はじめての日曜日(2)
裏なんばでの営業を終えて店の扉を閉めれば、ここは完全に外の世界と遮断される。
朝食を兼ねた昼食を作るときは換気扇がブオンブオンと回っていたが、今はそれも止まってお店の中はしんとした空気に包まれている。
少女がくんくんと鼻を鳴らして空気を吸えば、バターの残り香がふうわりと店内に漂っているが、おなかを擦ってみるとぽっこりと膨らんでいて、もう食べられないことを教えてくれる。食事に満たされた胃袋に血液が集まり、おなかはポカポカと温かい。血圧も低下してきて、少しずつ頭がぼんやりとしてくると、それが眠気に変わっていく。
シャッシャッシャッシャッ
厨房からはシュウが包丁を研ぐ音が聞こえてきて、そろそろ片づけを始める時間であることを伝えてくる。はじめての日曜日で、はじめての日本でのお仕事を終えたあとだから、食事に満足していてもこのまま座っていれば少女は眠ってしまいそうだ。
そのピンクスピネルのように輝く瞳の前にはペロリたいらげた朝食がのっていた皿が3つ、丸盆の上に乗っている。立ち上がって丸盆を持つと、上の皿を落とさないようソロソロと歩き、厨房の中にある「流し台」という魔道具のところに運んでいく。ピカリ光る金属でできた流し台という魔道具は、上部に据え付けられた金属の棒が2本あって、上の1本を動かすと、もう1本の棒の先からお湯や水がでる。また、また内側に大きく窪んでいて大きな穴があいており、底はその穴に向かってわずかに傾斜しているので、中にある皿や食器が倒れたりしないよう、運んできたお皿を置く。
「洗い物はわたしがやるから、シャルちゃんはお掃除してくれるかな?」
「うん、がんばるのっ!」
クリスも食事を終えて食器を運んできたので、少女はお盆を拭くとすぐに店内に戻る。
最初にやることは、テーブルとカウンターに並んでいる調味料を種類別に集めてまとめること。掃除をするときに落としたり、ひっくり返したりするとたいへんだし、こうしてまとめておけば、明日の朝には減った分を補充するのも楽になる。塩、胡椒、山椒、七味唐辛子は陶器製の蓋つぼに、醤油や酢、ウースターソースはコルク栓をした縦に長い陶器のツボに入っている。和がらしは必要な料理があると毎朝新しいものを用意するので、今日は出番がなかったようだ。
少女はテーブル席の椅子を逆さにして、そのままテーブルに乗せるのだが 10歳の少女らしいとても愛らしく透き通った高い声が漏れる。
「よいしょっ」
次にカウンターの椅子も逆さにして、上に載せる。カウンターの椅子は数が多いので最後はさすがに疲れるのだが、次は床の掃除が待っている。
とことこと歩いてお手洗いに行くと、そこにある箒を取り出して店の中を掃き清める。季節のとん汁と白いごはん、だし巻きの3品だけだというのに、床にはいろんなものが落ちていて、まずはそれを箒で掃き集めると塵取りに入れてゴミ袋に捨てる。
次はモップ掛け。お手洗いにある扉の中からモップと大きな桶を取り出し、そこにある魔道具から水を入れると、そこにモップを差し込んでペダルを踏む。すると、モップの先端がぐるぐるまわって余分な水を吹き飛ばしてくれる。
「よいしょっ」
濡れたモップの先は重く、少女の細い腕で持ち上げるのはたいへんだ。
ぐいと右足をうしろに引いて、腰を落として持ち上げる。
ピシャッ
ぐるぐる回して水切りをしたとはいえ、床に置くと、濡れたモップからは少し水が飛び散る。
そのモップで水が飛び散ったところから床をグイグイと拭くと、マルゲリットの街と日本の裏なんばの街から持ち込まれた土と汚れが洗い流されていく。そういえば、昨日はお店を閉めたあとに男の人たちが何人か入ってきて、入り口にあった小さなカウンターを取り払うと、石でできた水槽のようなものを置いて帰っていった。その水槽にはとてもきれいな花が浮かんでいる。
入り口に敷き詰められた砂利がある縁のところまで拭き取ると、さすがにそこまではモップで洗うことができない。
「ここはモップはいらないの……」
少女は独り言のようにつぶやくと、モップ掛けを終える。お手洗いに戻ると、桶の水でモップを洗い、中身を捨てる。
「よいしょっ」
モップとペダル付きのバケツをお手洗いの中にある扉に片付けると、少女はお手洗いから出て、奥にある和室に入る。そこで、着衣のボタンに手をかけると、ひとつひとつゆっくりとボタンを外す。
ああもうっ!
ボタンを外したあとに袖のボタンを外そうとするのだが、右利きの少女には、右袖のボタンを操作するのは難しく、ついに声に出してしまう。
格闘するかのように時間をかけてボタンを外すと、ムジシロの白のキャミソール姿になる。身長サイズにあわせて買ったものだが、細い少女の身体にはゆるく、あちこちに波をうつほどの隙間ができている。キャミソールの下にはホットパンツを履いたままの状態で、今度は上に大き目のTシャツをかぶる。毛先に行くに従って少しピンク色に染まる金灰色の髪をするすると梳かすと最後に帽子を被る。この服はクリスが最初に買ってきたムジシロの服なのだが、いまはこの服以外にはない。
少女は着替えを終えると店の中に飛び出してくる。
「着替えおわったのっ!次はクリスお姉ちゃんの番なのっ!」
「うん、ありがとう。着替えるね」
クリスが着替えをするために和室に入ると、少女は厨房のシュウのところへ向かい、その作業を見守る。今日の料理でつかった鍋を磨きあげるうしろ姿には道具に対する慈愛が満ちていて、その背中の向こうにクリスや自分以外のひとがいたなら嫉妬してしまいそうなほどの、やさしいひかりが包んでいた。
シュウはとても大きなまな板に洗剤をつけてゴシゴシと洗い、ざぶざぶと管から出る水で洗い流すと、最後にブラシを手に取り床をゴシゴシと洗い始める。その全体重をかけた洗い方をみていると、そこになにか強い想いがこめられているように感じてくる。だが、店の床を洗うシュウはすこし嬉しそうで、とても優しい表情に見えるときがある。
右肩をぽんと叩かれて振り返ると、そこにはクリスがいた。
先ほどまで薄緑色をした業務用の着物を着ていたが、今はシンプルな白のカットソーに、紺の七分丈のパンツ。底の薄いシンプルな靴を履いている。その服はとても柔らかく、動きやすそうで、軽そうだ。
そのクリスは、少女の肩の向こうに見えるシュウをまぶしそうに見つめて話す。
「たぶん、シュウさんは今が一番、心が安らぐときなんだよ。
何も考えずに済む時間なの」
クリスはその内から輝くような瑠璃色の瞳を少し伏せると、またシュウを見つめるように大きく開く。
ピンクスピネルのような瞳をしたシャルは、その美しい瞳でクリスを見上げる。
言葉はでてこない。ただ、クリスと一緒にその背中を見て、待ち続ける。
シュウはシャカシャカと大きな音を立てて床掃除をしていたのだが、ようやく清掃を終える。ポケットに突っ込むように持ち歩いていたタオルを出して額の汗を拭うと、その作業を待ち続けていたクリスとシャルを見つけて、後頭部をカリカリと音を立てて掻く。
「いやぁ、ごめんごめん。
つい気合を入れて掃除してしまって……すぐに用意するからさ」
そう話すと、シュウは店の奥にある和室にカラコロと音を立てて走っていって、ガラリと障子を開けて中に入る。そして、ピシャリと障子を閉めると、ガサゴソと音を立て、ベルトをカチャカチャと鳴らして、着替えを始めたことを教えてくれる。
急いで着替えをしているであろう和室の方角から厨房に目を転じると、ピカピカに磨き上げられた厨房機器が目に入る。
そのピカピカに磨き上げられた厨房を見ていると、少女は不思議になってついクリスに尋ねてしまう。
「どうしてこんなに毎日ピカピカにするのかな?」
クリスは少しその瑠璃のような瞳を曇らせ、言葉を選ぶ。
菌類のことを話すにしても、基礎的なことを学んでいない10歳の少女に説明する内容ではない気がするので、きれいにしておかないと、どうなるかということだけを簡単に説明する。
「カビが生えたり、虫が湧いたりするような場所でごはんをつくると、お腹を壊すようになるんだって。
だから徹底的にお掃除してるんだよ」
「ふーん」
厨房の窓から入る日差しは強く、濡れた床と金属性の調理器具にキラキラと反射し、まるで真新しいお店の中を見ているかのような美しさを保っていた。
ガラガラッ
シュウが引き戸を開くと、外の世界は日本という国の、大阪という街。その中でも裏なんばと呼ばれるエリアに出る。マルゲリットで朝めし屋を10時まで営業し、3時間の時差がある日本の裏なんばで営業するのが8時から11時。今日はそれからまかないと片付けをしたのでいまは12時を過ぎたところだ。9月上旬、日本の街はまだ暑く、太陽がほぼ真上から3人を照らし、ジリジリとその熱を伝えてくる。
「今日も暑いな……さて、道頓堀の方に行くぞ」
逸れることが無いよう、シュウが少女の手をとって歩きはじめると、その左腕にふわりと舞うようにクリスがしがみつく。
少し西へ歩けば調理器具や食器、制服などを売る商店が連なる「道具屋筋」があり、その北口のそばには関西芸人達が芸を磨く劇場や、アイドル集団がショーを見せる劇場がある。東の方向に進めば、シュウの家の近くにある黒門市場に着くのだが、今日はそのどちらでもなく北へ向かう。ムジシロばかりでは選べる服の選択肢に制限ができてしまうからだとシュウは言う。
南向きの一方通行に制限された道路に出ると、そこはたくさんの外国人観光客と他府県から来た日本人観光客が集まる場所だ。ちょうどランチタイムということもあって、「肉うどん」の台抜きを出す店には行列ができていて、その斜め前にあるうどん屋や肉料理の店にも行列ができている。
シャルは日本に来てまだ3日目だ。周囲をキョロキョロと見回しながら歩く。異世界の農村育ちの少女には、変わった店がたくさん並んでいて、マルゲリットでも見たことが無いほどの人の数は驚きでしかない。そして、すれ違い、通りすぎる人々の多くからの視線を感じれば、落ち着きも失ってしまう。
「い……いっぱい見られているの……」
「慣れなさい、それしかないわ……」
純白の髪に、透きとおるような白い肌。その中に光をもつように輝く瑠璃色の瞳と長い睫毛、主張しすぎない鼻に、柔らかそうにぷっくりと膨らんで艶々と光るピンクの唇を持つクリスは、この世の者ではないのではないかと思わせる美しさを持つ。
一方、今日この裏なんばにある店にデビューしたシャルは、金灰色にピンクを混ぜたような髪色に、白い肌。ピンクスピネルのような瞳に長い睫毛をしていて、おとぎの国から飛び出してきたかのような可愛らしさを持っている。
この2人が観光客が集まる大阪ミナミを歩いているのだから、目立たないわけがない。更に、一緒にいる男はアラサーの短髪頭で、凡そ女性とは縁がなさそうな印象をうけるどこにでもいる日本人という組み合わせなので、余計に衆目を集め、とにかく目立つ。
それでも、看板娘を紹介するテレビ番組で人気者になったクリスは、日本で暮らしたこの半年間でじゅうぶんに慣れてしまっている。そして、非常に平和で治安がいい日本なので、衆目を集めるというのは多くの目に見守られているということでもあり、より安全に暮らせるということでもあることをクリスは知っていた。
「うん……わかったの……」
シュウの右手を持つ少女の左手にはぎゅうと力が入り、その力を入れた腕も硬くなって動きが鈍くなってしまう。慣れろと言われてもすぐにできることでもなく、頭は動かないものの、その目はきょろきょろとし、おどおどとしてしまう。
鉄でできた陸橋が東西に掛かった大通りに出ると、自動車という鉄の馬車がびゅんびゅんと行き交い、自転車という乗り物に乗った人たちが我が物顔で走り回っている。
この2日間、少女もシュウの自宅からお店の間を通っているので、自動車や人の動きを制御するために設置された信号機というものを知っており、行儀よく青信号になるのを待つ。そうして信号機の色が青色に変わると、3人そろって歩きだす。道路向こうから歩いてくる人たちも、クリスとシャルをじろじろと見つめ、男だけの2人組はすれ違ったあとに回れ右をしてついてきたりする。
「ああそうだ、ちょっと寄り道するよ」
シュウが何かを思い出したようで、クリスとシャルにそう伝えると、ふたりの少女はこくりとうなずく。
大通りを渡った場所には大きな魚を模った看板を階上の壁に飾った店があるが、シュウはそこには寄らず、そのまま東へ進んでいく。自動車が走る場所と、人が歩く場所は僅かな段差と大きく育った木がぽつぽつと植えられており、それを境界にしている。すぐに、屋根らしい屋根が無い、四角くて高い建物がどんと現れると、その先に行列が見えてくる。隣にある建物ほどではないが、窓がいくつも並んだ四角い建物で、一階には木製の看板、木製のガラス扉に暖簾がついた店があり、そこにたくさんの人が並んでいる。シュウはその最後尾に並ぶ。
「お……はぎ?」
暖簾に書かれたひらがなだけを読んだクリスが尋ねるように読み上げる。
「今夜のあまーいおやつを買おうと思ってね」
その言葉に、パァァと花が咲くよう、ふたりの少女は笑顔に変わる。