雨 〜音と匂い〜
この物語は、
大きな出来事も、劇的な奇跡も、描いていません。
描いているのは、
言わなかった言葉と、
送りそびれたメッセージと、
雨が止んだあとの、ほんの短い静けさです。
人は、別れた瞬間にすべてを失うわけでも、
再会した瞬間にすべてを取り戻すわけでもありません。
気持ちはいつも、
もっとゆっくりで、
もっと静かで、
音を立てずに形を変えていきます。
この物語に出てくるふたりも、
終わりと始まりの間にある、
とても曖昧で、でも確かな時間を、
それぞれの場所で生きています。
もしあなたにも、
雨が降ったあとにだけ思い出す人や、
匂いだけでよみがえる時間があるなら。
この物語は、
きっとその感情に、
そっと寄り添えるはずです。
――
音じゃなくて、匂いでわかる雨のように。
ーー第1章「雨の止み方を、私は知らなかった」
雨は、ずっと同じ音で降っていると思っていた。
駅前のロータリーで、私は小さな屋根の下に立ったまま、スマホの画面を消して、濡れたアスファルトを見ていた。
今日で、この街を出る。
それだけのことなのに、足はまったく動かなかった。
傘は持っている。
切符も、バッグの中にある。
家も、仕事も、次の住む場所も、全部決まっている。
なのに。
「……やっぱ、降ってるね」
後ろから、聞き覚えのある声がした。
振り向かなくても、誰だかわかった。
「雨女だから」
私は、少しだけ笑って言った。
「最後の日くらい、晴れてほしかったな」
あなたは、私の隣に立った。
相変わらず、傘をささない人だった。
「雨のほうが、いいよ」
そう言って、あなたは空を見上げた。
「思い出になるから」
その言葉に、胸の奥が、ぎゅっと音を立てた。
思い出にしなきゃいけない、という言い方が、あまりにも静かで、やさしくて。
「……ねえ」
私は、ずっと言えなかった言葉を、雨音に紛れさせるように、小さく落とした。
「私、ここに戻ってきたらさ……」
そこまで言って、止まった。
言葉は、形にした瞬間、もう戻れなくなる気がした。
あなたは、私の方を見ずに、ただ前を向いたまま言った。
「無理に約束しなくていいよ」
その声は、少しだけ、濡れていた。
「帰りたいって思った時に、帰ってくればいい」
雨が、強くなった。
アスファルトに落ちる音が、さっきより近くに感じる。
私は、ぎゅっと傘の柄を握った。
「……私さ」
喉が震える。
「ここで、幸せだったんだよ」
初めて、ちゃんとした声で言えた。
あなたは、その言葉を受け取るみたいに、ゆっくり息を吐いた。
「知ってる」
たったそれだけなのに、どうしてこんなに、救われるんだろう。
バスのエンジン音が、遠くから聞こえた。
もうすぐだ。
行かなきゃいけない。
「ねえ」
今度は、あなたが言った。
私は、やっと、あなたを見ることができた。
「雨ってさ」
少し照れたみたいに、視線を外して、続ける。
「止む時、急に止まるんじゃなくて、
少しずつ、音が減っていくんだって」
「……うん」
「だからさ」
あなたは、ほんの一瞬だけ、笑った。
「今日が終わりでも、気持ちは、いきなり終わらないよ」
その瞬間。
胸の奥に溜まっていたものが、雨みたいに、静かに溢れた。
バスが、目の前に止まった。
ドアが開く音が、やけに大きく響く。
「行ってきます」
そう言うと、あなたは小さくうなずいた。
「いってらっしゃい」
私は一歩、踏み出してから、振り返った。
雨の向こうで、あなたはまだ、傘もささずに立っていた。
その姿が、少しずつ滲んでいく。
――ああ。
雨の止み方を、私は知らなかった。
でも。
この気持ちは、きっと、音を立てずに、ちゃんと続いていく。
ーー第2章「濡れたままの場所で、君を見送った」
バスのドアが閉まる音は、思っていたより、軽かった。
重たい音がするものだと思っていた。
終わりとか、別れとか、そういう言葉に似た音が。
でも実際は、ただの、よくあるドアの音だった。
君は、窓際の席に座って、こっちを見ていた。
傘を差していない僕のことを、少し困った顔で見て、
それから、いつものみたいに、少しだけ笑った。
その笑い方が、胸に残る。
発車のウインカーが、雨の中で瞬いた。
赤く、静かに。
君の乗ったバスは、ゆっくり動き出す。
僕は、手を振らなかった。
振ったら、君が降りてきてしまいそうな気がしたからだ。
そんなわけないのに。
君はもう、切符も、行き先も、全部持っているのに。
それでも。
バスの後ろ姿が、雨の向こうに溶けていくまで、
僕は、ただ立っていた。
傘をささないまま。
正直に言えば。
引き止める言葉は、いくらでも浮かんでいた。
「まだここにいてもいい」とか、
「また一緒にごはん行こう」とか、
「寂しくなる」とか。
どれも、本当だった。
でも、その全部が、君の足を少しだけ重くする言葉だって、わかっていた。
だから僕は、
「無理に約束しなくていいよ」
なんて、いちばん優しくて、いちばんずるい言葉を選んだ。
君が言った、
「ここで、幸せだったんだよ」
あの一言が、まだ胸の奥で鳴っている。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
同時に、少しだけ怖かった。
だって、それはもう、過去の形をした言葉だったから。
雨は、まだ降っている。
さっきよりも、ほんの少しだけ、弱くなった気がする。
アスファルトに落ちる音が、細くなっている。
君に言った通りだ。
雨は、急に止まらない。
減っていく。
静かに、気づかれないくらいの速さで。
君はきっと、もう前を向いている。
新しい部屋で、
新しい道で、
新しい名前で呼ばれる毎日を、ちゃんと歩くんだろう。
それが、少し眩しい。
少しだけ、遠い。
僕は、この場所に残る。
君が立っていた場所の、すぐ隣に。
屋根の下の、ほんの狭い影の中で。
「帰りたいって思った時に、帰ってくればいい」
あれは、君のために言った言葉だったけれど、
本当は、僕自身に言い聞かせていたのかもしれない。
帰りたい、と思う場所に。
誰かがいる場所に。
思い出じゃなくて、今として残っている場所に。
君は、振り返った。
最後に、一度だけ。
その瞬間、僕の中で、何かがほどけた。
ちゃんと、見送れた。
そう思えた。
濡れた前髪が、目にかかる。
拭わない。
今日は、濡れていていい日だ。
君がいなくなったこのロータリーで、
僕は、少し遅れて気づく。
ああ。
終わったんじゃない。
減っていってるだけなんだ。
音が、小さくなっているだけなんだ。
君のいない雨の中で、僕は、まだ立っている。
そしてたぶん。
君の気持ちと同じ速さで、
この場所の雨も、静かに、静かに、止んでいく。
ーー第3章「雨の音が消えたあとで」
バスが大きく揺れて、窓の外の景色が、少しだけ遠くなった。
さっきまで、あんなに近くにあったロータリーは、
もう、名前のない風景みたいに流れていく。
窓に残った雨粒が、細い線になって下へ落ちた。
私の代わりに、泣いてくれているみたいで、
それが、少しだけ、可笑しかった。
席に深く座り直して、
バッグの中から、スマホを取り出す。
画面は、まだ暗い。
誰からの通知もない。
当たり前だ。
さっき別れたばかりの人に、
今すぐ何かを期待するほど、
私は、子どもじゃない。
それでも、つい、指で画面をなぞってしまう。
何も起きない。
バスの中は、静かだった。
眠っている人。
イヤホンをつけている人。
窓の外だけを見ている人。
みんな、それぞれの「これから」を抱えて、
何事もなかったみたいな顔をしている。
私だけが、
たった今までの時間を、
まだ胸の奥であたためているみたいだった。
「……減っていくんだよ」
あなたの声が、
不意に、耳の奥でよみがえった。
雨は、急に止まらない。
音が、
少しずつ、小さくなる。
その通りだった。
バスの屋根を叩いていた雨音は、
気づけば、もう聞こえなくなっている。
代わりに、
エンジンの低い音と、
タイヤが濡れた道を切る音だけが残った。
終わった、と思うより先に、
静かになった。
ただ、それだけだった。
私は、そっと目を閉じる。
あなたが立っていた場所。
傘をささずに、少し照れた顔で空を見ていた横顔。
「いってらっしゃい」と言う声。
思い出にしようとしなくても、
勝手に浮かんでくる。
無理にしまい込まなくても、
ちゃんと、ここにある。
怖かったのは、
離れることじゃなくて、
この気持ちまで、
どこかに置いてきてしまうことだったのかもしれない。
でも、今ならわかる。
置いてきてない。
ちゃんと、連れてきている。
この胸の中に。
次に降りるバス停のアナウンスが、
少しだけ大きく聞こえた。
新しい街の名前。
まだ、しっくりこない響き。
ここで、私は降りる。
新しい部屋へ行って、
新しい道を覚えて、
新しい生活に、ちゃんと慣れていく。
きっと、
少し疲れて、
少し迷って、
それでも、前に進んでいく。
そして、
ふとした瞬間に、
思い出すんだと思う。
あの雨の音を。
あのロータリーの匂いを。
傘をささないあなたの背中を。
バスが、ゆっくりと減速する。
私は立ち上がって、
小さく息を吸った。
「……行ってきます」
誰に聞かせるでもなく、
口の中で、もう一度だけ言う。
ドアが開いた。
外は、もう、雨じゃなかった。
濡れた地面が、
街の光を、静かに映している。
――ああ。
雨は、ちゃんと止んでいた。
気づかないうちに。
でも。
音が消えたあとも、
胸の奥には、まだ、あの静かな余韻が残っている。
それは、きっと、
終わりじゃなくて、
続きのかたちをした、
私の、ひとつの居場所だった。
ーー第4章「雨の匂いが、戻る場所」
ロータリーから、人の気配が消えていた。
さっきまで、確かにバスがいて、
君がいて、
雨が降っていたのに。
今はただ、濡れた地面が、白い街灯をぼんやり映しているだけだ。
雨は、もう完全に止んでいた。
僕は、ようやく屋根の下から一歩、外に出る。
アスファルトはまだ冷たくて、
靴の裏に、少しだけ水が残る。
君が立っていた場所。
ほんの半歩、ずれたところに、僕は立つ。
意味なんて、ないのに。
さっきまでの音が、
急に遠い。
バスのエンジン音も、
君の声も、
雨の粒が弾く音も。
全部、同じ方向へ流れていってしまったみたいだった。
……でも。
不思議と、空っぽじゃなかった。
「減っていくだけなんだ」
自分で言った言葉を、
もう一度、胸の中でなぞる。
終わった、よりも先に、
静かになっただけ。
それが、こんなに正確な言い方だったなんて、
あの時は知らなかった。
ポケットの中で、スマホが少し重たい。
取り出さない。
画面も見ない。
今ここで、誰かと繋がらなくてもいい気がした。
君は今、どこを見ているんだろう。
窓の外か。
自分の足元か。
それとも、もう、全然違う景色か。
想像しても、わからない。
でも、それでいい。
わからない場所へ行くために、
君は、あのバスに乗ったんだから。
風が、少し吹いた。
濡れた地面から、
かすかに、雨の匂いが立ち上る。
さっきまでの匂いとは、違う。
重たい雨じゃなくて、
もう終わったあとに残る、軽い匂い。
ああ、と思う。
これだ。
僕が好きだったのは、
雨そのものじゃなくて、
たぶん――
こうやって、
雨が通り過ぎたあとに残る空気だった。
君がいなくなった場所で、
君の話を考えている自分が、少し可笑しい。
それでも、
君がいた時間は、
ちゃんと、この場所に残っている。
地面に、
光に、
匂いに。
そして、たぶん、僕の歩き方にも。
「帰りたいって思った時に、帰ってくればいい」
あの言葉を、
今度は、ちゃんと自分の中で言い直す。
君に、じゃなくて。
未来の、
どこかで立ち止まっているかもしれない、
自分に向かって。
帰れる場所は、
最初から用意されているものじゃなくて、
こうやって、
誰かと立った場所に、
あとから、静かに生まれるんだと思う。
僕は、深く息を吸って、吐いた。
胸の奥に残っていた湿り気が、
少しだけ薄くなる。
大丈夫だ。
まだ、ここに立っている。
そしてきっと、
君も、
今、どこかで立っている。
同じ雨のあとを、
別々の場所で踏みしめながら。
ロータリーを離れる前に、
もう一度だけ振り返る。
誰もいない。
傘もない。
でも、
あの時間だけが、
静かに、ちゃんと、残っている。
雨の音は、もう聞こえない。
それでも。
またいつか、
この匂いに似た空気の中で、
思い出じゃなく、
「今」として、
君の名前を呼べる日が来る気がしていた。
理由なんてない。
ただ、
雨が止んだあとの空は、
少しだけ、遠くまで見えるからだ。
ーー第5章「知らない街で、雨の名前を覚える」
新しい部屋は、思っていたより静かだった。
壁が白くて、
窓が少しだけ高くて、
まだ、私の匂いがしない。
床に置いたままの段ボールを避けながら、
カーテンを開ける。
夕方の光が、細く部屋に入ってきた。
――ちゃんと、来たんだ。
ふと、そんな当たり前のことを思う。
駅から歩いて十分。
不動産屋さんに教えてもらった近道は、
少しだけ細くて、
少しだけ心細い道だった。
でも、その道を通らないと、
この部屋には帰れない。
それが、なんだか今の自分みたいで、
少しだけ、可笑しかった。
スマホが、机の上で震える。
母からだった。
「着いた?」
短いメッセージ。
「着いたよ」
それだけ返して、
画面を伏せる。
心配してくれる人は、ちゃんといる。
それなのに、
胸の奥の、ほんの小さな場所だけが、
まだ、あのロータリーのままだった。
夜になって、
ようやく段ボールを一つだけ開ける。
一番上に入っていたのは、
マグカップ。
前の部屋で使っていた、
欠けた縁のやつ。
引っ越しのために買った、新しい食器よりも、
先に目に入ってしまった。
……連れてきてる。
ちゃんと。
お湯を沸かして、
インスタントのスープを作る。
味は、正直よくわからなかった。
空腹のせいか、
慣れないキッチンのせいか、
それとも、気持ちのせいか。
窓の外で、
遠くの車の音が流れていく。
知らない音ばかり。
知らないリズム。
この街は、
私の歩幅を、まだ知らない。
カーテンを閉めようとして、
ふと、立ち止まる。
外が、少しだけ暗くなっていた。
街灯の下で、
アスファルトが、
うっすら光っている。
……あ。
雨だ。
いつの間にか、
ほんの少しだけ、降っていたらしい。
音は、ほとんどしない。
窓に当たる気配もない。
ただ、
濡れた地面の色だけが、
静かに変わっている。
私は、思わず息を止めた。
あの匂いだ。
重たい雨じゃなくて、
通り過ぎたあとの、
軽い匂い。
胸の奥で、
なにかが、ふっとほどける。
「……減っていくんだよ」
あの声が、
勝手に、浮かんだ。
ここは、あのロータリーじゃない。
あなたも、いない。
傘をささない人も、
空を見上げる横顔もない。
それなのに。
雨のあとの空気は、
ちゃんと、同じだった。
私は、窓ガラスにそっと手を当てる。
冷たい。
知らない街の冷たさ。
でも、不思議と、嫌じゃなかった。
思い出は、
過去に置いてくるものだと思っていた。
でも、本当は、
こうやって、
似た匂いとか、
似た光とか、
似た静けさに出会うたびに、
少しずつ、今の中へ混ざっていくんだと思う。
忘れない代わりに、
縛られない形で。
新しい場所で、
新しい生活を始めるって、
きっと、
全部を塗り替えることじゃない。
残したまま、増やしていくことなんだ。
窓の外で、
誰かが小さく笑った声がした。
通り過ぎるだけの、
知らない誰かの声。
私は、カーテンを少しだけ開けたまま、
部屋の真ん中に立つ。
……ねえ。
心の中で、
あなたに向かって呼びかけてみる。
返事なんて、もちろんない。
それでも、
大丈夫だよ。
そう言える気がした。
あなたに、じゃなくて。
この街で、
これからの毎日を生きていく、
自分に向かって。
雨は、
もう、止んでいる。
でも私は、
この街で、
雨の名前を、
ひとつ覚えた気がした。
音じゃなくて。
匂いでわかる雨。
ーー第6章「届かなかった声が、名前になるまで」
夜の音にも、少しだけ慣れてきた。
この街は、思ったより早く眠らない。
遠くの車の音と、
どこかの部屋から漏れるテレビの声と、
自分の足音が、
同じ大きさで並んでいる。
私は、コンビニの袋をぶら下げて、
ゆっくり歩いていた。
近道だと教えてもらった細い道。
昼間よりも、少しだけ長く感じる。
ふと、ポケットの中でスマホが重くなる。
振動は、ない。
通知も、ない。
それなのに、
そこにあることだけが、はっきりわかる。
……変なの。
前の街にいた頃より、
あなたのことを考える時間は、
たぶん減っている。
仕事のこと。
部屋の片付け。
覚えなきゃいけない道。
覚えなきゃいけない名前。
毎日は、ちゃんと新しくて、
私は、ちゃんと忙しい。
それでも、
思い出すときは、
決まって、音じゃなくて匂いだった。
雨のあと。
濡れたアスファルトが、
少しだけ温くなって、
空気がやわらかくなる、あの感じ。
立ち止まって、深く息を吸う。
……やっぱり。
今日も、
ほんのわずかに、
あの匂いがしていた。
この街にも、
同じ雨が降る。
当たり前のことなのに、
それが、少しだけ嬉しかった。
帰って、
部屋の電気をつける。
白い壁に、
私の影がひとつ浮かぶ。
段ボールは、
まだ半分も片付いていない。
それでも、
床に座る場所と、
マグカップを置く机だけは、
もう、ちゃんと私の場所だった。
お湯を沸かして、
何も考えずに、カップを両手で包む。
熱い。
それだけで、
少し現実に戻れる。
……ねえ。
声に出さずに、
あなたの名前を、心の中で呼ぶ。
呼び方は、前と同じ。
変えていない。
変える理由も、ない。
返事は、ない。
わかってる。
それなのに、
呼ぶときだけ、
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
思い出だから、じゃない。
未練だから、でもない。
たぶんこれは、
まだ、名前がついていない感情だった。
好き、とも、
さよなら、とも、
またね、とも、
まだ言えないままの、気持ち。
私は、スマホを手に取る。
画面を開く。
連絡先の一覧を、
下へ、下へ、ゆっくり送る。
――あった。
指が止まる。
名前を見るだけで、
心臓が、少しだけ早くなる。
それは、前と変わらない。
トーク画面を開く。
最後のやり取りは、
引っ越しの前の日。
短いスタンプと、
「気をつけて」の一言。
そこから、
何も増えていない。
私は、入力欄を見つめる。
何を書けばいいんだろう。
「元気?」
「こっちは雨だった」
「部屋、まだ片付かない」
どれも、
間違いじゃないのに、
どれも、
今の気持ちそのままじゃない。
伝えたいのは、
たぶん、ひとつだけなのに。
……でも。
それを言葉にした瞬間、
何かが変わってしまいそうで、
少し怖かった。
私は、いったん画面を閉じる。
スマホを机に伏せる。
大丈夫。
急がなくていい。
あなたが言っていた。
雨は、急に止まらない。
気持ちも、たぶん、同じだ。
少しずつ、
音が減っていって、
形が変わっていって、
そのうち、
ちゃんと呼べる名前になる。
ベランダに出る。
夜の空は、黒くて、
星は、ほとんど見えない。
下を見ると、
街灯の下で、
地面が、かすかに光っていた。
また、ほんの少しだけ、
降ったらしい。
音は、もう、ない。
私は、手すりに指先を置く。
冷たい。
でも、
あの日のロータリーより、
少しだけ、やさしい冷たさだった。
知らない街で、
知らない生活をして、
知らない自分になりながら、
それでも、
消えないものがある。
それは、
過去でもなく、
未来でもなく、
今の私の中に、
静かに残っているもの。
部屋に戻って、
もう一度だけ、
スマホを手に取る。
トーク画面を開いて、
――入力する。
でも、まだ、送らない。
画面に並んだ短い一文を、
そっと見つめたまま、
私は、深く息を吸った。
たぶん。
この気持ちは、
もう少しで、
ちゃんとした名前になる。
雨の匂いみたいに。
気づいたときには、
もう、そこにあって、
振り返らなくても、
前を向いたままでも、
同じように、
胸の中に残るものになる。
もうすぐで、
その名前を呼べる気がしていた。
まだ、少しだけ、
時間が、必要なだけだ。
ーー最終章「雨の名前を、ふたりで呼ぶ日」
送信ボタンは、思っていたより近くにあった。
指を伸ばせば、すぐ届く距離に。
それでも私は、ほんの一拍だけ、息を止める。
そして――
画面を、そっと押した。
送ったのは、短い一文だった。
「今日、こっちも雨のあとだったよ」
それだけ。
近況も、
寂しさも、
会いたいも、
何ひとつ書かなかった。
でも、それでよかった。
スマホを伏せて、
ベッドに腰を下ろす。
胸の奥が、少しだけ、軽い。
名前を持たなかった気持ちが、
やっと外に出て、
空気に触れた気がした。
……返事なんて、
すぐじゃなくていい。
そう思った、そのとき。
スマホが、震えた。
一瞬、音が消えたみたいに感じた。
心臓の音だけが、
やけに大きい。
画面を、恐る恐る見る。
「こっちも、さっき少しだけ降った」
その下に、続けて。
「雨のあとって、匂いがいいよね」
……あ。
胸の奥で、
なにかが、きれいにほどけた。
同じだった。
今も。
同じ場所じゃなくても、
同じ時間じゃなくても、
同じ雨のあとを、
ちゃんと生きていた。
私は、思わず笑ってしまう。
小さく。
声が出ないくらいの笑い方で。
すぐに、返す。
「うん。
音じゃなくて、匂いでわかる雨」
少しして、また震える。
「それ、覚えてたんだ」
――覚えてるに、決まってる。
あの日から、
私の中で、
雨はずっと、その呼び方だった。
やり取りは、
不思議なくらい、自然に続いた。
仕事の話。
部屋がまだ片付かない話。
近道だと思った道が、
実は遠回りだった話。
特別な言葉は、なかった。
でも、
空白が怖くならない会話だった。
そして、しばらくして。
画面に、ひとつのメッセージが表示された。
「今度さ」
次の行が、少し遅れて届く。
「雨の匂いがする日に、会わない?」
私は、スマホを持ったまま、
しばらく動けなかった。
――ずるい。
そんな誘い方。
場所も、
日付も、
まだ何も決まっていないのに。
それでも、ちゃんとわかる。
これは、
「戻っておいで」でもなくて、
「待ってる」でもなくて、
ただ、
今の私と、
今のあなたが、
同じ場所で、
同じ空気を吸おう、というだけの約束だった。
私は、すぐに打つ。
「うん」
たった、それだけ。
数日後。
待ち合わせは、
駅前の小さな広場だった。
あのロータリーじゃない。
知らない街でもない。
ふたりにとって、
ちょうど真ん中みたいな場所。
天気予報は、
午後から小雨。
私は、少し早めに着いて、
屋根の下で立っていた。
……あ。
遠くから、
見慣れた歩き方が見えた。
傘をさしていないところまで、
まったく同じで。
目が合った瞬間、
どちらからともなく、
小さく笑った。
「久しぶり」
声を聞いて、
胸の奥が、静かに鳴る。
「……久しぶり」
近づくと、
ほんのり、雨の匂いがした。
あの匂い。
「やっぱり、降ったね」
私が言うと、
あなたは、
少しだけ照れたみたいに空を見る。
「うん。さっきまで」
それから、間が空く。
気まずさじゃない。
ただ、
同じ時間を、思い出している沈黙。
ぽつ、と。
雨が、落ちてきた。
「ね」
私が言う。
「音、ほとんどしないね」
「うん」
「でもさ」
あなたは、少し考えてから、
「わかる」
それだけで、
十分だった。
屋根の外で、
アスファルトの色が、
ゆっくり濃くなっていく。
私は、隣に立つあなたを見て、
小さく息を吸う。
……今なら、言える。
「ねえ」
あなたが、こっちを見る。
「この気持ちね」
胸に手を当てて、
言葉を探す。
「ずっと、名前がなかったんだけど」
少しだけ、笑って、
「やっと、わかった」
あなたは、急かさない。
あの日と同じ目で、
ちゃんと待ってくれる。
私は、静かに言った。
「好き、だよ」
過去形じゃなくて。
思い出でもなくて。
今の形のまま。
あなたは、
一瞬だけ驚いた顔をして、
それから、
とても、やさしく笑った。
「……うん」
そして、
「俺も」
それだけだった。
雨は、
ほんの短い間だけ降って、
気づかないうちに、
もう、止み始めていた。
音が減って、
匂いだけが残る。
私は、空を見上げる。
「あ」
「まただね」
「うん」
並んで立ったまま、
同じ匂いの中で、
同じ静けさを感じる。
思い出にしなくてもいい時間。
今として、
ちゃんとここにある時間。
私は、そっと言う。
「雨の名前」
あなたが、少し首をかしげる。
「うん?」
私は、笑って答えた。
「音じゃなくて、匂いでわかる雨」
少し間があって、
「……それ、いい名前だね」
そう言って、
あなたは、私の方を見た。
その目は、
あの日のロータリーより、
ずっと近くて、
ずっと、あたたかかった。
雨は、もう止んでいる。
でも、
私たちは知っている。
気持ちは、
急に終わらない。
少しずつ、
音を減らして、
形を変えて、
そして――
ちゃんと、
名前になる。
今、この場所で。
ふたりで呼べる名前に。
この物語を、ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
書き終えていちばん強く残っているのは、
「別れ」と「再会」のどちらでもない、
そのあいだに流れていた時間のことです。
連絡しなかった日々。
言葉にしなかった気持ち。
忘れようともしなかったし、
しがみつこうともしなかった感情。
この物語のふたりは、
離れている間、何かを劇的に乗り越えたわけでも、
大きく変わったわけでもありません。
ただそれぞれの場所で、
ちゃんと生活をして、
ちゃんと疲れて、
ちゃんと前を向いて、
それでも胸の奥に残っていたものを、
消さずに持ち続けていただけです。
そしてそれは、
「忘れられなかったから」ではなく、
「忘れる必要がなかったから」だったのだと思います。
気持ちは、
終わるか、続くか、ではなくて、
減っていったり、薄くなったり、形を変えたりしながら、
静かに生き残っていくものなのかもしれません。
音が消えたあとに、
匂いだけが残るように。
この物語で描きたかったのは、
恋が終わった話ではなく、
恋が“思い出になる前”の、
とても長くて、やさしい途中の時間です。
もしあなたにも、
もう会わないかもしれない誰かや、
名前をつけられないまま残っている気持ちがあるなら。
それは、
未練でも、過去でもなく、
あなたがちゃんと生きてきた証なのだと、
この物語が伝えられていたら嬉しいです。
音じゃなくて、
匂いでわかる雨みたいに。
気づいたときにはもう、
静かに、あなたの中に残っているものとして。




