燃える市中、走る蒸気駕籠
夜の市中に火の手が上がった。
赤い目を灯した同心たちが一斉に暴れだし、町家を押し倒し、蔵を打ち壊す。
蒸気と煙が入り混じり、江戸は修羅場へと変わりつつあった。
「違反者……処罰……」
「掟に背く町は……排除……」
冷たい声が町の至る所で反響し、人々の悲鳴がそれをかき消す。
「新吉兄ぃ! こっち、火が迫ってる!」
お絹が子どもたちを抱えて駆け寄る。
顔は煤で汚れ、目には涙。けれど、その腕は震えながらも庶民を庇っていた。
「お絹、こっちへ! 隅田川の堤まで逃がすぞ!」
俺は叫ぶ。
だが庶民の群れは混乱し、逃げ場を失っていた。
泣き叫ぶ声、転げる荷車、燃え上がる瓦屋根。
その頭上を蒸気駕籠が不気味に旋回し、赤い光を下界に投げかけている。
「このままじゃ、江戸ごと焼ける!」
俺の声に、瑠璃が前へ出る。
「なら、わたしが盾になる。新吉、あなたは人々を導いて」
鉄槌が唸りを上げ、迫る同心をなぎ払う。
赤い火花が散り、庶民が歓声をあげた。
そのとき、袖を掴まれる。お絹だった。
「……新吉兄ぃ。
あんた、あの子と一緒に戦う顔、見たことない顔してるよ」
目が合う。責めるでも泣くでもなく、ただ胸を抉るような声。
「昔からあたしは、あんたの隣に立てるつもりでいたのに……
――人形に先を越されるなんて、ね」
一瞬、胸が痛む。
だが、背後では庶民の悲鳴と、赤い目の同心の咆哮が迫っていた。
「……お絹。後で答える。今は庶民を守るんだ!」
俺はお絹の手を強く握り返す。
彼女はわずかに紅潮した顔で、すぐに決然と頷いた。
「わかったよ! 子どもらはあたしがまとめる!
逃げ道を開けて!」
三人は市中を駆け抜けながら、燃え広がる混乱の中で庶民を導いた。
隅田川の堤には人の波が押し寄せ、川舟の蒸気管が白く噴き上げていた。
「舟に乗せろ!」「子どもを先に!」と、必死の声が響く。
だがそのとき――。
「新吉兄ぃ! 空を見て!」
お絹の叫びに顔を上げる。
江戸の象徴、巨大な蒸気塔――蒸天塔。
その頂から黒煙が立ちのぼり、炎が夜空を赤々と染めていた。
蒸気管が爆ぜる音が雷鳴のように響き、塔を守るかのように蒸気駕籠の群れが旋回している。
「制御中枢……完全に落ちてる……」
俺の“目”に、光の符号が奔流のように走った。
庶民が口々に叫ぶ。
「蒸天塔が燃えてるぞ!」
「江戸が終わっちまう!」
「入場料たけぇくせに、こんな最後ってあるかよ!」
江戸っ子らしい嘆きが、炎にかき消された。
「新吉!」
瑠璃が俺の腕を掴む。
「塔が落ちれば、市中は一夜で灰になる。止めなきゃ!」
だが、お絹は必死に子どもたちを抱きしめて叫ぶ。
「庶民を守るのが先でしょ! 新吉兄ぃ、どっちに行くのさ!」
燃え盛る蒸天塔が、俺の決断を突きつけていた。