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嫌な気持ちは無視しない方がいい



 聖女の日常はほとんど決まっている。大祭前であれば、その準備に入るがそうでない時期の方が多い。


 朝起きたら、身支度をして朝の祈りの時間だ。昼には神殿にやってくる人々の話を聞く。午後になったら貴族たちとの面談だ。色々な話を伝えてくるが、大抵は領地の状況の報告だ。領地の状況を聞けば、女神さまの恩恵が受けられているかどうかの確認になる。それが終わるころにはすっかり日が暮れており、夜の祈りの時間だ。そして時々休みをもらって、市井に降りて気晴らしをする。


 今日だって特別な日でも何でもなかった。朝起きて、軽く食事をしたら祈りの時間だ。いつもと同じ。

 なのに身支度を整えて支度は終わっているが、胸の中にもやっとした何かがあった。


 このなんとなくという感覚というのは案外馬鹿にできない。


「今日はデュークが午前中の護衛につく」

「え?」


 もやもやを抱えたまま居間に入れば、待っていたフランシスが今日の予定について話し始めた。護衛がフランシスからデュークになるなど聞いていなかったから戸惑った。


「神殿長から呼び出しがあって、午前中はデュークに変わってもらうことにしたんだ」


 神殿長からの呼び出し。多くはないが変なことでもない。特に護衛騎士といえども所属は国なのだ。合同の訓練や連絡事項などでわたしと数日離れることもある。


 そう言い聞かせてみても、胸騒ぎは収まらない。思わずフランシスの手を握ってしまった。普段にない行動に、フランシスが驚いた顔を見せた。


「用件が終わればすぐに戻ってくる。心配することはない」

「そうじゃないくて」


 わかっているのに、彼から手を離せない。わたし達の様子を見ていたデュークが小さく笑った。


「セシリアーナ様、大丈夫ですよ。神殿長からの呼び出しなど、いつものことじゃないですか」

「そうなんだけど」


 どういっていいのかわからないが、なんか嫌なのだ。言葉にならないもやもやを説明するのもできず、今日の予定を変える決断もできない。うだうだと考えていたが、息を大きく吐いた。


「……できるだけ早く戻ってきて」


 唸りながらフランシスから手を離した。フランシスは少し考えていたが、できるだけ早く戻ると告げて部屋を出て行った。残されたわたしはのろのろと動き始めた。


「祈っている間に戻ってきますよ」


 慰めるようにデュークは言うが、気持ちは冴えなかった。ため息を一つ落として、祈りの間へと移動した。


 祈りの間は誰かを招くことはないのでとても小さい部屋だ。貴族の館にある居間とさほど変わらない大きさだ。深みのある赤い絨毯がひいてあるが、南の窓から入る光が当たる場所に女神像があるだけで他には調度品は何もない。

 女神像は伏し目がちのため、下で膝をつき見上げれば優しく見守られている気分になる。

 デュークは一通り、部屋の安全を確認してからわたしに声をかけた。


「俺は外にいます。終わったら呼んでください」

「ありがとう」


 デュークはわたしが祈っている間、この部屋にいることはない。フランシスは部屋の中の扉の前で控えているが、彼は外でいつも控えていた。これが筆頭護衛騎士との差なのだとついこの間気が付いたばかりだ。

 閉ざされた扉を見てから、いつもと同じように女神さまの前で膝をつき両手を組んだ。


 自我がなくなるほど祈りを深める。

 祈れば祈るほど、自分が溶けて消えてしまいそう。その曖昧な感覚が嫌ではなかった。


 いつもならすんなりと祈りだけになるのだが、今日はどうしたわけか、なかなか溶け込む瞬間が訪れない。朝から感じたもやもやが影響しているのだろうか。いつもと異なる状況を不可解に思いつつ、祈り続けようとした。


「セシリアーナはいるか?」


 扉を開ける大きな音がして目を開けた。顔をあげて扉の方を向けば、クリフォードが立っていた。わたしの許可なく開くことなどないので、思わず立ち上がった。


「ああ、やっぱりここにいた」


 クリフォードはわたしの許可をもらうことなく部屋に入ってくる。デュークが慌ててわたしとクリフォードの間に立った。彼が立ったことで、クリフォードが立ち止まった。

 少し苛ただしげなのは気のせいだろうか。

 どうしていいのかわからず、黙って二人の様子を伺った。


「クリフォード殿下、申し訳ありませんが聖女様は祈りの途中でございます。ご退出を」

「神殿長には許可をもらっているよ」


 その言葉にデュークに迷いが出た。神殿長が許可したとなれば、聖女との面会は特に問題がないのだ。だが今は祈りの時間。その時間を中断しなくてはいけない面談なのか、判断が付かないようだった。


「申し訳ありません。まだ祈りが終わっておりません。お話があるのでしたら、待ってもらいたいのですが」


 聖女らしく丁寧に断る。クリフォードは目を細めた。


「どのくらい待てばいい?」

「……2時間ほどでしょうか」

「話にならない。すぐに終わるから、祈る前でいいだろう?」


 なんだかいつになく強引で、首を傾げた。デュークもいつもと違うと思ったのか、わたしを見てからクリフォードに向き直った。


「では、応接室にご案内します」

「ここでいい」


 すぐさまクリフォードが告げる。その目はわたしから外れない。仕方がなく、ここで対応することに決めた。女神像のある祈りの間で無体なことはしないだろう。デュークに部屋を出るように告げる。


「何かありましたら、声をあげてください」


 最後まで迷っていたようだが、そう一言残して部屋を出て行った。部屋を出たと言っても扉は完全に閉じていない。少しでも大声を出せばすぐに飛び込んできてくれるだろう。

 クリフォードはデュークが部屋の外に出ると、話し始めた。

 

「先日、王都を歩いていたら水をかけられてね」


 どうやらクリフォードは水をかけた犯人がわたしだとわかっているようだ。ちっと内心舌打ちをした。わたしは簡素なドレスを着てしまえば、平民に溶け込める。そう思っての行動だったのに、どうしてわかったのだろうか。

 ここで認めるわけにはいかないので、にこにこと笑みを浮かべた。


「それは大変でございましたね」

「そうなんだ。折角の計画が台無しになった」


 クリフォードはさりげない動きでわたしの前に立った。その距離の近さに思わず一歩後ろに下がる。下がった途端に、彼はわたしの腕を掴んだ。突然掴まれて、思わず悲鳴が上がりそうになる。何とか飲み込むと怒りを込めてクリフォードを睨みつけた。


「手を……離してください」

「どうやら聖女様は俺の行動がお気に召さないようだ」


 彼から離れようと腕を引っ張った。外にいるデュークに気が付いてほしくて、声を出そうと口を開く。

 わたしが声を出そうとしているのを察知したのか、クリフォードは素早くわたしの口を自分の体で抑え込むようにして抱き込んだ。フランシスとは違った香りが鼻についた。


 いやだ。


 フランシス以外に抱きしめられるなんて、嫌だ。

 力の限り、腕を突っ張った。


「離して!」

「ステファニーのために許せなかったんだろう? セシリアーナが相手をしてくれるなら他の女を使う必要がないんだ。折角立てた計画もダメになってしまったし、責任を取ってもらおうと思ってね」


 そっと囁かれた。弾かれたように顔をあげれば、どこか暗い色をした瞳とぶつかる。緊張に喉がカラカラになった。

 顔に手を添えられて逸らせないように固定された。まっすぐに見下ろす瞳は強く、視線が逸らせなかった。


「聖女様にキスをしたらどんな処罰になるんだろう?」


 どこか楽しげな声に、ぞっとした。クリフォードは処罰されることを望んでいる。彼がここにいるのはそのためだけだ。


「クリフォード殿下、手を離して」

「ほら、そろそろフランシスが来る」


 そう言われて耳を側立てた。どこか慌てたような足音が聞こえてくる。こちらにやってきているのか徐々に大きくなる音に助けてもらえるという安心感が広がる。


「セシリアーナ!」


 乱暴に扉が開くのと同時に、顎を掴まれた。振りほどく間もなく唇が塞がれる。ひやりと冷たい唇だ。

 驚愕に目を大きく見開いた。気持ちが悪いことに唇を合わせたまま、ゆっくりと唇を舐められた。


 これって。


 いわゆる男女のキスなんじゃないだろうか。




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