
「距離感ない子やな」
「ひっど」
「誰にでも名乗ってんなら、やめたほうがええで」
「そんなん違うって!」
果南が大きな声を出した。
「あんさんは、これからかくれんぼする仲間やから、自己紹介したんや。ほら――さっき、あの子につかまったやろ?」
「……かくれんぼ」
「カズオ……、あ、カズオって、さっきの子の名前な。あの子とわたし、今日知りおうてん。もじもじして『遊びたい』って言うから、一緒に遊んでたんや。……そしたら急に、カズオが、外にいたあんさんを呼んでん」
桐村の頭に、戸を突き抜けていた白い手が浮かぶ。
わからない。この果南という子は、あれが幽霊とわかった上で、遊んでいたのだろうか。
「せやから一緒にかくれんぼしよ。もうお盆も終わりやし、あの子と遊んだってえな。……今、かくれんぼの鬼は、あんさんやから」
暗く汚れた座敷で、ほつれのない服を着た果南が目立つ。この女の子がきてから、雨あがりの境内のような、澄んだ空気を感じる。
桐村はゆっくり口を開いた。
「なんで」
「ん」
「なんで、そんなに、霊に肩入れすんねん」
「なんでって。困っているひとおったら、助けんと」
「あいつらに関わると、ろくなことなかった。転ばされたり変な熱が出たりと、散々や」
「あー、そんな目にあってたんか」
果南が「ちょっとかがんで」と桐村に言い、涼しげな顔を寄せた。それから、頭につけていた狐面をはずして、桐村に差し出す。
「ひとまず、このお面を貸すわ。お狐さんの力が宿った、なにかと便利なお守りやで。……せやから、かくれんぼの鬼やって?」
「……うっさいなぁ」
桐村は狐面を受け取ると、果南にたいして「見ーつけた」と言った。
◇◇◇
桐村は隠れている子を探すあいだ、果南からいきさつを聞いた。
果南は普段から、不思議なものを見たり、彼らと話したりできること。今日は盆帰りしていた霊の『カズオ』に会い、一緒に遊んでいたこと。立ち入り禁止の建物でかくれんぼをしようと言われ、誘いに乗ったこと。
「アホか。空き家は入ったらあかんし、危ないわ。二度とすんな」
「はぁい」
果南はそろそろかくれんぼを終わりたいようで、桐村と一緒に探してまわっている。
「あんさん、名前は」
「さっき言うた」
「せやったな。……いや、絶対聞いてへんわ」
「桐村や。高二」
「桐村さん」
ふたりは建物の一階も二階も探したが、カズオは見つからない。
桐村は腐った柱の影をのぞきながら、ため息をついた。
「ほんまにここにおるんか、あの子」
「おるはずなんやけどなぁ」
果南は屏風の裏や、障子の向こうを探していた。
「カズオ、桐村さんが鬼になるまでは、すぐ見つかっていたんやで」
部屋を見回すと、屋根裏に続くはしごがあった。割れたはしごをのぼって、屋根裏部屋を確かめる。しかし干からびた鼠の死骸があるだけだ。
ふたたび一階を探す。探している子は外に出たのかと思うくらい、気配がない。果南が「カズオどこ?」と、辺りに呼びかけていた。
「なぁ」桐村は廊下で、割れた床を見ている。
「あの子、きみが呼んでも出てこんな」
「……うん」
「あと残っているのは床下や。探してみるか?」
「床下?」
果南は囲炉裏をのぞいたまま、桐村に背を向けている。
「いやや」
こわばった声。
「なんや急に」
「気が乗らん。下は……なんかありそうや。確かめたない」
桐村は悪い予感がした。
果南が動かないので、桐村は囲炉裏のそばまできた。様子が変わり、沈んだ表情をしている。
「わたし、こういうの。犬や猫には、前にやられたことあんねん」
「そうか」
「あれは、気持ちええもんやない」
犬や猫の霊。そう察した桐村は、しばらく囲炉裏に視線を落とした。黒い南部鉄瓶が置かれたままだった。
「だいたいわかった。俺ひとりで見てくるわ」
膝に手をついて立ちあがり、桐村は囲炉裏から離れた。
廊下で狐面をかけてみると、割れた床から一本の手が、茸のように伸びていた。ゆらゆらと揺れて桐村を招いている。桐村は汗を服でぬぐうと、割れた床へと歩いた。
もう、自分がここに呼ばれた意味がわかる。
「桐村さん。やっぱり、わたしが」
「ええって」
カズオは最初、果南に頼るつもりだったのだろう。だけれど遊んでいるうちに、切り出せなくなった。
「かなわんやろ。そこで待っといてくれたら、十分や」
「……わかった。ずっと待っとく」
同じ年齢くらいの子に頼むのは、気が引けたのだ。
自分も小さな子供なら、同年代の子より、年配の子や大人を頼る。
床下は暗く、吐き気がするほどカビ臭かった。
潜ってすぐ近くに、土が高く盛られた場所があった。石を拾い、掘ってみる。白いものが出てくる。
骨だとわかった桐村は「見つけた」と呟いた。
朽ちた建物が、妓楼として使われていたのは戦後まで。公娼地域として使われたのは、それから十年の、昭和中ほどまで。
床下から見つかった白骨の遺体は、平成初期のもので、誰が隠したかは知る由もない。
◇◇◇
日が暮れて、空が藤色に染まる。かくれんぼをしていた廃墟の前には『立ち入り禁止』と書かれた、黄色い規制線が貼られている。
「それでは、また」と、聴取を行っていた警官に頭をさげられたので、桐村も深く頭をさげた。
子供の白骨を発見してから時間が経ち、寂れた町だというのに、野次馬が集まってきていた。「撮影は控えてください」と呼びかけられているのに、シャッター音が響き、光がまたたく。
桐村は群衆の中に、父親の姿を探した。迎えにくる予定だが、まだその姿はない。
「桐村さん」
くいと、果南が桐村の手を引いた。
「いろいろと、かんにんな」
神妙な面持ちで謝ってくる。
「ええで」
「そうは言っても」
果南はそばの警官に聞こえないよう、小声で話した。
「桐村さん、わたしより、大変そうやったし」
「……まあ」
遺体の第一発見者ともなれば、聴取は長くなる。
『廃墟にいた果南を注意しようと、自分も不法侵入してしまった』という言い分が通ったので、侵入罪は免れた。
「気にしなや。もうすぐみんな、家に帰れるし」
「……おおきに」
果南がほほえみ、持っていた狐面を、桐村に差し出した。改めて見ると、狐面は口が大きく、愛嬌がある。
「あんな、桐村さんは、カズオみたいな子に好かれる体質やねん。あとは疫病神さんにも好かれとる」
「最低やな」
「このお面、あげてもええで。病気せんようになるで」
「いらん。持っとき」
「そうか? ほな、美味しいおはぎでも食べて。疫病神さんの好物でもてなしたら、離れていきはるわ」
黄昏時の空で、一番星が光る。
「わたしの家、和菓子屋やねん。桐村さん、今日のお詫びに、おはぎ食べにきてや」
「ああ、そらええな」
果南は桐村に、店の場所と名前を教えた。
そして迎えにきた母親と共に、家へ帰っていった。
しばらくして、桐村の父親もやってきた。警官と話したあとは「疲れたやろ」と、帰路を急ぐ。
桐村は帰る前に一度、妓楼跡に向かいあった。辺りは光や音で騒がしいが、そこはしんと静まっている。
かくれんぼは終わった。だけれどまだひとり、残っている友だちがいる。
やっと体も家に帰れるな。桐村は黙祷を捧げ、場を去った。
(終)