コイノニア
好きな者には幸せになって欲しい。それは特に不思議ではない感情だと思う。それは友人であり、恋人であり、家族であり、はたまたもっと別なものかも知れない。そしてもしもその者が不幸な世界に取り残されてしまったのならば、どんな手を尽くしてでも幸せな世界へ辿り着けるようにその手を引くだろう。
それは魔法でも何でもいい。願いが叶うのなら手段は問題ではないのだ。零時を告げる鐘すらも打ち壊して夢のような時間が続くように、何時までも幸せであるように、そう願う。
この河原もすっかり秋の色が深まってきた。軽い気持ちをそのまま鉛筆に込めて、滑らせるがままにしていた間に浮かび上がってきた風景を見て思う。
木々は安らぐような緑から目の覚めるような紅へとその姿を変え、夏の頃は眩しく煌めいていた川の水も今ではどこか落ち着き、目をやっていると知らぬ間に奥へ奥へと誘われるような深みを湛えている。時間の流れすらも緩やかになったと感じられるほどだ。
そんな景色を一望できる場に座り込み、それを見てはスケッチブックへと手を走らせる僕を姉さんは隣でじっと見守っていた。退屈はしていないだろうかと思う気持ちは今でもあるが、そうして隣に居てくれることがとても嬉しかった。
やがて、下絵も書き終わり、軽く色も載せると僕は手を止めた。
「もう終わったの?」
一拍置いて姉さんが声を掛ける。
「うん。姉さんが隣にいてくれると落ち着くから、一人の時より迷いなく描けるからね」
「そう、なら良かった」
赤い眼鏡をくいと上げて位置を直すと、姉さんはそっと微笑んだ。風で僅かに揺らぐその黒い髪と、端正な顔立ちを引き立てるような眼鏡、その奥にある知的な目、その姿を見る度に僕は目を奪われる。我が姉ながらあまりにも綺麗なものなので、何年も前から姉さんの絵を描かせて欲しいと頼んでいるのだが、一向に許可は下りなかったし、これからも下りる気配がない。姉さん曰く、まだ僕には物を観る力が足りていないのだそうだ。
「帰りましょうか」
固く離さないようにと手を繋ぐ。時折言葉を交わして互いの存在と気持ちを確かめる。まるで恋人のように。幼い子供でもない姉弟でそんなことをするのは傍から見るとやはり異常の部類にカテゴライズされるのだろう。偶に何がしかを言う密々とした声が耳を刺してきたし、途中出会ったクラスメイトの女子からも外ではそんなことをしないよう、やんわりと注意された。
帰宅すると何をするでもなく、暖房を付けたリビングで熱心に本を読む姉の隣で呆けた様に僕はテレビを観ていた。姉さんはもう既に卒論も終え、大学にも全く行っていないし、僕は僕で高校二年という丁度受験などもない年なのでやることは特にない。
「そういえば、姉さんって幽霊って居ると思う?」
「藪から棒ね。見たいと思う人には見えるし、そうでない人には見えない。居るかどうかはその人の世界によるんじゃない」
本に目を落としたまま姉さんは言う。
「禅問答みたいだ。まあそれはともかく、今日叶にこんな話をされたんだけどさ」
そう言って僕は本を閉じた姉さんに語り始める。今日、学校で友人から聞かされた幽霊の噂。
僕のクラスに佐伯という女の子が居るのだが、最近は登校する回数がめっきりと減ってで、気弱そうな外見が与える印象も相まってそのうち不登校になってしまうのではないかと危惧されている。だが、それよりも問題なのはこの街の外れにある廃校で、彼女の姿を見たというものが居るのだ。しかも、深夜に一人で。その廃校の体育館で彼女はそれは楽しそうに踊っていたのだという。まるで傍にもう一人誰かが居るかのように手を差し出しながら。そこで肝試しに来たという者達は声を掛けたなのだが、彼女に、「邪魔をするな」と一喝されるとすっかり怯えて逃げ帰ったのだそうだ。その時の佐伯には何やら靄のようなものが纏わり付いていて、とても不気味だったと青ざめた顔で語った。
「眉唾、と言いたいけど、その一人で踊っていたという子は気になるわね」
「でしょ? 何よりそんな所でふらふらさせるのもあまり良いことじゃないし、それが悪化して不登校にでもなると考えると」
互いに顔をしかめながら言葉を交わす。暖かい部屋の温度がほんの少し下がった気がした。
「まあ、正義感を滾らせるのは構わないけど、あまり深入りはしないようになさい」
「姉さん冷たい」
「他人の世界を壊すのが嫌いなだけ。それに直人にもしものことがあったら嫌だもの」
他人には無闇に干渉すべきではないというのが姉の信条だ。単に人嫌いという気もあるが。まあそれはそれでいいのだが、僕に対しては少々過保護気味なのが玉に瑕だ。両親が揃って家を空けがちなため、自分が弟の世話をしなければならないと思っているところもあるのかもしれない。僕自身も姉さんは好きだし、胸を張ってこれが僕の姉だと言えるほどではあるのだが、僕のせいで姉さんを縛り付けては居ないだろうかと偶に思う。それを口に出せば、姉さんはそんなことないと笑って言うので何も言えない。
「でもさ、僕ちょっと気になるんだよ。同じクラスの子だし、何回か話したこともある。廃校なんて如何にも危なげだし、大変なことになる前に……」
「行くつもりでしょう?」
ずいと顔を寄せてきた姉が言う。もしかして、なんて曖昧な言葉は言わない。眼鏡の奥にある凛とした目が眩しい。怯みそうになったが、なんとか僕は言葉を繋いだ。
「というより、今日の夜、行く約束しちゃってるんだ。叶とかも心配してるみたいでさ、四人ほどで」
それを聞くと姉はため息を一つ吐くと、「なら私も行く。拒否権はないから」、と言い渡すのだった。
丁度深夜零時を回った頃、次の日が休みであることを良いことに集まった高校生四人と大学生一人が暗がりにに不気味な姿を浮かべる廃校前に集まった。
「こんな時でもスケッチブック持ってくるのかよ……お姉さんさも一緒なの?」
事の首謀者である叶が、僕の手元を見て怪訝そうな顔をしながらも、一番に声を掛けてくる。
「持ってないと落ち着かないんだよ。姉さんについては見ての通り。付いてくるって聞かないんだ」
「夜も遅いんだし、保護者の一人は居てもいいでしょ」
当然というように答える姉さんに集まった面々はそこそこにぎこちない挨拶を交わすと、廃校へと足を踏み入れた。
廃校になってからまだ二年ほどしか経っていないため、校内はそこまでの劣化は見られないが、当然のことながら光を生み出すものは何もない。故に灯りは必然的に持ってきた懐中電灯に限られる。飛び入り参加だったため、姉さんの分はないが、僕と行動を共にするし、基本はずっと集団で行動するので特に不都合はないだろう。
「前に見た時はどこで佐伯さんを見たの?」
「二階の音楽室。肝試しに来た奴らはそこの前を通る時に声が聞こえたらしくてな。いざ入ってみると佐伯が居たらしいよ」
途中までは窓ガラスから零れる月明かりが、闇に覆われる辺りと僕らの心をそっと支えてくれていたが、二階の隔離された場所にある音楽室までの道のりにはそれがない。一寸先は闇とでもいうような空間の中、五人で固まって懐中電灯のくっきりとした光を頼りに進んでいく。
「今、声聞こえなかった?」
佐伯と仲が良かったという木下さんが異変を知らせる。この面子の中で一番不安なのは彼女だろう。ぱったりと連絡も取れなくなり、プライベートでも一方的に距離を置かれ、その対象が幽霊などという訳の分からぬものに囚われているというのだ。それでもなお友人を助けたいと不気味な場所へと足を運んだ彼女の心中は察して余りある。
一歩二歩三歩。僕たちはゆっくりと、しかし、着実に歩みと不安を進めていく。心の臓が少し鼓動を早める。音楽室までもう少しという所まで来ると、前方から声が聞こえた。どうやら誰かが、いや、佐伯があそこに居るらしい。
「やっぱり、佐伯の声だ」
時折聞こえてくる笑い声を受けて小声で僕は言う。懐中電灯の灯りはとっくに消している。音楽室手前に付いた。僕は行動で開けるよ、と確認を取るようにスライド式の扉に手をかけ、面々の顔を見る。みんなが頷くのを見ると思い切って扉を横に引いた。
「またなの?」
一歩を踏み込むよりも前に、僕らの足と口に釘を刺すように、佐伯の気怠そうな声が足元に刺さった。言い様のない緊張が足元から更に上へと上ってくる。それを払い落とすようにして足を動かし、僕らは音楽室へと入る。
奥に飾られ、月明かりを受ける音楽家たちの肖像画を背にし、佐伯は居た。確かに叶が言っていたように霞のようなものがその身体に纏わり付いているのが肉眼でもはっきりと見て取れた。別に近くに加湿器があるだとかそういう訳ではない。佐伯の周りを漂うそれは生き物のように動いている。
「邪魔をするな、と前に言った気がするんだけど」
「いやいや、邪魔も何も佐伯こそこんな時間に何してるんだよ、最近学校にも全然顔出してないだろ。こんな所で油売るのはやめて、帰ろうぜ? ご両親もきっと心配してる」
叶が場を和ませるように惚けた口調で言うが、緊張で声は上擦っていた。
「見てきたように言うね。私が何をしようとあなた達には関係ないでしょ。他人の領域に土足で踏み込んでこないで」
「他人なんて言わないでよ、私達、友達でしょ? どうして急に避けるような行動を取るようになったの、なんでこんな所に通うようになったの、おかしいよそんなの。みんな心配してるんだよ」
「友達だからって人の行動に文句を付けていい道理はないでしょ。私があなたに何か迷惑を掛けた? 見せかけの善意を盾に自分たちの主張を押し付けないで、邪魔だよ。私はね、今幸せな世界に居るの、夢の様な時間を過ごしているの。誰にも壊させやしない」
気付くと、目の前にあの霞が漂っていた。どさりと重い袋が立て続けに落ちるような音。慌てて僕が周りを見るよりも先に、佐伯の声が場を制した。
「あれ、おかしいな」
実に不思議だと言わんばかりに佐伯が僕を凝視する。おかしいのは佐伯だと思ったが、周りを見ると僕と姉さん、叶以外の者はみな倒れていた。
「なるほど。何かおかしいと思ったらそういうこと」
佐伯は目をすっと細めてこちら側を見た後、口を軽く歪めると視線を宙に彷徨わせた。
「まだ、治ってなかったんだ。それどころか酷くなってるみたい。ということはみんなはまだ無駄に苦労してるんだね」
「何言って」
訳の分からぬことを言う佐伯に僕と叶がほぼ同時に苛立ちを口にしたが、佐伯は端から会話をする気がないという風に言葉を被せてきた。
「気にすることないよ。むしろ治らないのは良いこと。それは死に至る病じゃなくて幸せに至る病だから」
自身の何も居ないはずの右隣に、何か愛おしいものにでも触れるように揺蕩う霞に手を差し出すと、くすりと佐伯は笑った。
結局、佐伯とは満足に会話をすることも出来ないまま二日が過ぎた。廃校に行った際に倒れた二人は特に何事も無くすぐに目を覚ましたが、怖い思いをしたせいかすっかり萎縮してしまって、佐伯のことは口に出さなくなった。木下さんも例外ではない。薄情と一瞬思ってしまったが、あんな思いをしたのだから無理もないだろう。何よりも大事なのは自分の身。今回は偶々気絶で済んだだけで次も無事という保証はないのだ。姉さんは姉さんで僕と叶に二度と廃校には近付かないようにといかめしい顔で釘を刺した。完全に手詰まりと言って良い。
だが、気になるのは佐伯があの時言った言葉だ。「まだ治っていない、それどころか酷くなってる。みんなが苦労している」。あれはどういう意味だったのだろうか。そして誰に対して言ったのか。その後に続いた言葉から病気を指しているようだったが、僕も姉さんも特に病気は抱えていない。叶に関しても知る限りではないし、廃校から帰った後にそれとなく訊いてみたが、やはり健康体である。そもそも重い病気など抱えていたら高校になど通えない。
「分からん」
スケッチブックを隣に置き、ごろんと芝生の上に身体を投げ出す。川の流れでも見てゆっくりと考えようと思ったが、不可解な要素が多すぎてどうしようもなかった。大体、佐伯に纏わり付いていたあの霞は何なのだ。幽霊だとでも言うのか。「私は今幸せな世界に居る、夢の様な時間を過ごしている」。佐伯の言葉。「見たいと思う人には見える、そうでない人には見えない。その存在は観る者の世界による」。姉さんの言葉。
「佐伯には観えてたのかな」
狂っている、と言うのは簡単だ。だが、あの様子と言葉からして佐伯は確かに今幸せなのだろう。きっと大切な人と一緒に居るのだろう。ならばその世界を壊すのは間違いなのではないだろうか。他人に無闇に干渉するべきではないと姉さんもよく言っていた。だが、これで本当に良いのか。今、この時を逃せば、佐伯は戻れなくなってしまうのではないか。別に今すぐ死ぬということはないかもしれない。しかし、あのまま廃校に入り浸り続ければ現実との繋がりがどんどんと希薄になっていき、最後には消えてしまうような気がする。
善意を盾に。脳内に反芻したその声が、胸を刺した。
「でも」
納得出来ない何かがある。このままでは駄目だと思う何かが。
「結局はエゴなんだろうな」
「何が」
突然降ってきた声のせいで思い切り身体を震わせてしまった。してやったりと笑い顔の叶が僕を見下ろしていた。
「心臓に悪いから不意打ちはやめてくれよ」
「悪い悪い。で、なにぶつぶつ独り言言ってたんだよ。というかお姉さんは今日居ないの」
「居ないよ。見れば分かるだろ」
矢継ぎ早に言う叶に事情を説明すると、何でもない事のように、「ならもう一度佐伯の所に行こう」と言うのだった。
時刻は零時過ぎ。再び僕と姉さんと、そして叶が廃校を訪れていた。姉さんには言わずに行こうとしたが、途中でバレてしまい、何とか今回限りという誓いを立てることで渋々許可を得た。
相変わらずの暗さの中を進む。今回はもう迷いがない。何が待っているのか分かっているし、何をしなくてはいけないかも分かっているからだ。
音楽室。佐伯の声。そこで足を止め、扉に手を掛ける。そこで僕は耳を疑った。聞き慣れない女性の声がしたのだ。だが、どのみち開ける他ない。中に入ると佐伯は無言で僕らと対峙した。
「懲りないね」
もううんざりだと言うように佐伯は冷たく言い放った。いつかと同じような光景。しかし、決定的に違うものが一つあった。佐伯の隣には霞ではなく、僕らの高校の制服を着た女の子が居たのだ。
「隣に居る、女の子が佐伯の大切な人?」
僕は佐伯の悪態を無視してゆっくりと、しかし確実にその耳に届くように球を投げた。ぴくりと佐伯が眉を動かすと、暗い瞳で僕を見つめてきた。
「観えるようになったんだ。重症だね」
姉さんと叶が何故か僕に怪訝そうな眼差しを送ってきたが、今はそれどころではなかった。
「そうだよ。この子が、私の大切な人」
佐伯は憑かれたように語りだす。高校の入学式、初めて友達となったのがその子だったという。やがて交流を深めるうちに二人は友達という一線を越える。最初こそ幸せだったが、周囲に少しずつ気付かれ始めると、陰で誹謗を受け、そして両親からも非難された。異常なことであるから、その一点で。無理矢理に引き離され、否定された二人は暴走して自殺を図ったが、佐伯だけ運良く、いや、運悪くと言った方が良いのだろうか。兎に角、生き残ってしまった。
この頃から気力を無くし始め、学校へと足を伸ばすことも殆ど無くなった。しかし、一人で再び自殺を図る勇気もなく、やることと言えば二人の思い出の地であるというこの廃校をふらふらと亡霊のように彷徨うだけであった。自分はまだ貴女の事を愛しているという誰に向けたかも分からぬポーズか、それとも前に進めぬ心の現れか。だが、そんなことを繰り返していると不思議なことが起こった。死んだはずの彼女の声が聴こえるようになり、やがて姿が観えるようになったのだと。そして、今に至る。
「この子はね、慰めに、そして迎えに来てくれたんだよ。約束破りの酷い私を。見捨ててなかったんだ」
幽霊と手を絡めながらそう語る佐伯の目はいつしかギラギラとした光に満ちていて、僕はその姿を心底怖いと思った。そして、確信した。佐伯は、狂っている。もう直せない程に壊れてしまった。
「おかしいぞ、お前」
僕は殆ど無意識に、言葉を零してしまった。あまりに呆然としすぎたせいで、そのまま頭に漂っていた言葉が出てしまったという風に。佐伯は小さなそれを掬いあげるとけたたましく笑った。
「冗談、言わないでよ、あなたが、それを、言うの」
息も絶え絶えという風に不自然に切られた言葉を出すと、佐伯はまた笑った。
「九条くん、あなたも同類でしょうが。あなたの大切な、大切なお姉さんも死んでるでしょうが」
「は?」
「佐伯!」
僕の間の抜けた声と金縛りから解けたように突然飛ばした叶の怒号が重なる。
「九条くん、本当に気づいてないの、あなたの横に、お姉さんは居ないんだよ? もう死んでるの。一年前に交通事故で。あなたのお姉さんの姿は誰の目にも映ってないの」
言うが早いか叶が矢のように走りだしていた。佐伯の口を塞ぐためだろうか、ああ、いけない。だってそんな必死の形相で走り出したら、佐伯の言葉が真実だと裏付けるようになってしまうじゃないか。足元がふらつくなどというものではない、崩れていく。
「証拠は、ないだろ」
カラカラに乾いた声をやっとのことで捻り出す。
「スケッチブック」
叶は勢い虚しく幽霊に取り押さえられていた。僕は手に持ったスケッチブックを、いつも手放さず持っていたスケッチブックを、開いた。
「これのどこが証拠」
「よく見て、ページの隅から隅まで、目を背けずに! 正しいものを」
手が震える。ページを? 正しいものを? 何の変哲もないスケッチブックじゃないか、今まで姉さんの傍で描いてきた絵が描かれているだけの、それだけの。
「なんだこれ」
何度も何度も瞬きしていると、さっきまで書かれていなかったものが浮かび上がってきた。いや、書かれていたものが見えてきたと言った方が正しいのか。それは文字、それは言葉、それは誰かの言葉、それは姉さんの言葉、僕と、あるいは叶とクラスメイトを交えて話した時の姉さんの言葉。様々なページに、絵がない部分に、それは書かれていた。言葉、姉さんの。
「なんだよこれ」
足元が、一箇所だけ、やっとのことで確保していた足場が面白いほどに、残酷なほどに、暴力的に揺れている。
「ほんとに気づいてなかったんだね。あなたはお姉さんが亡くなってからしばらく痛々しいぐらいに気力を失った。仲が良いのは有名だったからみんな同情した。私も大切な人を失った者としてあなたに同情した。でも、しばらくしたらあなたはお見舞いに来た私達に息を弾ませながらこう言ったの、『姉さん、みんなが遊びに来たよ』って。耳を疑ったよ。お姉さんはどこにも居ないのに、あなたはすぐそこに居るかのように振る舞うの。私達が話しかければ、あなたはそのスケッチブックにお姉さんの台詞を書いて私達に見せるの。居もしない人を居るように見せかけてたの、馬鹿な子供みたいに! でもみんな察した。あなたは壊れてしまったんだって。姉を亡くした九条くんには現実は辛すぎるから私達は示し合わせたの、あなたの観ている世界にに合わせようって」
「嘘だ」
「嘘じゃない。日常生活で違和感を覚えたことはなかったの、居もしない人が居るように振る舞うなんて」
違和感。なんだそれはそんなものはなかった。僕には姉さんの姿がはっきりと見えていた。手だって何度も繋いで帰った……手? 聞きたくもない声が頭に響き始める。「あのお兄さん、なんで誰も居ないのに横に話しかけてるの」、「見ちゃ駄目」。河原の帰り道、どこかの親子連れ。「九条くん、あまりそういうのは外でやらない方が良いと思う。人の目もあるし、姉弟だと尚更ね」、やんわりと注意するクラスメイト。聞こえなかった声が、あるはずのない声が、受け取り方を間違っていた声が、溢れる。
足場が、崩れた。
絶叫だった。深く開いた傷口から止めどなく血が出るように、声が勝手に溢れ出してくる。何故、姉さんはさっきから何も言わないのだ、僕の姉さんはどこに行ったのだ。こんなものは現実ではない、現実であってはならない。
ぷつりと、テレビの電源を落とすようにして、目の前が真っ暗になった。
ぐったりとしていた。身体が酷く重い。もぞもぞと身体を動かすと、誰かの暖かく、柔らかい手が僕の頬に触れた。僕はうっすらと目を開ける。
「姉さん」
「おはよう。酷く苦しそうにしてたけど大丈夫?」
見慣れた家のリビングだった。何の変哲もない。
「悪い夢を見たんだ」
姉さんが死んでしまった世界で、頭のおかしくなった僕が姉さんが居るものと思って生活している世界。考えただけでゾッとした。そんなもの、あってはならない。
「それは、夢じゃないよ」
「なんでそんなこと言うのさ」
「大事な話だから。今、私は直人に手を伸ばしているの。不幸な世界に堕ちてしまった直人を幸せな世界へと導けるように」
「だったら掴むよ、その手を」
もう疲れたんだ。嘘でもそんなことは言わないで欲しい。
「よく聞きなさい、大事な話なの。私はもう人としてはこの世に居ないけど、幽霊になってずっと直人の傍に居て、見守っていた。でも直人は何度も私が止めたのに、魔法を打ち消してしまう場に、状況に赴いてしまった。だから、選んで欲しいの、私と一緒に消えない魔法を使って、永遠の世界に行くか、本来居るべきはずの場である現実の世界に行くか」
「僕は姉さんが居る世界じゃないと幸せになんてなれない。どちらが現実かはもう良いんだ。だから、魔法をかけて欲しい。もう二度と解けることのない、永遠の魔法を」
そう言うと、視界が明滅を繰り返しはじめた。古くなったビデオテープが映し出すそれのように、ノイズが走ったような不安定さで、僕を見下ろす姉さんと顔が見えない誰かが泣いている様子を交互に見せる。部屋に姉さんが居る、現実。病室のようにベッドが置かれた無機質な白い空間、これは何か。
本当に良いの? 姉さんの声が聞こえる。良いよ、と僕は応える。それが答えのはずだから。
幾度かそんなことを繰り返すとやがてそれは消えてなくなり、元の姉さんが居た場を映しだしたまま安定した。やはり、これが現実で、僕が居るべき世界なのだ。
何度独りではないと唱えた所でそれを消すことなんて出来ない。それでも、それでもだ。ここには魔法があるから、決して消えることのない魔法があるから。寂しさと悲傷を火にくべて燃やしてしまおう。
「姉さんは」
僕を見下ろす瞳を見つめる。
「直人は」
指を絡める。
「ここに居る」
ここにはもう独りは居ない。二人が居る。それは動くことなく、朽ちることなく、変わることなく、ただ幸福に在り続ける永遠のはずだから。