第8話 フォッケル艦長
マーサを火星に置き去りにした後、私たちは再びパトロール任務に就いていた。火星軌道を離れ、最終的には小惑星帯へと向かうのだ。
不毛な争いを回避するために、太陽系内の鉱物をはじめとする天然資源は人類共有のものとされ、地球上の国と地域は宇宙資源開発公社への出資割合に応じて宇宙開発で生じる利益を享受していた。
しかし、中には小惑星の鉱物資源を独自に採掘し、不当に利益を得ようとする輩もいた。俗にいう宇宙海賊だ。火星は資本を投下された側、開発された側で宇宙資源開発公社の出資者ではなかった。そのため、地球の国々のように宇宙開発で得られる利益を享受できなかった。単なる労働力として、搾取される側に過ぎない火星では、宇宙資源開発公社への不満も大きく、宇宙海賊への関与が取り沙汰されていた。
とはいえ宇宙での違法行為が全て火星人の仕業だったわけではない。地球の非合法組織が関与している場合も多かった。
いずれにしても、資源の盗掘などの違法行為がはびこらないように、太陽系内に数多くの人工天体が設置され、光学カメラや赤外線カメラ、X線カメラ等で膨大な情報を収集し、人工知能で解析していた。
また、違法行為が発見された場合、逃走を許さず、すぐ現場に急行できるよう、金星軌道から木星軌道までの広い範囲に、一定数のパトロール艦隊が配置されていた。
私たちは、そういう地球の利益を守るための歯車の一部だったのだ。
「イザベル・イングラムさん、でしたっけ?」
そのとき、私は宇宙巡航艦ペルセウスの鏡張りのトレーニングルームにいた。
ちょうど合成ゴムの張力を利用したスクワット器具でのトレーニングを終えたところだった。
水色のふかふかの大きなタオルで汗を拭いていると、黒い髪をショートカットにした美しい女性が優しく微笑みながら話しかけてきた。
見た目の年齢は三〇代の後半くらいだろうか。若く見えたけど何ともいえない大人の落ち着きがあった。私と同じように、胸に地球連邦宇宙軍の小さなワッペンをつけた象牙色のトレーニングウェアを身に着けている。
トレーニングルームは一〇メートル四方ほどの広さで、その時は数人の利用者がいた。
私に話しかけてきた女性の横顔や後ろ姿は周囲の鏡の中にも映り込んでいたが、そのどれもが大人の女性らしい美しいプロポーションだった。
彼女の姿を頭に叩き込み、必死に検索したが、残念なことに知り合いの名前にヒットしない。
「え、ええと」
美しい女性の何とも言えない色気に少しドギマギしながら視線をさまよわせると、豊かな胸元の青い地球を意匠化したワッペンの下に、名前が刺繍してあることに気がついた。
確認すると……F・フォッケル。この艦の艦長だった。
立体映像の凛とした軍服姿と違い、柔らかい表情だったので全く気づかなかった。階級的には雲の上の存在だ。私は慌てて敬礼した。
「はい、イザベル・イングラムであります」
「ここでは、そういうのは無しで良いわよ」
中佐は敬礼を返しながらも柔らかく笑った。
私はトレーニングルームも休憩室同様、士官と兵は分けて欲しいと切実に願った。緊張で心臓がバクバクする。
「オリンポスシティでは、とても活躍したみたいね。改めて礼を言います」
「えっ?」
フォッケル中佐がどういう意味で言っているのかわからなかったので、まともなリアクションができない。
「リヒャルト・リシャーネクさんから聞きました。あなたが同僚の命と軍の名誉の両方を救ってくれたって」
そんなことを言われても困る。
私は、あの時のことをちっとも誇らしいなんて思っていない。
私はマーサに体当たりして彼の装甲強化宇宙服の機能を破壊した。軍の体面を保つために彼を傷つけたのだ。
本来、処罰されるべきは、レオンハルト・レンバッハ大尉の方だと私は思っている。
それなのに、処分されたのはマーサひとりで、彼は未来を奪われたのだ。
私の目頭は熱くなり、無重力環境下で涙が行き場を失って視界を歪ませた。
「ごめんなさい。嫌な思い出だったみたいね。でも、バリバリの軍人の私が言うのもおかしいけど、私たちがいるこの世界が全てじゃないわ。貴方も、軍から追放されてしまった彼も、まだ若い。幸せにはいろんな形があると思うし、軍人と軍を辞めた人間が仲良くしちゃいけないってわけでもないでしょう?」
フォッケル中佐は、とてもおせっかいだけど根はいい人みたいだ。私は思わずトレーニングウェアの袖口で涙を拭いた。
「本当にごめんなさいね。何かあったらいつでも相談して。装甲擲弾兵は男の人ばかりでプライベートなことは相談しづらいでしょ?」
「はい」
私は、そう答えるのが精いっぱいだった。
「まぁ、女性が少ないのは、中央制御室も似たようなものね。私も話し相手が少なくてつまらないの。貴方が話し相手になってくれると、私も嬉しいわ」
黒髪の美しい女性は、そう言うとにっこりと微笑んだ。
「いえ、そんな、私なんか」
階級という点でも、女性としての魅力という点でも、気後れしてしまう。フォッケル中佐は遠くから眺める憧れの存在なのだ。
「そうだ、早速だけど、一緒に食事でもどう? 次の食事の時間、艦長室に来てくれる?」
フォッケル中佐は、昔からの友達を誘うような砕けた調子で、私に語り掛けた。
先ほどの言葉は、どうも、ただの社交辞令ではないみたいだ。
私は、有難くて胸が熱くなった。逆に、ここで遠慮しては失礼にあたるだろう。
「ありがとうございます。では、携帯端末で連絡を入れてから伺います」
私は深々とお辞儀をした。
「うん、楽しみね」
フォッケル中佐の笑顔のおかげで、暗い雲に閉ざされていた私の心に、明るい陽が差したようだった。