第2話:忘れるので
※本作は連作短編です。
どの話から読んでも成立します。
あって当たり前の便利な道具は、いざなくなった時にこそ、その有難さが身に染みるものだ。
だが、自分が必要としていなければ、その存在を思い出すこともない。そういうものが、スライムと呼ばれる彼女の頭の中に、多く眠っている。
「そういえば監査くん、書類のミスを訂正させるだけなのに、どこをどう直すのか説明が大変って愚痴ってたな」
地下工房の床に、液体のように広がっていたスライムが、みょん、と丸く形を変える。声は平坦で、顔もないので表情は読めないが、少なくとも動く意思があることだけは感じられた。
水風船が転がるように、スライムが床を這う。向かった先にあるのは、部屋の中央に鎮座する、彼女専用の作業台だ。
「紙の書面で回って来た書類のミスって、付箋に訂正内容書いて差し戻ししていたのよね。紙はあるし、作れないことはなさそう。それに、付箋があれば、目のつくところにメモを書いて貼っておけるし」
口も声帯もないスライムながら、周囲の空気を震わせて、独り言をこぼす。誰かに聞かせるためのものではなく、自分の思考を整理しているような、そんな声量だ。
スライムの体から伸びた触手が、真っさらな紙を束で掴み、作業台に置く。同時に、器具棚と素材棚からいくつか器具と素材を取り出すと、彼女はまた少し黙り込んだ。
やがて動き出した触手が、器用に紙を折り、ペーパーナイフで切り分けて行く。あっという間に出来上がった小さな紙の山に、スライムの上部がまるで頷くように縦に振られる。
次に、容器の中へ一つずつ取り出した素材を仕分けてから、一度触手を体の中へと引っ込めて、彼女はそれらの素材をじっと見つめた。
「付箋の作り方って、知らないのよね。でも、あれ、要はある程度の粘着力が長続きする糊が塗れた紙でしょ。貼って剥せる、でも付箋側にだけ付着し続ける糊、ねえ……。天然の糊といえば、白米? でも、この世界にあるかは分からないし。同じ結果になれば、それで良いのよね」
呟きながら、再び伸ばされた触手が動く。粘着する性質を持つ素材を片っ端から試せば良い、そう言わんばかりに、広い作業台の上で同時に複数の素材の下処理へと取りかかった。
同じ素材でも、切り方を変え、刻む大きさを変え、刃物で切った時とちぎった時の違いまでも事細かく記録を取っていく。素材ごとに書き込む紙を変え、一枚埋まれば二枚目へ羽根ペンの先を移動させる。
それを、複数の触手を使い、同時並行で行っていた。
それを、更に水へさらしたり、一度刻みで水温を上げながら煮出したりと、どんどん工程を増やしていく。失敗も一部成功も、過程から結果まで神経質なほどに記録するので、白い紙はあっという間に黒いインクで埋まった。
実験が進むごとに作業台の上は中身が入ったビーカーで埋まっていき、遂には適当な木箱の上にも試作の糊が置かれていく。だが、明らかに減っていく作業スペースも、スライムの体を持つ彼女にとっては、大した問題ではないのだろう。
新しい試作の糊を作りながら、別な触手では既に出来ている分の粘度や粘着力を計り、数値と体感を紙に書き記していった。
彼女は一定のスピードを維持しながら、実験と記録を延々と続けている。表情は見えないものの、楽しそうに感じられた。
付箋の糊としては失敗だったものは、スライムの体へ吸収される。空になった水滴一つないビーカーには、すぐに次の液体が注がれた。
試作数は、優に三百を超えている。
「八番と七十三番、百二番が有力候補かしら。あとは三百二番……あら? へえ、二十四番、時間経過で粘度が増すのね。うん、まずはこの五つをメインに調整していきましょう。溶液を変えて……、素材ごとの残留魔力量にも気をつけて、次は……」
人の気配のない地下工房で、彼女は独り言をぶつぶつとこぼしながら、触手と思考を動かし続ける。そして、気がつけば紙で床が見えなくなっていた。
積まれた紙の山を、スライムの体は伸び縮みしながら器用にあっちこっちへ動いていく。
実験と、記録と、片付け。時間が経つごとに、作業台の上は整理されていく。
最終的に残った試作の糊は、八つ。
すっかり片付いた作業台の上には、八つのビーカーと、同数の紙の山が置かれている。
スライムが、まるで背伸びをするかのように、天井近くまでみょーんと伸びた。それからプルプルと体を震わせ、床の上へ半液体のように広がってから、円柱へと戻る。
「えーっと、残ったのは粘雷草のが三つ、続の実のが一つ、日渡花のが四つか。これまでの記録を見る限りだと、日渡花を同量の魔力を含んだ蜜水に漬けたものが最有力候補かな」
粘雷草は、踏むと粘度の高い汁を撒き散らすという、旅をする者にとって厄介極まりない草だ。探さなくてもあちこちに生えている上に、生命力もかなり強い。
反対に、続の実は、特定の条件を満たした場所にしか生えない続の木の根元に出来る実だ。硬い皮の中にとろりとした汁が入っており、希少価値と栄養価が高いので、主に食用として用いられる。ただ、あまり美味しくはない。
一方日渡花は、生息地は広いものの、採取条件が厳しいことで知られている。太陽が真上に昇ってから僅かな間だけ肉厚の花を咲かせるので、その時に花弁を引きちらなければならない。この花弁は、すり潰すと粘り気が出る。
蜜水は、蜜蜂の巣を煮込んで濾したもので、汎用性が高い素材だ。
先の平べったいガラス棒を一本ずつ持った触手が、八枚の紙へそれぞれ糊を薄く塗り広げる。ここから先は、耐久テストを兼ねた実験となった。
紙へ塗っては乾かし、別の紙へ貼っては剥がしてを繰り返す。部屋の隅に置かれた木箱の中では、くしゃくしゃになった紙が山を作り出していた。
気の遠くなるような数のテストを重ね、チェック項目を一つずつ潰していく──だが、満足する結果は得られなかった。
だから、また糊の試作に戻る。作って、試して、また作る。
休息を必要としないスライムの体は、陽の光の差さない地下工房という場所も相俟って、彼女から時間感覚を奪っているように見えた。
「こっちは粘着力強すぎ、剥がれない。こっちは逆に弱すぎてすぐ剥がれる……。お、これいい感じ。あーでも、インクが粘着部分に少し移る。一旦保留、次は……ああ、これ、良い感じだね。えーっと、六百十八番。これが本命かしら」
粘着力と、インクの移りを細かく確認し、ひたすらに記録を取る。
ようやっと糊の候補を三つに絞ったら、今度は貼って剥がしてを繰り返し、何度使えば粘着力が低下するのかの検証を淡々とこなした。
やがて、羽根ペンの動きが止まる。実験から検証までを終えて、記録を纏め、機器と素材を棚に閉まってから、彼女は息を吐くかのようにスライムの体を揺らした。
次に、取扱説明書の作成に取りかかった。いつも通り、様式に沿って、事細かく、紙面を埋めていく。
翌日、スライムは人間の女性へと擬態して、地下工房へと呼び出した顔馴染みの男にスライムお手製付箋とその取扱説明書を差し出した。
それにぴし、と固まったあと、男は沈黙と共にその二つを受け取った。
ぴら、と取扱説明書が捲られる。
「……スライム様、この色の着いた紙は、一体?」
「付箋。紙に貼って、剥せるの。五色用意したから、用途に分けて使用するのがおすすめよ。監査くん、書類のミスを指摘する時、説明に時間がかかるって言ってたでしょ」
「私はニヴェル・フェディナです。貼って剥せる、というのがまだあまり理解出来ませんが……まずは、内容を確認してから使用してみます」
「知ってるわよ。それじゃ、あとはいつも通り使用感を纏めて頂戴」
「分かりました。ところでスライム様、この取扱説明書、目次だけで一ページ半ありますが」
「そりゃあ、取扱説明書だからね」
その後、スライムお手製付箋は、〝着脱可能用紙〟──通称付箋という名で、王国交易監査伯の領地内で、商人と書類仕事をする者たちを中心に広まって行く。
付箋が王国全体に広がったのは、それから八年後のことだった。




