第13話:複製したいので
※本作は連作短編です。
どの話から読んでも成立します。
判押しをする際に重要なのは、如何に適したインクを使うかだろう。
インクと一口で言っても、用途によって求められる粘度も発色も異なる──例えば、筆記に適したものと、スタンプ用のものは、併用することが難しい。
前世では、公私共に判子を当たり前のように使用していた彼女にとって、筆記用インクがスタンプ用インクの代わりにならないことは、当たり前のことであった。
しかし、その当たり前も、広く使われているからこそのもの──スライムに転生した今世では、シーリングスタンプは使われていても、判子のようなインクをつけて使うものを見たことがない。
当然ながら、スタンプ用インクも存在しない。使用用途がないものが、開発されるわけがないからだ。
「まあ、インク自体は何回も作ってきたし、そう難しくはないんだけどね。液だれ回避しながら、紙にちゃんと定着すればオーケー。速乾ならなお良し。でも、判子側になるものがでかいから、スタンプ台は無理かな? スポンジでインクをポンポンやるなら、速乾は微妙か」
口も声帯もないスライムは、周囲の空気を震わせながら独り言をこぼす。
海に面した領地に居を構えているため、スポンジは安価で入手することが可能だ。だが、前世で彼女が愛用していたようなスタンプ台を作るには、スタンプ側が大きすぎるという問題がある。
薄いゴムのような板に、鉄でできた鉛筆のようなもののペン先を当て、文字を書くと裏面に凹凸ができる。
彼女が作り出した、版画のようなもの──正式名称は決まっておらず、版画もどきと呼んでいるそれを使おうにも、筆記用インクだと液が緩すぎた。
契約書の控えが欲しいという欲から始まった開発は、スタンプ用インクが完成すれば、一段落を迎えられるだろう。
床の上に目玉焼きの如き姿で広がりながら、筆記用インクの実験記録を眺めていたスライムが、おもむろに作業台の傍へと這っていく。
みょん、と上へ伸びてから、器具棚と素材棚を触手を使って開き、整頓された棚の中から必要なものを取り出す。
散々作ってきたインクを、スタンプ向きのものへ改良するのが目的であるため、あれこれ素材を使うことはしないようだ。
慣れた触手つきで真っ黒に焼いた林檎の皮を粉末状にしながら、精製水と白ワインの混合比率を変えたものを、いくつも浅いビーカーに用意する。
次に、林檎の皮の粉末と、混合液を混ぜていく──粉末の量も、一ミリグラムずつ変える徹底ぶりは、今日も変わっていない。
「んー、どれも粘度が足りない。まあそうよね、この材料で粘度が変わることはないか。となると、粘性を追加する素材を探る工程が必要。でも糊みたいにくっつくのは困る……んー、日渡花が適当かな?」
素材棚から厚みのある薄橙色の花弁を取り出し、乳鉢と乳房ですり潰していく。
日渡花の花弁は、すり潰すことで粘り気のある汁が出るため、濾す作業が必須だ。余計なカスを取り除くと、綺麗な白い液体になる。
これを、量を細かく変えながら筆記用インクと混ぜ合わせ、最適な配合量探す。地道な作業だが、時折揺れるスライムからは、それを楽しんでいるように感じた。
実験はいつだって、一度目で成功するなんてことはない。
粘度が高すぎて、紙にくっついてしまうもの。筆記用インクにするには粘ついていて、スタンプ用インクにするには粘度が低いもの。粘度は良いのに、いつまで経っても乾かないもの。
失敗作も全て記録を取り、スライムの体でインクを吸い取って、次の配合に移る。
時たま独り言を呟きながら、彼女は触手を動かし続けた。
疲れ知らずのスライムは、精神的に疲弊しなければ、いつまでも動き続けることができる──彼女のように。
やがて、綺麗に片づけられた作業台の上に、インク入りのビーカーが二つだけ乗った。
ビーカーを揺らしてみると、少しもったりとしたインクの動きから、粘度の高い液体だということが窺える。
スポンジの一面を浸してインクを吸い上げ、試し用の版画もどきにポンポン、と押し当てると、余計な液が垂れることなく、凸部分を黒く染めた。
実験記録用紙ノートブックの端に、試作インクをつけた版画もどきをそっと置いて、上から少しだけ力を込める。
それからそっと版画もどきを持ち上げると、凸部分がはっきりと転写されており、コピー機ほどではないものの、文字に掠れは見られなかった。
「うん、成功! これで、簡単に契約書の控えを貰え……ん? いや、貰えなくない? これに契約内容書いて欲しいって言っても、何でそうしたいのかってことを理解して貰うまでに、時間かかるじゃん。あー……、折角作ったのに……」
ぽよんぽよんと跳ねていたスライムが、熟れたトマトのようにべしゃんと床に落ちて広がる。
契約内容について、後々不履行だのなんだとの揉めないために、契約書の控えを簡単に作れるようにしよう、という動機が始まりだった。
しかし、コピー機はおろか、印刷についての知識や概念もない国で、版画もどきがすぐに広がるとは思えない。
完全な無駄になりはしないだろうが、彼女が求めるような即効性はないだろう──そのことに気づいたらしいスライムが、どろん、と石床に伸びる。
それから暫くの間、ぴくりとも動かなかった。不貞腐れているのだろうか。
やがて、ようやく触手を二本作業台へ伸ばすと、製作工程を纏めつつ、取扱説明書の作成へと取りかかった。
しかし、その動きは緩慢で、あからさまにやる気がないことが分かる。
それでもしっかりと書き上げた彼女は、作業台や地下工房の中を綺麗に片づけた後、部屋の隅に置いてあるソファへと這いずって行き、その座面の上で半液体状のまま動かなくなった。
五日後、中々地下工房から出てこないスライムを心配したらしい、馴染みの男が地下工房を訪れる。
来客用に人間の女性の姿へと擬態はしたものの、まだやる気がないとばかりにソファで寝転ぶ彼女へ、男が眉間の皺を揉みながら声をかけた。
「……スライム様、そのようなはしたない格好は、あまりよろしくないと思います」
「監査くんのえっちー。そういう目で見てるから、はしたなく感じるんじゃないのー……」
「私はニヴェル・フェディナです……って、ああもう、足は出さないでください! 寝るならベッドで! そもそも、えっちとはなんですか? 良い意味ではなさそうですが」
「動きたくなーい……。監査くん、そこ、テーブルの上にあるやつ。それ一式、先方に持って行って」
「先方、ああ、取引先の商会ですね。それは構いませんが、いつも通り先に伯爵へお見せしますよ」
「いーよー。はあ……、四代目くんの伯爵パワーで、速攻広まってくれないかなあ」
「ものによるとしか言えませんね。スライム様、ちゃんとベッドでお休みください。使い方は、取扱説明書を読みますので」
「ういー。はあ……」
「それでは、失礼します」
「うん、またねえ」
その後、スライムお手製版画もどきと専用インクは、〝初期型印刷〟──通称ハンガという名で、王国交易監査伯の領地内の豪商たちを中心に使用されるようになっていく。
用途としては、領主への提出用と契約者双方の控え、計三枚の契約書を一度に作成するのが主であった。
その後、紙に押すだけで規定の書式用紙を量産できるという手軽さが、領内で事務職に従事する者たちから、高い支持を受けることとなる。
ハンガと専用インクが王国全体に広がったのは、それから二十七年後のことだった。




