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雨 〜音と匂い〜

作者: ひなさん
掲載日:2026/02/28

この物語は、

大きな出来事も、劇的な奇跡も、描いていません。


描いているのは、

言わなかった言葉と、

送りそびれたメッセージと、

雨が止んだあとの、ほんの短い静けさです。


人は、別れた瞬間にすべてを失うわけでも、

再会した瞬間にすべてを取り戻すわけでもありません。


気持ちはいつも、

もっとゆっくりで、

もっと静かで、

音を立てずに形を変えていきます。


この物語に出てくるふたりも、

終わりと始まりの間にある、

とても曖昧で、でも確かな時間を、

それぞれの場所で生きています。


もしあなたにも、

雨が降ったあとにだけ思い出す人や、

匂いだけでよみがえる時間があるなら。


この物語は、

きっとその感情に、

そっと寄り添えるはずです。


――

音じゃなくて、匂いでわかる雨のように。

ーー第1章「雨の止み方を、私は知らなかった」


雨は、ずっと同じ音で降っていると思っていた。


駅前のロータリーで、私は小さな屋根の下に立ったまま、スマホの画面を消して、濡れたアスファルトを見ていた。


今日で、この街を出る。


それだけのことなのに、足はまったく動かなかった。


傘は持っている。

切符も、バッグの中にある。

家も、仕事も、次の住む場所も、全部決まっている。


なのに。


「……やっぱ、降ってるね」


後ろから、聞き覚えのある声がした。


振り向かなくても、誰だかわかった。


「雨女だから」


私は、少しだけ笑って言った。


「最後の日くらい、晴れてほしかったな」


あなたは、私の隣に立った。


相変わらず、傘をささない人だった。


「雨のほうが、いいよ」


そう言って、あなたは空を見上げた。


「思い出になるから」


その言葉に、胸の奥が、ぎゅっと音を立てた。


思い出にしなきゃいけない、という言い方が、あまりにも静かで、やさしくて。


「……ねえ」


私は、ずっと言えなかった言葉を、雨音に紛れさせるように、小さく落とした。


「私、ここに戻ってきたらさ……」


そこまで言って、止まった。


言葉は、形にした瞬間、もう戻れなくなる気がした。


あなたは、私の方を見ずに、ただ前を向いたまま言った。


「無理に約束しなくていいよ」


その声は、少しだけ、濡れていた。


「帰りたいって思った時に、帰ってくればいい」


雨が、強くなった。


アスファルトに落ちる音が、さっきより近くに感じる。


私は、ぎゅっと傘の柄を握った。


「……私さ」


喉が震える。


「ここで、幸せだったんだよ」


初めて、ちゃんとした声で言えた。


あなたは、その言葉を受け取るみたいに、ゆっくり息を吐いた。


「知ってる」


たったそれだけなのに、どうしてこんなに、救われるんだろう。


バスのエンジン音が、遠くから聞こえた。


もうすぐだ。


行かなきゃいけない。


「ねえ」


今度は、あなたが言った。


私は、やっと、あなたを見ることができた。


「雨ってさ」


少し照れたみたいに、視線を外して、続ける。


「止む時、急に止まるんじゃなくて、

少しずつ、音が減っていくんだって」


「……うん」


「だからさ」


あなたは、ほんの一瞬だけ、笑った。


「今日が終わりでも、気持ちは、いきなり終わらないよ」


その瞬間。


胸の奥に溜まっていたものが、雨みたいに、静かに溢れた。


バスが、目の前に止まった。


ドアが開く音が、やけに大きく響く。


「行ってきます」


そう言うと、あなたは小さくうなずいた。


「いってらっしゃい」


私は一歩、踏み出してから、振り返った。


雨の向こうで、あなたはまだ、傘もささずに立っていた。


その姿が、少しずつ滲んでいく。


――ああ。


雨の止み方を、私は知らなかった。


でも。


この気持ちは、きっと、音を立てずに、ちゃんと続いていく。


ーー第2章「濡れたままの場所で、君を見送った」


バスのドアが閉まる音は、思っていたより、軽かった。


重たい音がするものだと思っていた。

終わりとか、別れとか、そういう言葉に似た音が。


でも実際は、ただの、よくあるドアの音だった。


君は、窓際の席に座って、こっちを見ていた。


傘を差していない僕のことを、少し困った顔で見て、

それから、いつものみたいに、少しだけ笑った。


その笑い方が、胸に残る。


発車のウインカーが、雨の中で瞬いた。


赤く、静かに。


君の乗ったバスは、ゆっくり動き出す。


僕は、手を振らなかった。


振ったら、君が降りてきてしまいそうな気がしたからだ。


そんなわけないのに。


君はもう、切符も、行き先も、全部持っているのに。


それでも。


バスの後ろ姿が、雨の向こうに溶けていくまで、

僕は、ただ立っていた。


傘をささないまま。


 


正直に言えば。


引き止める言葉は、いくらでも浮かんでいた。


「まだここにいてもいい」とか、

「また一緒にごはん行こう」とか、

「寂しくなる」とか。


どれも、本当だった。


でも、その全部が、君の足を少しだけ重くする言葉だって、わかっていた。


だから僕は、


「無理に約束しなくていいよ」


なんて、いちばん優しくて、いちばんずるい言葉を選んだ。


 


君が言った、


「ここで、幸せだったんだよ」


あの一言が、まだ胸の奥で鳴っている。


嬉しかった。


本当に、嬉しかった。


同時に、少しだけ怖かった。


だって、それはもう、過去の形をした言葉だったから。


 


雨は、まだ降っている。


さっきよりも、ほんの少しだけ、弱くなった気がする。


アスファルトに落ちる音が、細くなっている。


君に言った通りだ。


雨は、急に止まらない。


減っていく。


静かに、気づかれないくらいの速さで。


 


君はきっと、もう前を向いている。


新しい部屋で、

新しい道で、

新しい名前で呼ばれる毎日を、ちゃんと歩くんだろう。


それが、少し眩しい。


少しだけ、遠い。


 


僕は、この場所に残る。


君が立っていた場所の、すぐ隣に。


屋根の下の、ほんの狭い影の中で。


 


「帰りたいって思った時に、帰ってくればいい」


あれは、君のために言った言葉だったけれど、

本当は、僕自身に言い聞かせていたのかもしれない。


帰りたい、と思う場所に。


誰かがいる場所に。


思い出じゃなくて、今として残っている場所に。


 


君は、振り返った。


最後に、一度だけ。


その瞬間、僕の中で、何かがほどけた。


ちゃんと、見送れた。


そう思えた。


 


濡れた前髪が、目にかかる。


拭わない。


今日は、濡れていていい日だ。


 


君がいなくなったこのロータリーで、

僕は、少し遅れて気づく。


ああ。


終わったんじゃない。


減っていってるだけなんだ。


音が、小さくなっているだけなんだ。


 


君のいない雨の中で、僕は、まだ立っている。


そしてたぶん。


君の気持ちと同じ速さで、

この場所の雨も、静かに、静かに、止んでいく。


ーー第3章「雨の音が消えたあとで」


バスが大きく揺れて、窓の外の景色が、少しだけ遠くなった。


さっきまで、あんなに近くにあったロータリーは、

もう、名前のない風景みたいに流れていく。


窓に残った雨粒が、細い線になって下へ落ちた。


私の代わりに、泣いてくれているみたいで、

それが、少しだけ、可笑しかった。


 


席に深く座り直して、

バッグの中から、スマホを取り出す。


画面は、まだ暗い。


誰からの通知もない。


当たり前だ。


さっき別れたばかりの人に、

今すぐ何かを期待するほど、

私は、子どもじゃない。


それでも、つい、指で画面をなぞってしまう。


何も起きない。


 


バスの中は、静かだった。


眠っている人。

イヤホンをつけている人。

窓の外だけを見ている人。


みんな、それぞれの「これから」を抱えて、

何事もなかったみたいな顔をしている。


私だけが、

たった今までの時間を、

まだ胸の奥であたためているみたいだった。


 


「……減っていくんだよ」


あなたの声が、

不意に、耳の奥でよみがえった。


雨は、急に止まらない。


音が、

少しずつ、小さくなる。


 


その通りだった。


バスの屋根を叩いていた雨音は、

気づけば、もう聞こえなくなっている。


代わりに、

エンジンの低い音と、

タイヤが濡れた道を切る音だけが残った。


 


終わった、と思うより先に、


静かになった。


ただ、それだけだった。


 


私は、そっと目を閉じる。


あなたが立っていた場所。

傘をささずに、少し照れた顔で空を見ていた横顔。

「いってらっしゃい」と言う声。


思い出にしようとしなくても、

勝手に浮かんでくる。


無理にしまい込まなくても、

ちゃんと、ここにある。


 


怖かったのは、


離れることじゃなくて、


この気持ちまで、

どこかに置いてきてしまうことだったのかもしれない。


 


でも、今ならわかる。


置いてきてない。


ちゃんと、連れてきている。


この胸の中に。


 


次に降りるバス停のアナウンスが、

少しだけ大きく聞こえた。


新しい街の名前。


まだ、しっくりこない響き。


 


ここで、私は降りる。


新しい部屋へ行って、

新しい道を覚えて、

新しい生活に、ちゃんと慣れていく。


きっと、

少し疲れて、

少し迷って、

それでも、前に進んでいく。


 


そして、


ふとした瞬間に、

思い出すんだと思う。


あの雨の音を。

あのロータリーの匂いを。

傘をささないあなたの背中を。


 


バスが、ゆっくりと減速する。


私は立ち上がって、

小さく息を吸った。


 


「……行ってきます」


誰に聞かせるでもなく、

口の中で、もう一度だけ言う。


 


ドアが開いた。


外は、もう、雨じゃなかった。


濡れた地面が、

街の光を、静かに映している。


 


――ああ。


雨は、ちゃんと止んでいた。


気づかないうちに。


 


でも。


音が消えたあとも、

胸の奥には、まだ、あの静かな余韻が残っている。


それは、きっと、


終わりじゃなくて、


続きのかたちをした、


私の、ひとつの居場所だった。


ーー第4章「雨の匂いが、戻る場所」


ロータリーから、人の気配が消えていた。


さっきまで、確かにバスがいて、

君がいて、

雨が降っていたのに。


今はただ、濡れた地面が、白い街灯をぼんやり映しているだけだ。


雨は、もう完全に止んでいた。


 


僕は、ようやく屋根の下から一歩、外に出る。


アスファルトはまだ冷たくて、

靴の裏に、少しだけ水が残る。


君が立っていた場所。


ほんの半歩、ずれたところに、僕は立つ。


意味なんて、ないのに。


 


さっきまでの音が、

急に遠い。


バスのエンジン音も、

君の声も、

雨の粒が弾く音も。


全部、同じ方向へ流れていってしまったみたいだった。


 


……でも。


不思議と、空っぽじゃなかった。


 


「減っていくだけなんだ」


自分で言った言葉を、

もう一度、胸の中でなぞる。


終わった、よりも先に、

静かになっただけ。


それが、こんなに正確な言い方だったなんて、

あの時は知らなかった。


 


ポケットの中で、スマホが少し重たい。


取り出さない。


画面も見ない。


今ここで、誰かと繋がらなくてもいい気がした。


 


君は今、どこを見ているんだろう。


窓の外か。

自分の足元か。

それとも、もう、全然違う景色か。


 


想像しても、わからない。


でも、それでいい。


わからない場所へ行くために、

君は、あのバスに乗ったんだから。


 


風が、少し吹いた。


濡れた地面から、

かすかに、雨の匂いが立ち上る。


さっきまでの匂いとは、違う。


重たい雨じゃなくて、

もう終わったあとに残る、軽い匂い。


 


ああ、と思う。


これだ。


 


僕が好きだったのは、

雨そのものじゃなくて、

たぶん――


こうやって、

雨が通り過ぎたあとに残る空気だった。


 


君がいなくなった場所で、

君の話を考えている自分が、少し可笑しい。


それでも、


君がいた時間は、

ちゃんと、この場所に残っている。


地面に、

光に、

匂いに。


そして、たぶん、僕の歩き方にも。


 


「帰りたいって思った時に、帰ってくればいい」


あの言葉を、

今度は、ちゃんと自分の中で言い直す。


 


君に、じゃなくて。


未来の、

どこかで立ち止まっているかもしれない、

自分に向かって。


 


帰れる場所は、

最初から用意されているものじゃなくて、


こうやって、

誰かと立った場所に、

あとから、静かに生まれるんだと思う。


 


僕は、深く息を吸って、吐いた。


胸の奥に残っていた湿り気が、

少しだけ薄くなる。


 


大丈夫だ。


まだ、ここに立っている。


そしてきっと、


君も、

今、どこかで立っている。


 


同じ雨のあとを、

別々の場所で踏みしめながら。


 


ロータリーを離れる前に、

もう一度だけ振り返る。


 


誰もいない。


傘もない。


でも、


あの時間だけが、

静かに、ちゃんと、残っている。


 


雨の音は、もう聞こえない。


それでも。


またいつか、

この匂いに似た空気の中で、


思い出じゃなく、

「今」として、


君の名前を呼べる日が来る気がしていた。


理由なんてない。


ただ、


雨が止んだあとの空は、

少しだけ、遠くまで見えるからだ。


ーー第5章「知らない街で、雨の名前を覚える」


新しい部屋は、思っていたより静かだった。


壁が白くて、

窓が少しだけ高くて、

まだ、私の匂いがしない。


床に置いたままの段ボールを避けながら、

カーテンを開ける。


夕方の光が、細く部屋に入ってきた。


――ちゃんと、来たんだ。


ふと、そんな当たり前のことを思う。


 


駅から歩いて十分。


不動産屋さんに教えてもらった近道は、

少しだけ細くて、

少しだけ心細い道だった。


でも、その道を通らないと、

この部屋には帰れない。


それが、なんだか今の自分みたいで、

少しだけ、可笑しかった。


 


スマホが、机の上で震える。


母からだった。


「着いた?」


短いメッセージ。


「着いたよ」


それだけ返して、

画面を伏せる。


心配してくれる人は、ちゃんといる。


それなのに、

胸の奥の、ほんの小さな場所だけが、

まだ、あのロータリーのままだった。


 


夜になって、

ようやく段ボールを一つだけ開ける。


一番上に入っていたのは、

マグカップ。


前の部屋で使っていた、

欠けた縁のやつ。


引っ越しのために買った、新しい食器よりも、

先に目に入ってしまった。


 


……連れてきてる。


ちゃんと。


 


お湯を沸かして、

インスタントのスープを作る。


味は、正直よくわからなかった。


空腹のせいか、

慣れないキッチンのせいか、

それとも、気持ちのせいか。


 


窓の外で、

遠くの車の音が流れていく。


知らない音ばかり。


知らないリズム。


この街は、

私の歩幅を、まだ知らない。


 


カーテンを閉めようとして、

ふと、立ち止まる。


外が、少しだけ暗くなっていた。


街灯の下で、

アスファルトが、

うっすら光っている。


 


……あ。


 


雨だ。


いつの間にか、

ほんの少しだけ、降っていたらしい。


音は、ほとんどしない。


窓に当たる気配もない。


ただ、

濡れた地面の色だけが、

静かに変わっている。


 


私は、思わず息を止めた。


 


あの匂いだ。


 


重たい雨じゃなくて、

通り過ぎたあとの、

軽い匂い。


 


胸の奥で、

なにかが、ふっとほどける。


 


「……減っていくんだよ」


 


あの声が、

勝手に、浮かんだ。


 


ここは、あのロータリーじゃない。


あなたも、いない。


傘をささない人も、

空を見上げる横顔もない。


 


それなのに。


 


雨のあとの空気は、

ちゃんと、同じだった。


 


私は、窓ガラスにそっと手を当てる。


冷たい。


知らない街の冷たさ。


でも、不思議と、嫌じゃなかった。


 


思い出は、

過去に置いてくるものだと思っていた。


でも、本当は、

こうやって、


似た匂いとか、

似た光とか、

似た静けさに出会うたびに、


少しずつ、今の中へ混ざっていくんだと思う。


 


忘れない代わりに、

縛られない形で。


 


新しい場所で、

新しい生活を始めるって、


きっと、

全部を塗り替えることじゃない。


 


残したまま、増やしていくことなんだ。


 


窓の外で、

誰かが小さく笑った声がした。


通り過ぎるだけの、

知らない誰かの声。


 


私は、カーテンを少しだけ開けたまま、

部屋の真ん中に立つ。


 


……ねえ。


 


心の中で、

あなたに向かって呼びかけてみる。


返事なんて、もちろんない。


 


それでも、


 


大丈夫だよ。


 


そう言える気がした。


あなたに、じゃなくて。


この街で、

これからの毎日を生きていく、

自分に向かって。


 


雨は、

もう、止んでいる。


 


でも私は、


この街で、

雨の名前を、

ひとつ覚えた気がした。


 


音じゃなくて。


匂いでわかる雨。


ーー第6章「届かなかった声が、名前になるまで」


夜の音にも、少しだけ慣れてきた。


この街は、思ったより早く眠らない。

遠くの車の音と、

どこかの部屋から漏れるテレビの声と、

自分の足音が、

同じ大きさで並んでいる。


私は、コンビニの袋をぶら下げて、

ゆっくり歩いていた。


近道だと教えてもらった細い道。


昼間よりも、少しだけ長く感じる。


 


ふと、ポケットの中でスマホが重くなる。


振動は、ない。


通知も、ない。


それなのに、

そこにあることだけが、はっきりわかる。


 


……変なの。


前の街にいた頃より、

あなたのことを考える時間は、

たぶん減っている。


仕事のこと。

部屋の片付け。

覚えなきゃいけない道。

覚えなきゃいけない名前。


毎日は、ちゃんと新しくて、

私は、ちゃんと忙しい。


 


それでも、


思い出すときは、

決まって、音じゃなくて匂いだった。


 


雨のあと。


濡れたアスファルトが、

少しだけ温くなって、

空気がやわらかくなる、あの感じ。


 


立ち止まって、深く息を吸う。


 


……やっぱり。


 


今日も、

ほんのわずかに、

あの匂いがしていた。


 


この街にも、

同じ雨が降る。


当たり前のことなのに、

それが、少しだけ嬉しかった。


 


帰って、

部屋の電気をつける。


白い壁に、

私の影がひとつ浮かぶ。


 


段ボールは、

まだ半分も片付いていない。


それでも、

床に座る場所と、

マグカップを置く机だけは、

もう、ちゃんと私の場所だった。


 


お湯を沸かして、

何も考えずに、カップを両手で包む。


 


熱い。


 


それだけで、

少し現実に戻れる。


 


……ねえ。


 


声に出さずに、

あなたの名前を、心の中で呼ぶ。


呼び方は、前と同じ。


変えていない。


変える理由も、ない。


 


返事は、ない。


わかってる。


 


それなのに、

呼ぶときだけ、

胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。


 


思い出だから、じゃない。


未練だから、でもない。


 


たぶんこれは、

まだ、名前がついていない感情だった。


 


好き、とも、

さよなら、とも、

またね、とも、

まだ言えないままの、気持ち。


 


私は、スマホを手に取る。


画面を開く。


連絡先の一覧を、

下へ、下へ、ゆっくり送る。


 


――あった。


 


指が止まる。


名前を見るだけで、

心臓が、少しだけ早くなる。


それは、前と変わらない。


 


トーク画面を開く。


最後のやり取りは、

引っ越しの前の日。


短いスタンプと、

「気をつけて」の一言。


 


そこから、

何も増えていない。


 


私は、入力欄を見つめる。


 


何を書けばいいんだろう。


 


「元気?」

「こっちは雨だった」

「部屋、まだ片付かない」


 


どれも、

間違いじゃないのに、

どれも、

今の気持ちそのままじゃない。


 


伝えたいのは、


たぶん、ひとつだけなのに。


 


……でも。


 


それを言葉にした瞬間、

何かが変わってしまいそうで、

少し怖かった。


 


私は、いったん画面を閉じる。


スマホを机に伏せる。


 


大丈夫。


急がなくていい。


 


あなたが言っていた。


雨は、急に止まらない。


気持ちも、たぶん、同じだ。


 


少しずつ、

音が減っていって、

形が変わっていって、


そのうち、

ちゃんと呼べる名前になる。


 


ベランダに出る。


夜の空は、黒くて、

星は、ほとんど見えない。


 


下を見ると、

街灯の下で、

地面が、かすかに光っていた。


 


また、ほんの少しだけ、

降ったらしい。


 


音は、もう、ない。


 


私は、手すりに指先を置く。


冷たい。


でも、

あの日のロータリーより、

少しだけ、やさしい冷たさだった。


 


知らない街で、

知らない生活をして、

知らない自分になりながら、


それでも、

消えないものがある。


 


それは、

過去でもなく、

未来でもなく、


今の私の中に、

静かに残っているもの。


 


部屋に戻って、

もう一度だけ、

スマホを手に取る。


 


トーク画面を開いて、


 


――入力する。


 


でも、まだ、送らない。


 


画面に並んだ短い一文を、

そっと見つめたまま、


私は、深く息を吸った。


 


たぶん。


 


この気持ちは、


もう少しで、

ちゃんとした名前になる。


 


雨の匂いみたいに。


気づいたときには、

もう、そこにあって、


振り返らなくても、

前を向いたままでも、


同じように、

胸の中に残るものになる。


 


もうすぐで、

その名前を呼べる気がしていた。


 


まだ、少しだけ、


時間が、必要なだけだ。


ーー最終章「雨の名前を、ふたりで呼ぶ日」


送信ボタンは、思っていたより近くにあった。


指を伸ばせば、すぐ届く距離に。


それでも私は、ほんの一拍だけ、息を止める。


そして――


画面を、そっと押した。


 


送ったのは、短い一文だった。


「今日、こっちも雨のあとだったよ」


それだけ。


近況も、

寂しさも、

会いたいも、

何ひとつ書かなかった。


でも、それでよかった。


 


スマホを伏せて、

ベッドに腰を下ろす。


胸の奥が、少しだけ、軽い。


名前を持たなかった気持ちが、

やっと外に出て、

空気に触れた気がした。


 


……返事なんて、

すぐじゃなくていい。


 


そう思った、そのとき。


 


スマホが、震えた。


 


一瞬、音が消えたみたいに感じた。


心臓の音だけが、

やけに大きい。


 


画面を、恐る恐る見る。


 


「こっちも、さっき少しだけ降った」


 


その下に、続けて。


 


「雨のあとって、匂いがいいよね」


 


……あ。


 


胸の奥で、

なにかが、きれいにほどけた。


 


同じだった。


今も。


同じ場所じゃなくても、

同じ時間じゃなくても、


同じ雨のあとを、

ちゃんと生きていた。


 


私は、思わず笑ってしまう。


小さく。


声が出ないくらいの笑い方で。


 


すぐに、返す。


 


「うん。

音じゃなくて、匂いでわかる雨」


 


少しして、また震える。


 


「それ、覚えてたんだ」


 


――覚えてるに、決まってる。


 


あの日から、

私の中で、

雨はずっと、その呼び方だった。


 


やり取りは、

不思議なくらい、自然に続いた。


仕事の話。

部屋がまだ片付かない話。

近道だと思った道が、

実は遠回りだった話。


 


特別な言葉は、なかった。


でも、

空白が怖くならない会話だった。


 


そして、しばらくして。


 


画面に、ひとつのメッセージが表示された。


 


「今度さ」


 


次の行が、少し遅れて届く。


 


「雨の匂いがする日に、会わない?」


 


私は、スマホを持ったまま、

しばらく動けなかった。


 


――ずるい。


そんな誘い方。


 


場所も、

日付も、

まだ何も決まっていないのに。


 


それでも、ちゃんとわかる。


これは、


「戻っておいで」でもなくて、

「待ってる」でもなくて、


ただ、


今の私と、

今のあなたが、


同じ場所で、

同じ空気を吸おう、というだけの約束だった。


 


私は、すぐに打つ。


 


「うん」


 


たった、それだけ。


 


 


数日後。


 


待ち合わせは、

駅前の小さな広場だった。


あのロータリーじゃない。

知らない街でもない。


ふたりにとって、

ちょうど真ん中みたいな場所。


 


天気予報は、

午後から小雨。


 


私は、少し早めに着いて、

屋根の下で立っていた。


 


……あ。


 


遠くから、

見慣れた歩き方が見えた。


傘をさしていないところまで、

まったく同じで。


 


目が合った瞬間、


どちらからともなく、

小さく笑った。


 


「久しぶり」


 


声を聞いて、

胸の奥が、静かに鳴る。


 


「……久しぶり」


 


近づくと、

ほんのり、雨の匂いがした。


あの匂い。


 


「やっぱり、降ったね」


私が言うと、


あなたは、

少しだけ照れたみたいに空を見る。


 


「うん。さっきまで」


 


それから、間が空く。


気まずさじゃない。

ただ、

同じ時間を、思い出している沈黙。


 


ぽつ、と。


 


雨が、落ちてきた。


 


「ね」


私が言う。


 


「音、ほとんどしないね」


 


「うん」


 


「でもさ」


 


あなたは、少し考えてから、


 


「わかる」


 


それだけで、

十分だった。


 


屋根の外で、

アスファルトの色が、

ゆっくり濃くなっていく。


 


私は、隣に立つあなたを見て、

小さく息を吸う。


 


……今なら、言える。


 


「ねえ」


 


あなたが、こっちを見る。


 


「この気持ちね」


 


胸に手を当てて、

言葉を探す。


 


「ずっと、名前がなかったんだけど」


 


少しだけ、笑って、


 


「やっと、わかった」


 


あなたは、急かさない。


あの日と同じ目で、

ちゃんと待ってくれる。


 


私は、静かに言った。


 


「好き、だよ」


 


過去形じゃなくて。

思い出でもなくて。


 


今の形のまま。


 


あなたは、

一瞬だけ驚いた顔をして、


それから、

とても、やさしく笑った。


 


「……うん」


 


そして、


 


「俺も」


 


それだけだった。


 


雨は、

ほんの短い間だけ降って、


気づかないうちに、

もう、止み始めていた。


 


音が減って、

匂いだけが残る。


 


私は、空を見上げる。


 


「あ」


 


「まただね」


 


「うん」


 


並んで立ったまま、

同じ匂いの中で、


同じ静けさを感じる。


 


思い出にしなくてもいい時間。


今として、

ちゃんとここにある時間。


 


私は、そっと言う。


 


「雨の名前」


 


あなたが、少し首をかしげる。


 


「うん?」


 


私は、笑って答えた。


 


「音じゃなくて、匂いでわかる雨」


 


少し間があって、


 


「……それ、いい名前だね」


 


そう言って、

あなたは、私の方を見た。


 


その目は、

あの日のロータリーより、

ずっと近くて、


ずっと、あたたかかった。


 


 


雨は、もう止んでいる。


 


でも、


 


私たちは知っている。


 


気持ちは、

急に終わらない。


 


少しずつ、

音を減らして、


形を変えて、


そして――


 


ちゃんと、

名前になる。


 


今、この場所で。


 


ふたりで呼べる名前に。

この物語を、ここまで読んでくれて、ありがとうございました。


書き終えていちばん強く残っているのは、

「別れ」と「再会」のどちらでもない、

そのあいだに流れていた時間のことです。


連絡しなかった日々。

言葉にしなかった気持ち。

忘れようともしなかったし、

しがみつこうともしなかった感情。


この物語のふたりは、

離れている間、何かを劇的に乗り越えたわけでも、

大きく変わったわけでもありません。


ただそれぞれの場所で、

ちゃんと生活をして、

ちゃんと疲れて、

ちゃんと前を向いて、

それでも胸の奥に残っていたものを、

消さずに持ち続けていただけです。


そしてそれは、

「忘れられなかったから」ではなく、

「忘れる必要がなかったから」だったのだと思います。


気持ちは、

終わるか、続くか、ではなくて、

減っていったり、薄くなったり、形を変えたりしながら、

静かに生き残っていくものなのかもしれません。


音が消えたあとに、

匂いだけが残るように。


この物語で描きたかったのは、

恋が終わった話ではなく、

恋が“思い出になる前”の、

とても長くて、やさしい途中の時間です。


もしあなたにも、

もう会わないかもしれない誰かや、

名前をつけられないまま残っている気持ちがあるなら。


それは、

未練でも、過去でもなく、

あなたがちゃんと生きてきた証なのだと、

この物語が伝えられていたら嬉しいです。


音じゃなくて、

匂いでわかる雨みたいに。


気づいたときにはもう、

静かに、あなたの中に残っているものとして。

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