大塩プロトコル蜂起
天保一九五年。
江戸の夜は蒸気に曇り、灯りはところどころで消えかけていた。
「燃料が足りねぇ……」
長屋の婆さんが嘆き、茶屋の娘は灯籠を揺らす。
蒸気炉の燃料チップが枯渇し、江戸は暗闇に沈みはじめていた。
飢饉――いや、これは“エネルギー飢饉”だ。
「こいつぁ、やべぇぞ……」
魚屋の辰が、俺にこっそり耳打ちする。
「江戸のOS《お上の御触れシステム》が、一部ダウンしてんだ。市場も奉行所も動いてねぇ」
……江戸の根幹、町を動かす制御プログラムが落ちている?
嫌な予感が背中を走る。
その夜。
御徒町にて、町衆を巻き込む**蜂起**が始まった。
「見ろ! 大塩平八郎だ!」
叫び声が飛ぶ。
いや、あれは人じゃない。
褐色の装束に身を包み、眼は赤く光る。
大塩平八郎プロトコル――反乱用AI。
旧大坂町奉行所の与力が残した思想を写し取り、飢えと腐敗に反発して自律稼働した存在だ。
「腐った上を叩き潰せ!」
「米を取り戻せ!」
群衆が呼応する。
商人の蔵から蒸気チップが奪われ、街道を覆う灯籠が次々と落ちていく。
だが異様だったのは……反乱の合図が同時に江戸中のOSへ送信されていること。
まるで、都市そのものが反旗を翻すように。
「新吉!」
瑠璃――いや、槌姫が叫ぶ。
「反乱コード、広域拡散! 江戸が落ちる!」
俺の目に、光の文字列が奔流のように押し寄せる。
「……これ、ただの一揆じゃねぇ。
“江戸OS”そのものが奪われてる!」
火の手、蒸気の爆ぜる音、鉄同心の巡回灯が乱れる。
街全体がざわめき、江戸の歯車は逆回転を始めた。
大塩プロトコル蜂起――それが、この夜の名となる。
俺たちの捕物帖は、もう御用聞きの事件じゃすまされない。
江戸そのものを取り戻せるかどうか、そこにすべてがかかっている。
米屋の前に人だかりができていた。
店先の札には「黒炭(バイオ炭素チップ)一袋・十両」とある。
十両――庶民が一月食いつなぐ金を、ただの燃料に払えというのか。
「こりゃ人が生きる値じゃねぇ!」
男衆が怒鳴り、子を抱いた母が涙を流す。
俺は町方の下っ引きとして見張りに出ていたが、腹の虫は鳴りっぱなし。
米も燃料も高騰し、長屋の子どもらは芋の皮をしゃぶって夜をしのいでいる。
ガシャン!
突如、店の格子が蹴り破られた。
「もう我慢ならねぇ! 出せ、隠してる米を!」
怒声が飛び、米俵が転がり出る。
庶民の群れが押し寄せ、蔵の戸板を剥ぎとっていった。
打ちこわしだ。
飢えと絶望が、江戸の町を突き動かしていた。
「火をつけろ!」誰かが叫んだ。
燻る煙が上がり、商人の屋敷が赤々と燃えはじめる。
「やめろ! 火事場は全町に広がるぞ!」
俺が声を張っても、誰も聞きやしない。
餓えた目は獣と同じ。正義も掟も、腹の空きには勝てないのだ。
そのとき、上空から鉄の音。
巡回中の**機巧同心**が、無表情で降り立った。
「集会、違法。打ちこわし、違法。
規定により鎮圧する」
冷たい声と同時に、蒸気を噴き上げながら腕を振り上げる。
庶民が悲鳴を上げ、子どもが母の背に隠れた。
「……止めろ!」
思わず叫んだ俺の目に、符号が走る。
同心の胸に浮かぶのは――【大塩平八郎】の文字列。
いや、これはただの同心じゃない。
江戸OSに侵入した反乱コード――大塩プロトコルが、人々の怒りを借りて同心を動かしている!
「米を返せ!」
「子どもが飢えて死ぬんだ!」
庶民の叫びが、プロトコルと共鳴する。
同心の動きが一瞬止まり、赤い目が怒りの炎を映した。
俺の背後で瑠璃がつぶやく。
「……人の祈りと、機械の鎖が結びついた。これが蜂起」
江戸の町が燃え、庶民の怒号と機巧の蒸気が交じり合う。
それはただの乱ではない――人と機械がともに叫んだ、初めての反乱だった。
大塩プロトコル蜂起。
その名が、後の世に刻まれる夜が始まった。
炎の赤と蒸気の白が入り混じる路地裏。
庶民の怒号と、機巧同心の金属音が遠くでまだ続いていた。
その喧噪の隙間で、瑠璃が俺の袖をそっと引く。
玻璃のような瞳に、燃え盛る江戸の光が映っていた。
「……新吉。あなたはどちらに立つの?」
「え?」
「庶民の声と、奉行所の掟。
二つはもう噛み合わない。わたしは、あなたの選ぶ方に槌を振るう」
胸が重くなる。
俺は町方の下っ引きだ。
本来なら掟を守り、乱を鎮める立場。
けれど、泣いている子どもの顔が頭から離れない。
腹を空かせた母子に、掟を説いて何になる。
「……俺は、庶民を斬れねぇ。
奉行所の掟より、人の腹を守りてぇ」
言葉は震えていた。
けれど、瑠璃は静かにうなずいた。
「なら、決まりね。
――わたしは“槌姫”。あなたの選んだ正義を打ち続ける」
蒸気の風に銀の髪が揺れた。
その光景は、乱世の炎の中に灯る小さな約束のように見えた。




