2月7日(金) 7:30
「――――――ちょっと!」
玄関の戸を開けるなり響いた声に、ぽかんと口を開けた。
頭の中は真っ白だけど、体は習慣通りに動こうとしていて。ワケが分からないままに私の手だけは、玄関の鍵をかけようとする。
それでも、目の前に立ちはだかってる母親の圧倒的なオーラに気圧されて、なかなか思うようにいかない。
がちゃ、がちゃがっ……なんて、歪な音を立てるだけだ。
そんなふうに私が軽いパニックに陥ってる間にも母は仁王立ちで、逃がさないわよ、と部屋まで追いかけてきそうな空気を放っている。
「にゃ、げほごほっ……なに……?!」
噛んで咽た私を見下ろす母は、にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべてて。
「いくら彼氏を見られたからって、動揺しすぎよ~」
鼻唄混じりなうえに、語尾にハートマークまで見える。きっと気のせいじゃない。母の背後に駆け寄って来ようとしてる父も、“うっ”という感じで体を引いてるし。
「お母さん気持ちわる――――――って、あれ?」
つい目の前の可笑しな親に目を奪われちゃったけど……あれ、もしかして今。
小首を傾げながら、とりあえず回れ右をして鍵をかける。
そして、かちゃん、と小気味良い音が頭の中に響いた瞬間、私は叫んだ。
思い切り叫んだら、頭の中がスッキリしたらしい。私は母と同じく玄関で仁王立ちになって、“小野寺くん彼氏説”を否定した。
「……だから彼は、」
もう何回も同じことを言ってる。3回目までは数えたけど……。
正直、今日はもう疲れてるんだ。
脅され半分で一緒に古書店に行って、そこで小野寺くんの前でニット帽を取ることになって。情緒不安定で泣いちゃったし、文献も目を皿にして読んだ。
しまいにはニット帽を取り上げられて、のびのびになっちゃって。また泣いて。
……盛りだくさんすぎて、もう胸もお腹もいっぱいです。
「や~ん、カレだって。
どうするお父さん、カレだって~!」
そんな私の事情なんて露知らず、母は有頂天そのもので父の腕をばしばし叩く。きっと父が「いた、いたた!」とされるがままに叩かれてることには、気づいてないんだろう。
……うん、その叩き方は小野寺くんに通じるものがあるんだけどね、お母さん。
貴重な化け猫文献を容赦なく叩いていた彼を思い出して、私は溜息混じりに言った。
「違うんだってば。何回言ったら分かるの?
あの人は救急車呼んでくれた人。同じクラスの男子!」
それにしたって、小野寺くんが私の彼氏?
……いやいやいやいや、それはない。
ほぅ、と白い息が浮かんで消える。
冬の朝の、キンと冷えた空気は嫌いじゃない。でも、この寒さの中で人を待つのは好きになれそうにないな。
溜息と同じ色のニット帽を被った私は、自転車のカゴに鞄を入れて小野寺くんがやって来るのを待っていた。びよんびよんになった黒いニット帽の代わりを持って来てくれる、というから。
……昨日はほんとに疲れた。
秘密を抱えて緊張しっぱなしの生活は、もともと私には向かなかったんだ。小野寺くんに問い詰められて、張り詰めてたものがあっさり切れた。
だからあの時の私は、“力になる”って差し伸べてくれた手を咄嗟に掴んでしまって。
「いじめっ子の気まぐれ、かなぁ」
慌てたり泣いたり忙しかった昨日を思い出して、私は溜息をついた。ひと際大きな白いもやが、空気に溶けて消える。
……返して、ってお願いしたのに。
小野寺くんは素知らぬ顔でニット帽を被り続けて、結局ダメにしてくれた。少なくとも、私が学校生活を送るために必要な役割を担えないニット帽にしてくれた。
呟いた私は、なんとなく視線を上げる。
すると、自転車に乗った人影がこちらに近づいてくるのが見えた。
「おい、」
私にとって“あんまり学校に来ない、基本的に怖い人”から“気まぐれに優しい、いじめっ子”に変わった小野寺くんは、開口一番に苛立ったような声を発した。
さすがに朝イチで顔を合わせるんだから、そこは「おはよう」なんじゃないのか。昨日のいろいろを水に流して挨拶しようと思って、「お」と言いかけた私はどうしたらいいですか。
予想外の展開に固まった私を見て、小野寺くんは言った。
「中入ってろよ。
家なら分かるって言っただろ」
……何故怒られた。
一瞬気持ちが負けそうになったものの、私は口を尖らせる。
「だって、見られたら困るから……」
小野寺くんは目を細めて私を見下ろした。
そこまで長時間外に出てたわけじゃないのに、首筋がぞぞっと寒い。
「は?
見られたら困るような奴でもいんの?」
基本的に彼の視線にはいつも、威圧感が漂ってる。それがこの身長差によるものなのかは、微妙なところではあるけど。
私は俯いて、手袋をはめた手をぽふぽふ叩いた。頭上から降ってくる威圧ビームを正面から受けるだけの図太さは、まだ持てなくて。
「うちのお母さん。昨日、帰ったら大変だったんだ……。
見てたみたいでね、彼氏だ彼氏だ、ってテンションが上がっちゃって。
小野寺くんのこと見たら、絶対また騒ぐから……」
愚痴のつもりで吐きだして、ちらりと彼を見上げる。
すると瞬き数回分だけ目が合って、でも逸らしたのは彼の方だった。
「……へー」
……で、耳が赤いのは何故だ。
「え、何?」
後ろめたいことでもありそうな態度に、思わず顔を覗き込む。
すると小野寺くんは、耳を掻きながら小さな声で言った。
「そこの窓から見てたから、会釈しといた。
……田部さんが門を開けてる時に」
おのでらー!
あんぐり口を開いた私を見た小野寺くんが、沈痛な面持ちで口を開く。
「ちょっと待て。
挨拶して怒られるのは違うんじゃねーの。
目が合ったら会釈くらいするだろフツー」
「それは……っ」
口を開けたライオンに、にわか猫の私は上手いこと言い返すことが出来なかった。ぐ、と言葉に詰まって、それっきり口を閉じた。
私はその時になって、冷たい風が吹いていることを思い出した。
朝の空気の冷たさを改めて感じたのか、彼が手を擦り合わせる。今まで気づかなかったけど、小野寺くんは手袋をしていなかった。
……男の子って、そういうとこ無頓着なのかな。
そんなことを思っていたら、彼が手を止めて口を開いた。
「で、約束の帽子持ってきたんだけど……ここじゃ無理だよな。
学校のトイレで替えるか?」
溜息混じりに言いながら、小野寺くんは自分の自転車のカゴを指差した。
そこには、お店のロゴが入った紙袋が3つほど。ぴかぴかで、皺もない紙袋だ。
私は彼の指差した物を見て、目を点にした。
「え、もしかして新品?3つも?」
呆然と呟けば、小野寺くんが仏頂面になる。目が細くなって、眉根を寄せて。
「……おい」
ものすごく低い声で凄まれて、私は震えあがった。
……こわい。小野寺くん怖い!
「にゃんでしょうか!」
噛んだ私は、笑われなかった。
ウケる、って言われなかった。
小野寺くんは自転車のペダルに足を乗せて、顔を強張らせる私を見つめる。
一瞬の緊迫感が頬を掠めて痛い。
その痛みに息を飲んだ刹那、小野寺くんが口を開いた。
「文句があるなら、学校で田部にゃんて呼ぶぞコラ」
衝撃的なひと言に、今度こそ心臓が止まる寸前まで体が震えあがる。
彼は絶句した私を見て、にやりと笑った。
そして、スーっと自転車が走りだす。
その姿が視界から消えた瞬間、私は我に返った。
慌てて自転車のハンドルを握って、スタンドを蹴りあげる。
「やめてぇぇぇっ!」
悲鳴を上げて、私はぐんぐんスピードを上げる彼を追いかけた。
のんびりしたチャイムが鳴って、お昼休みがやってきた。
時間は12時40分。日の当たる中庭には、私とぶち猫がいるだけだ。
怒涛の登校時間をなんとか無事に乗り切った私は、午前中せっせとノートをとった。「秘密、守ってやるから」というメッセージを、ハートマークつきで私の教科書に書きこんで、満足そうに居眠りをする小野寺くんの隣で。
きっと学年末試験のことを頭に入れて、私にノート書かせてるんだ。
思惑はなんとなく分かる。けど手を抜くのは癪で、結局私は集中して授業に臨んでしまった。
チャイムを目覚ましにして起きた小野寺くんが、「すげー。これなら寝てても授業受けた気になるー」なんて目を瞠ったのを見て、ちょっといい気分になったのは秘密だ。
『ねー』
隣で丸くなったぶち猫が、片方だけ目を開けた。
私はタンブラーを傾けていた手を止めて、小首を傾げる。
「ん?」
『にぼしはー?』
「……えっと……」
純粋無垢な瞳が、午前中のノートのくだりで荒んだ私の心に突き刺さった。
煮干しを持ってくるのは、小野寺くんだ。でも、その彼は職員室に呼び出されてお説教されてる。原因はもちろん居眠りと遅刻欠席だ。
このぶち猫に現実を教えていいものかと、私は思わず口ごもった。
すると、猫は欠伸をして前足を伸ばした。そしてそのまま、私の腕に擦り寄ってくる。
……うあああ、毛が。
『ねー、にぼしはー?』
すりすりしてくる猫に、私は小さな声で囁いた。
「私は煮干しなんか持ってないんだってば。
あとで小野寺くんが来たら聞いてみれば?」
猫の短い尻尾が、上を向いてぴこぴこ動いてる。
『やだー。
いまちょーだい』
「うーん……」
『おねがいおねがいおねがーい』
ずいぶんと諦めの悪いおねだりだ。こんなにノラ猫に擦り寄られるなんて、今までにはなかった。もしかして猫と話せるようになったからなのか。
唸りながら、私は携帯で時間を確認する。
もうすぐ12時45分だ。4時間目が体育だった親友が合流するまでに、この猫との会話はやめなくちゃいけない。
……もし、見つかったら。
想像をして滲んだ焦りが、私の語気を強めた。
「もうちょっと待ってなさい。お説教が終わったら来るから」
『にゃぅ……』
早口で捲し立てれば、猫の尻尾が下を向いた。きっと怒られたと思ったんだろう。
……猫相手に、ちょっと大人げなかったかも。
そう思った私は、咄嗟に口を開いて手を伸ばした。
「あ、ごめ――――――」
その時だ。
「田部?」
突然男の人の声が響いた。
驚いた私が伸ばした手を強張らせる間に、ぶち猫が何も言わずにベンチから飛び降りて逃げ出した。その後ろ姿は、お腹が空いてるようには見えない速さで見えなくなる。
「……えと、」
目の前には誰もいない。
腕についていた猫の毛が、ふわりと風に揺れる。
私は、ばくばく音を立てて鳴りだした鼓動を感じながら、おそるおそる後ろを振り返った。