榎本君が信じないと言ってくれたから。
何時からだろう、鏡を見るのを避けるようになったのは。
私は自分の顔が嫌いだった。いや、体形も、性格も、何もかもが嫌いだった。
低い鼻、腫れぼったい一重、艶のない髪、ニキビで荒れた肌、短く太い足。お世辞にも美しいなんて言えない、誰が見ても不細工と答える容姿をしていた。そのせいで性格も内向的になり、アニメや漫画のような二次元の世界に逃避して、日々を過ごしていた。
小学校、中学校の思い出は? と聞かれても、答えられない。
そんなものはないから。
高校になっても変わらない。運よく私と同じようなオタク趣味を持つ友人たちには恵まれ、学校は苦痛ではなかった。それでも、学校の主役はオシャレで可愛い、リア充と呼ばれる選ばれた者だけ。彼らが主役だと言うのなら、その舞台に上がる私は、只の通行人Aでしかない。
嫉妬、羨望。
私の心は醜い。
それは、卒業まであと1月を切った頃だった。
回ってきた日直の仕事をするため、いつもよりも早く学校に着いた。出席番号順でいつもペアを組む男子は、まともに日直の仕事をしたことがない。だから、教室には誰もいないと思っていた。
扉を開けたところで、思わず立ち尽くしてしまった。
「あ、おはよう。市村さん」
日直の男子ではない。
黒板の前の教卓に腰掛け、私に手を振る人影。
そこには、このクラスどころか、学年、学校中で名が知られる、まさにスクールカーストの頂点に君臨する男子がいた。榎本隼人君。イケメンで、頭が良くて、バスケ部のエースで、まさに絵にかいたような万能人間だ。
「あれ? 日直だよね?」
固まる私に、小首を傾げて尋ねる。
「そ、そうだけど……、今日は、私と井上君のはずなんだけど」
一度も来たことがない井上君。私の中で、日直の仕事はすっかり一人でやる物だった。
「なんか井上、今日休みなんだって。だから俺が繰り上がって代わりにやることになったから」
よろしく、と笑顔を見せる。
榎本君はこういう人だ。誰に対しても分け隔てなく接することができる。人の悪口なんて言ったことがないんじゃないかな。掃除も真面目にやるし、面倒くさい雑用も嫌な顔せずにやる。
疲れないのかな?
それが榎本君に抱いている印象。
だって、元々の性格だとしたら、それはもう聖人じゃないか。
どんな性質を持った人間とも変わらず笑顔で接して、良い人を演じて、勉強にスポーツに頑張って。何の打算もないとは考えられない。
私みたいな不細工に優しくしているのも、自分を良く見せようとしているんでしょう?
「なあ、市村さんは黒板係と日誌係どっちがいい?」
私は自分の机に鞄を置き、榎本君が座る教卓に近寄る。既に日誌は彼の手にあった。
「どちらでも……」
今までどっちも一人でやって来たんだから、どちらでも構わない。いちいち聞かなくても、文句は言わないよ。
「うーん、黒板係は手が汚れちゃうし、市村さん、字が凄い綺麗だから、日誌係になってくれる?」
榎本君は、私が日直だった時の前回の日誌のページを広げて、笑顔を見せてくる。
やめて。
私以上に字が上手な人はたくさんいる。無理に褒めなくてもいいよ。それに、榎本君の方が字は上手でしょう。馬鹿にしないで。
そう、榎本君はいつだったか書道で入賞していたはずだ。
「わかった」
それだけ言って、榎本君から日誌を受け取る。自分の席に戻り、日誌を書いて二人きりの時間をやり過ごそう。とはいっても、私の席は最前列、教卓の斜め前だ。黒板の傍に移動した榎本君から、あまり離れることはできなかった。
「なあ、知ってる? 南極と北極だと、南極の方が寒いんだって」
しかも、榎本君は黙ってくれなかった。どうでもいい豆知識や、昨日見たテレビ番組の話、友達が起こした面白い話を話し続けている。
住む世界の違いを見せつけられているようで、気分が知らず知らずのうちに重たくなっていく。
生返事をすることも忘れてしまったとき、日誌に影が落ちた。
「市村さん? ごめん、俺うるさかった?」
顔を上げると、私の席のすぐ目の前に立つ榎本君。心配そうな顔で私を見下ろしてくる。目があった瞬間、すぐに顔を伏せてしまう。これはもう癖だった。自分の顔を見られたくない。綺麗なあなたの視界に、不細工な私が映ってしまったら、あなたは何を思う? 心の中でさえ、笑われたくないの。
「市村さん、俺のこと嫌い?」
榎本君の言葉が頭の中で響く。
嫌い? 榎本君を?
私は、榎本君を嫌っているの?
碌に話したことのない人間を、私は嫌っているの?
「ど、どうして?」
どうしてそう思ったの? そう感じさせてしまった私の行動は何?
「目を合わせてくれないから」
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
やっぱり、私は醜い。
あなたの周りの人間は、美しく、自信を持った人たちばかり。舞台の主役。スポットライトを浴びて、幾千の視線を浴びても堂々とできるような人間でしょう。
違うのよ。
この世界には、その舞台の陰で、顔を隠した役を演じる人間だっているのよ。びくびくして、あなたたちの顔色を窺う事しかできない人間が。
私は醜いの。
「榎本君じゃない。私は、自分の顔が嫌い。こんな不細工な人間と、目を合わせて話したいと思う人なんていない。顔をしっかり見られて、改めて不細工だなと思われるのも嫌なの。あなたみたいに、なんでもできて、かっこよくて、皆に人気があるような人には分からないよ。放っといて」
八つ当たりだった。
私の醜さを露呈してしまっただけだ。
私が、私を嫌いになるのを助長しただけ。
どうか、どうか、こんな私に構わないで。
嫌悪感が体中を蝕んでいく。
怒るか、呆れるか、どっちかだと思った。きっと、榎本君はため息を吐いて背を向けるだろうと。そう思っていたのに。
「市村さん、俺が、自分の目にコンプレックスがあって大嫌いなんだって言ったら信じる?」
思わず、顔を上げてしまった。
榎本君は、真っ直ぐ私を見つめている。
目が合うと、やっぱりまた逸らしてしまう。
俯いて、でも、榎本君の目を思い出す。くっきりとした二重、女の子のように大きな瞳。おおよそコンプレックスになるような要素なんてない。きれいな目だ。
「…………し、信じない」
慰めたいの? そんな完璧なものを持っておいて。
「だろ? だから、俺も信じない」
信じない? 何を?
榎本君の言っている意味が分からない。
「市村さんの言葉を、俺は信じない。市村さんが、自分の事をどう思っていようと、誰かに何かを言われようと、俺はそんなこと信じないよ」
いつの間にか、私は顔を上げて榎本君を見つめていた。
榎本君は、恥ずかしそうに笑いながら私を見ていた。
どうやら、榎本君は本当に聖人だったらしい。
あれから、多分私は榎本君に恋をした。いや、確かに恋心だったとは思うけれど、それとも少し違うような感情を抱いていた。
そう、例えば、敬愛。
榎本君と話したのはあれが最後。それでも、榎本君は私の人生に大いなる影響を与えてくれた。彼と話した後、私は髪型を変えた。顔を隠すように長かった髪を切り、軽くした。馬鹿にされるんじゃないかとドキドキしたけれど、友人たちの似合ってるよ、の声がかかるだけだった。
なんだ、こんなことだったんだ。
他人にどう見られているのかを極端に気にして、ビクビクしていた自分に気付き、肩の力がフット抜けた気がした。
それからは、少しずつ自分を変えようと努力した。
流行の服を買って、化粧をして、ネイルもした。ダイエットをはじめ、大学に入学する頃には、目に見えて痩せることができた。今まで、オシャレをする人を馬鹿にしてきた。モテるために必死になって、頭が悪い人たちだと、異性に媚びない自分の方が偉いのだと、そう思っていた。それは、只の言い訳だった。自分を正当化して、自分の心を守って、逃げているだけだった。
こんな簡単な事だったんだ。
やってみると自信を持てた。到底可愛いとは言えないけれど、清潔感と女性らしさが感じられた。
大学のサークルに入って、周囲のメンバーと普通に話ができた。男性とも。私の世界が変わった。
そして、好きな人ができた。
サークルの先輩。誰とでも笑顔で話し、場の雰囲気を穏やかにしてくれる。なんて、素敵な人なんだろう、と思った。きっと、先輩と両思いになって、並んで歩くことができたら、天にも昇る気持ちだろう。
ここまで頑張れたのも、私が盲信してきた固定概念を、榎本君が信じないと言ってくれたから。
「あれ? 市村さん?」
それは突然だった。サークルの飲み会があった日、駅の前で名残惜しく集まっていたときだった。
「榎本君?」
そう言うと、榎本君は、あの日のように照れたような笑顔を見せた。
「そっちも、もしかして飲み会?」
榎本君は、私の後ろで集まるサークルのメンバーを見ながら尋ねてきた。
榎本君の背後にも、大学生らしい人が集まっていた。何人もの綺麗なお姉さんが、榎本君に視線を送っている。
思わず苦笑した。
「うん。榎本君もなんだね」
「そう。……どう? 大学」
「楽しいよ! とても! サークルのみんなも良い人たちばかり!」
笑顔で答えれば、榎本君は、目を細めて嬉しそうにした。
「市村さん、目を合わせてくれるようになったね」
嗚呼、榎本君。
ありがとう。
「……榎本君、ずっと、お礼が言いたかったんだ」
榎本君は、きょとんとする。
「ありがとう、榎本君。私、榎本君とあの日話さなかったら、きっと、自分のことが大嫌いな醜い私のままだった。榎本君のおかげだよ。榎本君が、私の言葉を信じないと言ってくれたから、私、今の自分が少し好きになれたよ」
声が震えてしまった。
なんだか泣きそう。
ありがとう、榎本君、私のことを信じてくれなくて。
榎本君は、きょとんとしていたけれど、やがてやっぱり、恥ずかしそうに笑うのだ。
「市村さん、ありがとう。俺、そんなに感謝されるようなことしたとは思ってなかった」
向こうのグループから、榎本君を呼ぶ声がする。眉尻を下げて、もう行かなくちゃと言う榎本君に、もう一度お礼を言って手を振る。
踵を返した榎本君が、思い出したように振り返った。
「市村さん、俺、自分のコンプレックスを話したの、市村さんだけだよ」
榎本君は背中を向けて、グループの輪に戻って行った。
一瞬、呆けてしまったが、ハッと我に返る。
榎本君、ずるいなあ。
すこし燻りそうになった恋心を自覚しながらも、すっきりとした気持ちの方が強くなる。
これできっぱり、榎本君への恋も終わり。
「市村さん、終電大丈夫?」
優しい声がかかる。
振り向けば、先輩が心配そうにこちらを見ていた。
「先輩、送ってくれます?」
さあ、新しい恋に、私は忙しいのだ。
お読み頂きありがとうございました。初めまして。「仲川まめこ」と申します。小説の中で、未成年の主人公二人が飲み会に行ったとされるシーンがありましたが、未成年の飲酒は法律で禁止されている行為です。登場人物はきちんとウーロン茶を頼んでいます。未成年の飲酒を推奨する表現ではありませんので、ご了承願います。