聖女引退です
何故、とかどうして、とか。
そんな気持ちもどこかにいってしまうほどの衝撃だった。何度も何度も祈ってみるがいつものように気持ちが溶けて行かない。昨日の混乱をまだ引きずっているのだろうか。そっと自分の唇に指をあてた。
唇に触れるだけのキスは時折フランシスにもしてもらっていた。おやすみのキスだったり、ありがとうのキスだったり。ちょっと触れるだけのキスだ。くすぐったい気持ちで顔を赤くしながらも、嬉しかった。キャーキャー内心叫びながら、夜になると寝台の上で思い出し転げまわっていた。
でも、昨日のキスは違う。恐怖感と嫌悪感しかなかった。フランシスのキスよりも一歩進んだキスはとても恐ろしかった。
茫然と女神像の前に膝をつき、自分を見下ろす女神像を見上げる。
何度か息を整えると、再び目を瞑り、自分の心の中を覗き込むように女神さまを祈る。一度深く入りそうにはなるのだが、ある所に行くとぐっと押し返された。何度もその押し返しを感じながら、もう一度とゆっくりと祈りを深める。
いったいどれくらい繰り返しただろうか。体が震える。目を開けて女神さまを見上げた。女神さまはいつもと変わらない慈悲の笑みを浮かべている。その笑みが悲しみを湛えているようにも見えた。
女神さまに祈りが届かなかった。
震える両手を抑えようとぎゅっと握りしめた。女神さまへの祈りの力はわたしの願望の力。
もしかしたら、昨日の意図しないキスでわたしの結婚願望が少し歪んでしまったのかもしれない。男女のことなどほとんど知らずに暮らしていた。キスは知っている。友達から借りた物語にもよく出てきた。うっとりするような素晴らしいキスばかりが描かれていた。
フランシスもわたしの慣れない気持ちを理解しているのか、乱暴なことはしない。優しいキスを贈ってくれる。抱きしめあうのも嫌いじゃない。でも、あんなキスは知らない。
フランシスもあんなキスをしてくるのだろうか?
それが恐ろしいと思ってしまったのだ。もしかしたらこのしり込みする気持ちが祈りの力を弱くしているのかもしれない。
「どうしよう」
体が震える。俯けば手の上にぽたぽたと雫が落ちてきた。
「セシリアーナ」
わたしが座り込んだまま項垂れたのがわかったのか、躊躇いがちにフランシスが声をかけてきた。祈りの間はわたしが立ち上がるまで声をかけることをしないのだが、それだけ様子がおかしかったのだろう。
フランシスの顔が見られなくて、そのまま俯いていた。目が壊れてしまったかのようにどんどん涙が出てくる。わたしでもこんなに泣けるんだと不思議だった。
「こっちを向いて」
フランシスがわたしの傍らに膝をついた。優しく肩を掴まれ、上を向くようにと促される。仕方がなく顔を上げた。
「フランシス」
「昨日は間に合わなくてすまない」
そう呟く彼の顔も歪んでいた。ますます壊れたように涙が出てくる。
昨日フランシスが間に合わなかったのではない。クリフォードがそうなるように仕組んだのだ。
神殿長に伝言を預け、わたしからフランシスを離した。わたしがあの日、水をかけたことで彼の計画が中断されたと言っていた。一体どんな計画をしていたのかわからないけど、確実に言えることは彼は罰を望んでいる。
それも王族を剥奪されるほどの罰を。
そうでなければ、聖女に手を出そうなど普通考えない。
「どうしよう、女神さまに祈りが届かない」
「今は何も考えるな。もう少し気持ちが整理してからの方がいい」
そう慰められて何とか気持ちを落ち着けようとした。フランシスの言うように、数日たって大したことないと思えればきっと今までと同じ日常に戻ると信じた。
お互いの心が伴わない行為など、接触事故にしかないのだと自分自身に強く言い聞かせる。今までと何も変わらない。
でも、数日たってもわたしの祈りの力は戻ってこなかった。
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これからどうしたらいいのか、全くわからなかった。
前代未聞の事態に、神殿も王宮も大騒ぎだった。もちろん、聖女の祈りが失われたなんて知られては困る内容なので、知っているのは極少数の上位の人間だけだ。
クリフォードへの処罰も頭が痛い問題だろうが、わたしの祈りの力がなくなったことの方がより深刻だった。神殿長は今までにない事態に顔を青ざめていたし、その場にいて止められなかったデュークは悲壮な顔つきになっていた。
「申し訳ないことをした」
夜半過ぎ、神殿長に言われてフランシスと共に向かった場所にいたのは、国王だった。王宮から秘密裏にやってきたようだ。事態を重く見た国王は忙しい合間にこちらに来てくれたようだ。わたしが入ってくるなり、謝罪と共に頭を下げる。一国の王に頭を下げられて、わたしは混乱した。
「頭をお上げください」
慌てて頭をあげてもらうと、国王は寝不足なのかとても疲れた顔をしていた。大変な思いをしているのはわたしだけではないのだ。一人だけではないのだと思うと息が少し楽になる。
「クリフォードがどうしてこのようなことを仕出かしたのか、説明をしたい」
そう切り出されたが、わたしは首を左右に振った。説明されてもどうにもならないし、不必要な秘密は知りたくない。
「お話にならないでください。わたしはもう聖女ではないですから」
「貴女は我が国の誇る聖女だ。こちらの事情でこのようなことになったのだ。誰にも非難などさせない」
強く言い切られたが、曖昧にほほ笑む。
「ありがとうございます。気持ちは嬉しく思います」
そう一度は受け取ると、国王が少しだけ表情を緩めた。わたしが祈れない今、次の聖女候補についてきちんとは話す必要がある。態度ではステファニーだとに暗に示していたが、それだけでは駄目だ。すぐにでも次の候補を据えないといけない。
「神託を受けた日の夜会で女神さまからステファニー様が次期聖女候補だと教えてもらいました」
「ああ、聞いている」
すでに国としての方針が固まっていたのは知っている。わたしが聖女の役割を最後まで務められなかったが、次期候補がわかっているだけよかったのかもしれない。
「もしかしたら人が沢山いて間違っていたかもしれません」
「どういうことだろうか?」
よく理解できなかったのか、国王が眉を寄せた。深い眉間のしわを眺めながら、事情を説明する。聖女の条件が願いを強く持つ力だということ。ステファニーの願いはクリフォードとの幸せだろうと考えると、聖女たる条件が満たせなくなること。
説明すれば国王は納得したのか何度も頷いている。
「だが、ステファニー嬢の願いはあなたの予測であって、本人には確認していない。予測は間違っているかもしれないだろう?」
「そうかもしれませんが……」
「その件はこちらで確認しよう。もしステファニー嬢に次期聖女の力があるのなら、それに越したことはない」
「わかりました」
もうこの件は自分の手から放したくて了承した。国王は優しい笑みを浮かべた。
「クリフォードは臣籍降下することが決まった。貴女にしてみたら生ぬるい処罰だと思うが、事情を公にするわけにはいかないのだ」
「わかっております」
わたしだって国民が不安になるようなことをしたくない。大きく息を吸うと背筋を伸ばした。
「確かにクリフォード殿下はわたしの祈りを奪ったかもしれません。でもそれも、わたしが弱かっただけですから」
そう、いつまでもぐじぐじしているのは駄目だ。こんな程度でなくなるような祈りなら、自分が弱いということなのだろう。きちんと向き合わなければ。そんな覚悟が表情に出たのかもしれない。国王は目を細めた。
「貴女は強いな」
「強くなどありませんよ」
自嘲気味に答えると、国王は笑う。
「きちんと向き合おうとする心は強いと思う。その強さが私にもあったはずなのだが」
ぽつりと呟かれた言葉をわたしは意識的に無視した。これは聞いてはいけない内容だ。何故? なんて聞いてはいけない。
ニコリとほほ笑むと、国王もニヤリと笑みを返してきた。
「なかなか行き届いている……。フランシス」
「はい」
わたしの後ろに控えていたフランシスを呼ぶと、国王は彼の方を強い視線で見た。
「聖女には爵位が与えられる。色々と言ってくる輩もいるだろう。しっかり守ってほしい」
「承知しております」
フランシスは当然というように頭を下げた。わたしの頭の中には疑問符が大量に生産される。
爵位?
何それ?
わたしの疑問に気が付いているだろうに、二人の男性は無視した。二人は退任した聖女が与えられる様々な事柄を話し合っている。今回の慰謝料として支度金を増やすようなことも聞こえてくる。
増やさなくてもいい、と言いたいところだったがどうにも口がはさめない。こういう交渉事はすべてフランシスに頼っていたから聞いたところでよくわかっていなかった。
ぼんやりと二人が手早くまとめていく条件を聞きながら、わたしは聖女になった時からフランシスに助けられていたのだとようやく気が付いた。自由気ままに聖女をやっていられたのは、フランシスがいたからできたことなのだ。
フランシスが好きだ。
だから婚約者と分かったと、理想の結婚願望もかなり具体的に描くことができた。その後の生活もフランシスがいて成立する。それなのに、たった一度のキスがわたし自身の思いを壊した。
違う。
わたしが勝手に壊れたと思ったのだ。
壊れるわけがない。あんな程度のことでわたしの気持ちは揺らがない。フランシスとの間にはそんな程度で壊れない。
いつでも軽薄なクリフォード。思えば、ずっと以前から彼はああなる機会を待っていたのだろう。
ここは自分の手で報復するのが正しい。
きっとそうした時、わたしの結婚願望は再び輝くに違いない。