第4話:滲むので
※本作は連作短編です。
どの話から読んでも成立します。
文字を手書きで綴る際に、書き心地を決めるのは、ペン先の形状や軸の持ちやすさだけではない。
色、滲み、伸びやすさ。水性か油性か、何に書くのかによっても使い分けなければならないもの──インク。筆記とは切っても切れない関係であるそれが、たっぷりと入った瓶を前に、スライムが小さく揺れた。
スライムへ転生した彼女が暮らす王国で広く使われているのは、黒いインクだ。紙に書いた時は赤褐色だが、時間の経過と共に黒へと変わっていくそのインクは、数十年が経過しても色褪せない、〝不変の黒〟と呼ばれている。
スライムから伸びた細い触手が、インク瓶をつつく。顔と呼べる部分のない、半液体状の姿で不規則に蠢く様子は、あまり愉快そうな揺れには見えなかった。
「このインク、悪いわけじゃないんだけど……少しずつ、紙を腐食していくみたいなのよね。前世の古い時代に使われていたインク……古典インク? に、近い性質なのかしら」
声帯の代わりに周囲の空気を震わせ、彼女が独り言をこぼした。
地下工房の真ん中に置かれた作業台から、スライムがずるん、と床に滑り落ちる。粘度のある液体が、下り坂を流れるかのような動きで傾斜のない床を這った彼女は、書類棚の前で半透明な丸い形へと変わった。
二本の触手が器用に戸を開けて、棚の中から紙束を引っ張り出す。まだらに薄い茶色へ変色し始めている紙面には、びっしりと文字が書き込まれていた。
実験記録を書き留めたその紙束の、文字の部分に、一部小さな穴が空いていた。
彼女は、定期的に全ての記録用紙と取扱説明書の状態を確認している。インクによる腐食や、年月による劣化で文字が読めなくなる前に、その兆候が見られた分から新しい紙へ書き写しをするためだ。
触手で紙束を持ったまま、スライムはゼリーが転がる時のような動きで作業台へと戻る。丸からみょん、と伸びて円柱状になると、紙束を置いてから一度触手を引っ込めた。
暫しの間、音もなくふるふると揺れた彼女は、前触れなく再びスライムの体から触手を伸ばして、器具棚と素材棚を開ける。
「仕事の時書類に使っていたインクって、確か油性インクよね。ボールペンの。あー、でも、万年筆に油性インクはダメなんだっけ? うーん……まあ、水と光に強くて、乾きやすくて、発色が良くて、滲んだり裏抜けしなければ良いってことにしよう」
誰に言うでもなく独りごちた彼女は、いくつかの器具と素材を棚の中から取り出して、作業台の上へと置いた。
歪な形の鉱石や、磨かれる前の宝石が、無造作に並ぶ。どれにも共通しているのは、その色が黒やそれに近しい色だということ。黒っぽい青色の石や、赤黒い宝石も混ざっている。
スライムから伸びている触手が、一つの鉱石へと伸びる。重みを感じていないかのようにひょいとそれを持ち上げて、人間ならば顔がある位置だろう高さに掲げた。彼女に目はないものの、何かを吟味するような動きにも見える。
石造りの地下工房に、暫しの沈黙が落ちた。息遣いの音すらもしない中で、全く身動きを取らなかったスライムが、ふるん、と小さく揺れる。
「色の着いた石を粉末状にして、水とか油に溶かすとインクになるんだっけ? あ、インクじゃなくて、絵の具? うーん……インクの作り方なんて、調べたことなかったのよね。取り敢えず、手当り次第、思いつく限り色々やってみましょう」
ぶつぶつと独り言をこぼしながら、彼女はいくつもの触手で金槌を握り、硬くしたスライムの体を薄く伸ばし、その上へ鉱石を乗せてから思い切り叩きつけた。
当然ながら、砕けた破片があちこちへ飛び散りそうになるが、その一つ一つをまた別の触手が捕まえ、作業台へと戻す。それを何度か繰り返してから、砕いた鉱石をそれぞれ乳鉢へと移した。
乳棒を使い、乳鉢内の鉱石を粉末になるまでゴリゴリとすり潰していく。疲れを感じることのないスライムの体は、ただひたすら同じ速度で同じ作業を続けている。
同時に、鉱石ごとの粉末になるまでの所要時間と、必要とした力を、別の触手が記録を取っていた。複数の作業を一体で行いながらも、彼女は鼻歌を歌う──鼻がないので、ただの空気の振動ではあるのだが。
暫くすると、作業台の上には、粉末状になった鉱石入りの乳鉢が六つ、綺麗に並んだ。その一つ一つに、鉱石の名前が書かれた付箋が貼ってある。
粉末にする過程で、実は透明だった鉱石もいくつかあり、それを省いた結果残ったのが六つだった。スライムは、そのことにない肩を落とす素振りもなく、流れるように次の作業へと移っていく。
「粉にしたから、次は水と油に混ぜてみましょう。油性とか、水性とか、多分溶かした液体の名称よね? 鉱石ごとに相性の良い魔力の質と量が変わるから、まずは水と油から魔力を抽出して……んー、粉末と液体を混ぜながら魔力を足した方が良いかしら? それとも後から加える、という手もあるわね。どちらもやろうかしら」
ふるん、と揺れてから、乳鉢に入っている粉末状の鉱石を、ビーカーの中へ四分の一ずつ移す。六つを同時に処理しながら、新しく伸びた触手が、素材棚から水と油の入った容器を取り出し、きちんと戸を閉めてから作業台へと戻った。
きつく締められた水と油の蓋を開き、中へ触手を突っ込んだ彼女は、一度体の中へその二つを吸い込む。一瞬後、スライムの体が淡く光った。
彼女が改良した、素材から魔力のみを抽出する魔術は問題なく発動したようで、再び容器の中へ戻された水と油は、ほとんど魔力を含んでいない。
それを当たり前のことのように、淡々と実験を続けていく。
粉末状にした鉱石と、水──または油を混ぜながら魔力を流し込むもの。そして、二つを混ぜてから魔力を流し込むもの。
これを、別々の触手が同時に行い、記録をつける。
出来上がった二十四種類の試作インクを、一つずつ万年筆のペン先につけて、紙の上へと乗せていく──しかし、いずれも満足できる出来ではなかった。
それを記録に残しながら、スライムの中で渦を巻くように液体が動いている。
時折止まって、また暫く動いて、止まる。それを何度も繰り返していた。
「……どれも微妙。八番はインクの伸びが理想的だったけど、すっごい滲むのよね。二十番は滲まないけど色ムラが激しいし、十二番なんて論外。掠れるし、詰まりやすいし、乾きにくいし、裏抜けするし」
やれやれと首を横に振るかのように、スライムが横に揺れる。小さなビーカーの中に少量ずつ入っていたインクを、それぞれ触手から吸収して、中身を空に戻した。
そのあとも、彼女は所有する素材の中から、インクになりそうなものを片っ端から取り出して粉末状にすり潰し、水と油、そしてそれ以外の液体も見境なく使用して、試作を重ねていく。
床いっぱいに実験記録を記した紙が積まれる中で、その合間を縫いながらスライムの体はあちらこちらへと動く。伸びた触手がいくつか前の実験記録を読み返し、また別の触手は乳棒を握り続けた。
試行回数は優に三百を超え、しかし、彼女の手は止まらない。たまに独り言をこぼしながら、休むことなく試作インクを作り続ける。
「──うん。二百五番、これだね。色々試したけど、今のところはこれが一番理想に近い。えーっと、材料は……真っ黒に焼いた林檎の皮と、精製水に対して一パーセントの白ワインを入れた水。それを三対七の割合で混ぜて……ああ、魔力は後入れか。林檎の皮に含まれる魔力量の五倍か」
作業台の上に残ったのは、試作番号二百五番のインクだった。ビーカーごと持ち上げ、中身を揺らしながら、平坦な声に僅かな弾みをつける。
二百五番のインクのレシピを眺めながら、別に伸びた触手がその手順と比率通りにインクの作成に入った。再現性のチェックと、インク瓶に入れた際の保存性を確認するために、瓶三つ分の量を一気に作っていく。
地下工房の隅に積まれていた木箱の中から、空のインク瓶を取り出して、できた傍から触手を使い注いでいった。
瓶が満杯になったら、潤蜜蜂の蜜蝋を染み込ませた蜜蝋布を被せ、少しだけ布と瓶の接地面を温める。すると、蜜蝋布がインク瓶へぴったりと張りついた。
「蓋の蜜蝋布は有り合わせのもので作ったから、まだ改良の余地ありね。さて、取扱説明書を書き上げなきゃ」
出来上がったばかりのインクへ、ペン先を浸す。万年筆用のペン先だが、軸はまだないそれを、スライムの触手は器用に操る。
引っかかることも掠れることもなく、一定の濃度で、滲まずに伸びるインク。紙面にびっしりと文字を書く彼女であっても、ほぼ一枚分をインクの補充なしで書くことが可能なそれは、従来のものと比べ、持ちがよい。
翌日、スライムは人間の女性の姿へと擬態して、地下工房を訪れた顔馴染みの男にスライムお手製インクと、つけペンのペン先、それを差し込む握り部分の軸を、それぞれの取扱説明書と共に差し出した。
二十代後半から三十代前半に見える男は、暫しの沈黙ののち、それらを受け取る。
「……スライム様、これは? 一つはインクのようですが」
「つけペンのペン先と、それを差し込む軸と、インク。つけペンは万年筆を作ろうとした時の副産物だけど……これはこれで、便利よ。文字の太さを変えたい時、ペン先を交換するだけで済むもの」
「はあ、つけペン……羽根ペンとは違うものですか?」
「つけペンは金属製。羽根ペンより使いやすいわよ。監査くん、書類仕事で手が痛いって言ってたでしょ、丁度いいからあげる」
「私はニヴェル・フェディナです。そう聞くと便利そうですが……ところでスライム様、取扱説明書、どれも目次だけで一ページ以上ありますけど」
「知ってるわよ。そりゃあ、取扱説明書だからね。ああでも、インクは検証事項がまだ多く残ってるから、公的な文書にはまだ使わないでね」
「分かりました、内容を確認してから私的な書き物に使用してみます」
「ええ。あとで使用感を纏めて頂戴」
「はい、いつも通りに」
その後、スライムお手製つけペンは、〝混合金属ペン〟──通称つけペンという名で、王国交易監査伯から王侯貴族の中で一気に広がっていった。
一方で、財力のある商人でもこのつけペンを入手するのは困難を極めたため、スライムからすれば酷い劣化版である鉄製のペン先が、一部にだけゆっくりと浸透していく。
つけペンが王国全体に広がったのは、それから数十年後のこと。インクに関しては、二十年の歳月を要することとなった。




