2月6日(木) 17:00
茶髪にピアスが3つの小野寺くんは、学校を休んでまで古書店でバイトに励んでいるらしい。
よく黒いエプロンをしてスーパーに来てたから、きっとレンタルビデオ的なバイトをしてるんだろうと思ってた。けど違った。小野寺くんは、ものすごく意外なことに古書店で働いてる。
それだけでも衝撃的だったのに、待っていた私の前に現れた彼は、黒縁メガネをかけてて。
なんかもう、ジェンガ並みに積み上がったイメージが、音を立てて崩れた瞬間だった。
いやいや、それより何より問題は、バイト中の小野寺くんの格好を見た私の心拍数が上がってしまったこと――――。
でもでも、違うんだ。
これはあれだ。制服マジックみたいなものなんだ。きっと。
「諒さん、ちょっと奥借りてもいいですか?」
“ぎゃふんと言うなら今のうち”と、してやったり顔で言った小野寺くんは、鯉みたいに口をぱくぱくさせてる私を見て、とりあえず気が済んだんだろう。
私をちらりと一瞥した彼が、真面目が服を着たような外見の高橋さんに目を向けた。
すると高橋さんは苦笑を浮かべながら、襖の向こうを指差した小野寺くんを見て頷く。
「いいけど……えっと、田部さん、だっけ?」
唐突に呼ばれて、私は我に返った。
頭の中で連打されてた“ぎゃふん”をかなぐり捨てて、慌てて高橋さんに向き直る。
「はい」
彼の持つ凛としたオーラに感化されたのか、無意識に背筋が伸びる。
高橋さんは、そんな私の反応を見て笑みを零した。
「下のお名前も教えてくれる?」
涼やかなカオでさらりと尋ねられて、私は一瞬きょとん、としてしまう。
「した?」
オウム返しに言葉を紡いで、次の瞬間にやっと問われたことの内容が理解出来た。
……小野寺くんのせいで、すっかり脳の回転が悪くなってきてる気がする。
「ああ、はい……あ、」
思い至った私が、下の名前を名乗ろうとするより早く。
「綾乃」
仏頂面の小野寺くんが、ものすごい瞬発力で言葉を滑り込ませてきた。
声が通った刹那に、ネコミミがニット帽の中でぴーんと立ち上がる。
体中の毛穴が開いて、心拍数が上がって。
……びっくりした。
学校には興味ないクセに、私の名前は知ってるんだ。小野寺くん……。
予想もしない速さで答えた小野寺くんは、私を見据えて口を開く。高橋さんがにまにま笑いを堪えてる姿なんか、視界に入ってないみたいに。
「――――だろ?」
彼の視線が、痛いくらいの強さで私に向けられてるのが分かる。
その強さに動かされた私の口が、自然と言葉を紡いだ。
「う、うん……」
こくりと頷けば、小野寺くんの目元がふっと和らいでいく。眼鏡効果なのか、なんだかちょっと不敵な笑みを浮かべてるようにも見えるけど……。
すると高橋さんは、にこにこしながら手を差し出した。
「そっか。
じゃあ綾乃ちゃん、これから仲よくしようね」
私は差し出された手と高橋さんの顔を交互に見て、我に返った。
何が起きてるのかを大急ぎで考える。頭の中が眼鏡姿の小野寺くんで埋まりそうになってた自分を叱咤しながら。
そして脳の回転数を上げに上げて、ようやく私は差し出された手の意味を理解した。
「……あぁっ、」
咄嗟に自分の手を差し出す。
高橋さんは、そんな私を見てにっこり笑った。
ほんとにもう、好青年を絵に描いたような人だ。
ところが2人の手が握手を交わす一瞬手前で、小野寺くんの声が響く。
「諒さん作業中だったんですよね、手はキレイですかー」
反射的に、声のした方へと視線を走らせる。
すると黒縁メガネの奥にある瞳が、私の視線を受けて、すっと細められて。
……ええっと小野寺くん、何を怒って……?
彼のひと言を受けた高橋さんの手が、ぴくっと揺れた。
「あ……」
思わず、といったふうに声を零した彼の手を見て、私は小首を傾げる。
「……ん?」
ぱっと見た感じ、全然汚れてないんだけどな。
「別に私は気にしませんけど」
私は高橋さんを見たまま、差し出した手が握られるのを待つ。
すると握手をしようとしていた彼は、苦笑混じりに手を引っ込めた。
「うん、気持ちだけもらっとくね」
そして、ちらりと小野寺くんの顔を見て、また私に視線を戻す。
その顔に浮かぶのは、なんだか困っているような、そんな笑みだ。
「ゆっくりしてってね、綾乃ちゃん。
古い本以外何もない所ですけど」
「はぁ……ありがとうございます」
よく分からないけど、これは歓迎されてる、ってことでいいんだろうか。
私は内心で首を捻りながら頷いた。
通された“奥”は、8畳くらいのお座敷だった。床の間があるから、客間なんだろうか。
小野寺くんは「適当に座ってて」と言い残して、どこかに行ってしまった。
ちゃんと座布団まで用意されてるけど、なんとなく座卓の前には座りづらくて灯油ストーブの前にしゃがみこむ。あったかくて気持ちがいい。このまま丸まって寝ちゃいたいくらいだ。
ネコミミが、ぴるる、と震える。
そうやって炎を見つめてぼんやりしていたら、小野寺くんが戻ってきた。
「ごめん、お待た――――」
彼はしゃがみこんでいる私を見るなり、ずかずかと音を立てて近寄ってくる。
「あんまり長く当たってると火傷する」
そう言った彼の手が、がっし、と私の腕を掴んで引き上げた。
「にゃに?」
ぐいいー、と引っ張られて立ち上がった私を座布団の上に座らせて、小野寺くんは持って来た古い本を広げた。
思わず零れた言葉が果てしなく猫っぽかったことは、無視してくれるらしい。
「……で、これなんだけど」
小野寺くんは私の横に座って、古びて黄色くなったページをぱらぱら捲る。
「ん……」
眠気から引きずり出された私は、彼の指と紙が動くのを眺めて頷いた。あふ、と欠伸が出るのを堪えられなくて口を押さえる。
ちゃんと見なくちゃ、と思うのに体が勝手に眠りモードに切り替わってしまったみたいだ。頭の中がぼんやりして仕方ない。
すると小野寺くんの手が、あるページを開いて止まった。トントン、と指が何かの部分を叩いて、私に集中を促してる。
「ここ見て、田部さん」
言われて、私は力を入れて瞬きをした。
目を凝らして、小野寺くんの指す部分の文字を読み上げる。
「……ばけ、ねこ……」
――――化け猫?!
口に出した言葉が脳内で漢字に変換された瞬間、眠気が吹っ飛んだ。暖かくて気持ちが良かったはずなのに、寒気すら感じる。
ばくばく騒ぎだした心臓が口から飛び出そうで、私は思わず息を飲んだ。化け猫だなんて、今の私にとって、かなりの危険ワードだ。
しかもよく見たら、墨で描いた化け猫の挿絵が。
それも着物姿の女性にネコミミが生えてる、ものすごく今の私に近い絵が!
戦々恐々と体を強張らせた私を見て、小野寺くんは口を開く。
「やっぱり」
ものすごく落ち着いた声が、怖い。
黒縁メガネの奥の瞳が秘密を射抜くようで、怖い。
がっちがちになった私を見て何を考えたのか、小野寺くんが口の端を持ち上げた。
そして、私が何を言われるのかを想像した、瞬間。
「――――帰る」
気づいた時には、弾かれたように言葉を紡いでいた。
「私、帰ります……!」
全身の毛が、逆立ってる気がする。
悲鳴に似た声を上げて腰を浮かせた私の手を、小野寺くんが掴んだ。
「待てって」
そう言った小野寺くんの手に、力が込められる。
何かに引き摺り込まれる気配を感じて、喉の奥が引き攣った。
「やっ……!」
振り払おうにも、書店員の力の強さに運動不足の私が敵うはずもない。思いっきり力を入れて腕を振るおうとしても、微動だにしないくらいに封じ込まれてしまう。
そして、ぎりり、と手首が痛んだ。
「痛っ」
思わず声を上げた私に、小野寺くんが言った。
「人の話は最後まで聞けよ」
押し殺した声が、私を締め上げる。
眼鏡越しの眼差しに、別の意味で心拍数がぐんぐん上がっていく。
「やっ、やだっ」
怖くて怖くて頭を何回も振る。
くらくらするけど、そんなことよりも小野寺くんと対峙してる方がしんどい。
……私だって、好きで帰ろうと思ってるわけじゃないのに。
どうして私が手首を掴まれて追い込まれてるんだろう。
どうして私がこんな目に遭うんだろう。
どうして私だったんだろう。
どうして――――――。
いろんなことを考えた瞬間に、膨れ上がった感情が、じわわ、と目に滲んだ。
ネコミミが、ぺたん、と倒れる。
「ふ、みゅっ……」
ひくっ、と喉が音を立てる。
……格好悪い。しゃくり上げる声まで猫っぽいのか、私。
咄嗟に取り繕おうと、空いている手で目じりを拭う。
「も、やだぁ……っ」
きっと“泣くんじゃねーよ、面倒くせー”くらいの言葉を浴びせられるんだ。漫画とかで見たことあるもん。男の人は、目の前で女の人に泣かれるのが嫌いなんだよね、確か。
そんなことを考えた刹那、ぱっ、と手が放された。
「うっわ……っ。
や、そのっ、そういうつもりで引き留めたんじゃなくて!」
ずいぶん慌てた様子で、あわあわと、言い訳がましく言葉を並べた小野寺くんが、窺うように私の顔を覗き込んだ。
でも、そんなふうに言われたって、今さらだ。
涙は引っ込まないし、もう彼の顔もまともに見られない。
黙り込んだ私に、小野寺くんがなおも言い募る。
「ごめん!ごめんなさい!
確認したかっただけなんです、ほんと」
ずいぶんと下手に出た言い方に、私はようやく視線を上げた。
意外と間近に黒縁メガネが。
「悪気はない。マジでない。信じて田部さん」
すんすん鼻を啜る私に切々と言葉をくれる小野寺くんは、ちょっぴり滑稽だ。いつも飄々としてるのに慌てちゃって。
縮こまって硬くなっていた自分の気持ちが、少しずつほぐれていくのが分かる。
ほんとに、小野寺くんに悪気はないのかも知れない。
私は、こくん、と頷いた。
「急に泣いて、ごめんね……」
勇気を持って、ぽつりと言葉を紡ぐ。
すると小野寺くんは、緊張した面持ちを崩そうともせずに言った。
「いや、俺が全面的に悪いと思うのでお気遣いなく」
ものすごい早口で捲し立てて、私の手首を持ち上げる。
そして、眉根を寄せた。
「あー……赤くなっちゃった。
ごめん、ちょっと熱くなり過ぎたわ」
「へいき。外、寒いし」
我ながらよく分からない理屈だけど、小野寺くんはようやく肩から力を抜いて息を吐きだした。
「とりあえず、俺に田部さんと敵対する意思はない、ってことで……」
「うん」
小さく頷けば、彼の顔が少し明るくなる。
そのまま、ほっとしたようなカオで私の手首を擦っていた彼は、ふいに居住まいを正した。
「それで田部さん……」
真剣な目が、私を射抜く。
そして、意を決したように彼の口が動いた。
「その帽子の下に、何隠してんの」
――――――きた。
迷いのないまっすぐな口調に、私は頭の芯が冷えていくのを感じて黙り込む。
帽子を脱ぐ、ってことはネコミミを晒す、ってことだ。
私は視線を彷徨わせて、震える手を握る。
「何も」
……小野寺くんは知ってるんだよね。
そうじゃなくても、私が落雷で倒れた現場にいて救急車を呼んでくれたんだから、あの灰色の仔猫のことも見てるはずだし。私に“何かある”くらいには、勘付いてて当然。
だから、きっとここで隠し通そうとしたって無駄だ。分かってる。けど。
ついた嘘が苦しくて、私は目を伏せた。
すると小野寺くんは少し考える素振りを見せて、口を開く。
「何もなかったら、土下座して謝るから。
でも何かあったら……その、俺に出来ること、ない?」
囁きに、思わず目を瞠る。
そして、まっすぐにこちらを見つめる彼の眼差しに気づいた私は、息を飲んだ。
黒縁メガネの魔力のおかげか、そのカオはすごく優しくて。
信じられないくらい素直に頷いた私の手が、ニット帽に伸びた。
ぱちぱち、と静電気の弾ける音と一緒に、頭が空気に晒されていく。
着替えを見られてるような、そんな恥ずかしさがある。
小野寺くんの反応が怖いことも相まって、どうにも顔を上げられないまま私はニット帽を膝の上に置いた。
……脱いじゃった。どうしよう、脱いじゃったよ。
頭の中は真っ白だし、ネコミミはずっと倒れたまま。
そりゃそうだ。こんな状況で委縮しない方がおかしいくらいだ。
ばくばく音を立てる心臓を見ない振りで、逃げ出したい気持ちをなんとか抑えた私は、窺うように視線を上げる。
小野寺くんは、私から顔を背けて口元を手で覆っていた。
「あの……」
声をかけると、彼はちらりと私を一瞥する。目が合ったのは一瞬だった。視線がうろうろして、なんだか落ち着きがない。
よく見れば、小野寺くんの耳が真っ赤だ。
……なんだか様子はおかしいけど、とりあえず私のことを“気味が悪い”とか、そういうふうに思ってないってことだけは分かる。
ネコミミも、攻撃されるわけじゃないと安心したのか起き上がった。
「小野寺くん……?」
恐る恐る名前を呼んでみると、彼は口元を覆ったまま私に視線を寄越す。
ネコミミが、ぴるる、と震える。
そして小首を傾げた私から再び目を逸らして、小野寺くんは言った。
「……やば」
だから、どうして耳が真っ赤なの小野寺くん。