第七話:綺麗に消したいので
※本作は連作短編です。
どの話から読んでも成立します。
鉛筆で書いた線を消す際に、如何に紙を汚さず、力を込めずに消字できるか。目立たないながらも、とても重要なことだ。
文字を消すことができたとしても、擦ったところを汚してしまっては元も子もない。強く擦って、紙に皺ができてしまう、ましてや破けてしまうなど、彼女にとっては論外だ。
前世では各企業の開発努力によって、快適な消字体験を重ねてきた彼女は、スライムに転生した今でも、そのクオリティの消しゴムを求めずにはいられない。
スライムの体は、形状から硬さまで、自由自在に変化させることができる。消しゴムの代わりとしても使えるが、人間で言えば、指先で文字を消している感覚だ。
そのことに対して、何か思うところがあるのだろう。顔がなく、表情など読み取ることができないながらも、スライムの中でぐるんぐるんと回る粘度の高い液体の動きから、いくらか不満を感じることができる。
「文字を消すといったら、消しゴムよね。自分の体を消しゴム代わりにするの、ちょっと嫌だし。消しゴムって、ゴムってついてるから、ゴムでできてるのよね? うーん、ゴム、ねえ……。ゴムの木も、その樹液も、この国にはなさそうだし。代替品を探すところから、始めなきゃ」
口も声帯もないスライムは、周囲の空気を震わせながら独りごちた。
細い触手の先に鉛筆を持ち、くるくると動かしたあと、それを地下工房の真ん中にある作業台へ置く。つけペンとインク瓶、無地の紙束しかないそこは、僅かな汚れもなく、新品同様にも見える。
床をうごうごと滑り、作業台の前に辿り着くと、半液体の状態から固めの丸いゼリー状へ変わった。次に上部が伸びて円柱のような形へ変化し、いくつかの触手を器具棚と素材棚へ伸ばす。
彼女が暮らしている王国には、ゴムの木やそれに類する樹液を持つ木は自生していない。他国からの貿易品の中にも含まれていないと、事前の調査で判明している。
そのため、天然ゴムに頼ることはできず、使えそうな素材を片っ端から試していく他ない。
「消しゴムの作り方なんて、鉛筆の作り方以上に知らないのよね。鉛筆は炭素からできてるっていうのは知ってるけど……消しゴムって、ゴム以外だと何から作られているのかしら? ……いえ、考え方を変えなきゃ。えーっと、要するに弾力性があって、擦ると削れて、その時に……鉛筆で書いた文字を巻き取る? 浮かせる?」
人間が首を傾げる時のように、スライムの上部分が横へぐんにゃりと倒れる。二本の触手が腕組みを模しながら、彼女は思考整理をしているのだろう、ぽつぽつとこぼした。
作業台の上に、ゴムの樹液と近い性質を持つ素材を並べる。鉱石から樹液、果ては糸まで種類ごとに区分けされており、几帳面さが窺えた。
鉱石や金属類は砕いて粉末状にしたり、スライムの熱耐性が高い体と魔術を併用して即席の炉を作り、不純物を分離させつつ溶かしてから他の素材と混ぜ合わせる。
樹液や液体系の素材は、体を細かな網目状にして漉し器の代わりにしながら余計なものを取り除き使用することで、後々の再現性を担保した。
その他の素材は、各々の特性ごとに扱い方を変えつつ実験を進めたが、良い成果は得られなかった。しかし、スライムの動きは一定で、顔がないものの、動揺している様子は窺えない。
何十、何百にもおよぶ実験記録が、失敗と一部成功に分けて纏められ、紙の山を石床に形成した。それらの隙間を縫って移動する姿は、石畳の隙間を流れる水のようでもある。
疲労を感じないスライムの体を使い、彼女は昼も夜もなく、興味の赴くままに試作を重ねていく。その姿は、新しい玩具を与えられた子供のようにも感じた。
「んー……、あれもこれもって試してみたけど、鉱石系はほぼ全滅。樹液系単体もダメ。糸なんて論外。やっぱり簡単に作れっこないわよね。でも、成果はゼロじゃない……単体はダメでも、水棲花塊の外殻を砕いた粉を混ぜた樹液は、いくつか良い感じになったやつがあるし。ここをメインに攻めていこうかな」
水棲花塊は、海のあちこちに生息する、貝の一種だ。見た目が五枚の花弁を持つ花のようであることからそう呼ばれているが、漁師たちからは、可食部のない厄介ものとして嫌われている。
彼女もまた、「チョークの材料として使えるかも」と呟きながら素材棚に入れていただけなので、意外な形で日の目を見た、と言えるだろう。
特に良い反応を示したのは、特定条件を満たした場所にしか生えない続の木の樹液。この木の樹液は、僅かに粘性を持っている。その次は、カエデの木の樹液だが、スライムは小さく揺れたあと、そっとそれを調味料棚へと戻した。
「メープルシロップを消しゴムにするのは、ちょっとねえ。なんか、食べ物を粗末にしている気分になるし」
誰に聞かせるでもないのだろう。しかし、どこか言い訳するように、平坦ながらも早口で呟く。
実際に実験で使ったカエデの樹液──メープルシロップは、少量である。
二本の触手で実験記録を纏めながら、作業台の上に乗せた続の木の樹液と、水棲花塊の外殻の前で、スライムがぷるぷると揺れた。体の中で、粘度の高い液体がゆっくりと動いている。
やがて揺れが止まると、体から伸びた触手が、続の木の樹液百ミリリットルに対し、水棲花塊の外殻を砕いた粉末を、十ミリグラム単位で混ぜ合わせ始めた。
大きい単位から実験記録を取り、良い結果を示した割合の前後を次に試すことで、効率を上げようとしているのだろうと考えられる。
続の木の樹液百ミリリットルに対して、水棲花塊の外殻粉末三十ミリグラムと四十ミリグラムのものが、柔らかいゼリー状ながらも鉛筆で書いた文字を綺麗に消すことができた。
一往復でおおよそが消せて、紙を溶かしてしまうことも毛羽立たせることもない。
その結果に対して彼女が何かを呟くことはなかったが、スライムの体の端が、犬の尻尾のように揺れる。
「次は消字力の維持をしながら、固形にすることね。硬すぎてもダメだし、柔らかすぎてもダメ。あの独特な柔らかさが良いのよね」
伸びた触手が、素材棚から粘土と手作りの糊をいくつか取り出してから、戸をきっちりと閉めた。
時折、スライムの体の一部を前世の記憶の中にある消しゴムの硬さへ変えては、それを確かめるように触れる。その後、表面が小さく波打ちながら震え、「別に触る必要ないじゃん」と、どこか楽しそうに周囲の空気を震わせた。
作業台の上に、浅いビーカーがいくつも並ぶ。中には樹液に外殻の粉末を一ミリグラム違いで混ぜたものが入っており、それを触手を通して体の中へ入れると、糊や粘土と各々混ぜながら、逐一実験記録をとっていく。
比率を変え、分量を調整し、スライムの体の温度さえも変えて、ひたすらに実験を重ねる──失敗したものは、記録だけを残して吸収することで、片づけの時間を短縮した。
人間ならば、やる気が続くよりも先に体を壊してしまうほどの作業量を、彼女は淡々とこなしていく。
やがて、ビーカーさえも片付けられた作業台の上には、四つの薄い青色の塊が置かれた。
いずれも、一往復で文字を消すことができ、その際に強い力を要しない。何より、紙に皺がよりにくいという結果が、彼女の中にある基準を満たしたのだと感じた。
「いやー、今回は苦労したわね。千の大台に乗るかと思ったけど、ギリギリセーフ。えーっと、一番消しゴムに近い消し心地なのが七百三十四番。ちょっと固めの練り消しっぽいのが八百七十一番。作るのが一番楽だったのが四百九十八番」
順々に触手で指差しのようなことをしたあと、最後の一つの前で一度黙り込み、スライムの上部を傾ける。
「七百三十七番は、何かしらこれ……形状記憶消しゴム? 普通に消字できるし消しカスも出るけど、気づいたら削れたとこが元に戻ってるのよね。消しカスも消えてるし」
他の三つとの素材と製法に違いはなかったはず、と呟きながら、つけペンを持った触手が、七百三十七番の実験記録へ「要検証」とメモ書きをした。
少々不思議な物体ができてしまったものの、彼女にとっては満足のいく実験だったのだろう、天井近くまでみょーん、と伸びてから、液体が落ちる時のように、床へびしゃん、と広がる。
翌日、スライムは人間の女性へと擬態し、地下工房を訪れた顔馴染みの男にスライムお手製消しゴムとその取扱説明書を差し出した。
木箱に入れられた三つの消しゴムを見てから、男は、暫しの沈黙のあと、それを受け取る。
「……スライム様、これは?」
「消しゴム。あー、ゴムじゃないけど、まあ、そこら辺は良いわよね。鉛筆、あるでしょう? あれで書いた字を消すための道具よ」
「わざわざ、それだけのために作ったのですか? 硬くなったパンでも、書いたものは消えていましたが」
「だって、パンを粗末にしているようでちょっと嫌だもの。監査くんは、あまり鉛筆を使っていなそうね。使い道に困るなら、よく使用してるお友達にでも渡して」
「私はニヴェル・フェディナです。……この取扱説明書、珍しく目次が一ページもありませんね」
「知ってるわよ。そりゃあ、取扱説明書だからね。無駄に長くしないわ」
「……そうですか。では、エンピツを愛用している同僚に渡してみます」
「ええ、くれぐれも……」
「取扱説明書を熟読してから使うように、でしょう」
「正解、べっこう飴をあげましょう」
「……、……いただきます。ところで、べっこう、とは?」
「亀の甲羅」
「……かめの、こうら」
その後、スライムお手製消しゴムは、〝消字用筆記具〟──通称消しゴムという名で、エンピツの普及と共に、王国交易監査伯の領地内から、やがては王国全土へと広がっていった。




