蒸気江戸の夜に
時は天保一九五年。
暦は江戸のまま、けれど街は蒸気と歯車にあふれていた。
鎖国は続いているというのに、空には**蒸気駕籠が飛び交い、石畳の上では機巧同心**が冷たい目で巡回している。
俺は新吉。
町方で働く若い下っ引き――そして人形オタクだ。
腕っぷしはからきし。
でも「目」だけは利く。
機巧の**制御符**を読み解く、奇妙な“特異な目”を持っている。
その夜、非番の足で**新日本橋の御宅問屋・万星堂**へと向かった。
棚にはブリキの兵隊、ぜんまいの猫、舶来の義手。
帳場の奥は、まるで天国だった。
けれど、蔵の隅で――割れた木箱のすき間から、青い光がにじんでいた。
のぞき込んだ俺は息をのむ。
白磁の肌、銀の髪。胸の奥で小さな歯車がカチカチと刻む音。
異国産の機械人形――女のかたちだ。
「なんだ、その目ぇ?」
背後から声。
振り返ると、魚屋の辰がニヤリと笑っていた。
「非番に逢引か? おいおい、下っ引きが人形にほれてら」
「ち、ちがう! こいつはただの人形じゃねぇ。制御符が――」
言いかけたとき、人形が俺の腕を取った。
ひやりと冷たい指先。
同時に、“特異な目”が反応する。
胸の奥に刻まれた符号が、光の文字となって浮かび上がり――自然な文にほどけた。
【機芯識別】AMELIA-B/No.02
【束縛】主を問わず従属の鎖、胸中にあり
【祈り】見抜く目ある者へ――
わたしの心(歯車)を一度だけ自由にして
わたしが自分で決める権を返してほしい
……助けを求めている。
そのとたん、奥の戸が乱暴に開いた。
黒い片眼鏡に鳥打ち帽。
夜鴉連の用心棒、嘉六が現れる。
蜘蛛脚の機械が蒸気を吹き、赤い目で俺たちを狙った。
「下っ引き一匹、踏みつぶしゃ話は早ぇ」
足はすくむ。
だが目は逃げない。
見える――右前脚に刻まれた“止”の符。
胸の導管は二拍後に開放する。
「右前! 二拍後に胸管が開く!」
俺の囁きに、人形は小さくうなずいた。
「あなたの目で、わたしの鎖を解いた。
ならば今度は、わたしが主を選ぶ――あなたを守る」
腕から鉄槌がせり出し、蒸気が唸る。
「鉄の心を打ち続けるわ!」
一撃。
蜘蛛脚が砕け、二撃目で胸管が弾け飛ぶ。
蒸気が逆流し、巨体は火花を散らして沈黙した。
逃げ道を指し示す辰。
震えながら名を明かす隠岐屋直五郎。
胸に刻まれた三枚羽の鴉と小歯車の紋章。
それらは、俺の目には“暗号”として浮かび上がった。
路地を抜けたあと、彼女が静かに口を開く。
「名前、ある?」
「新吉。目利き新吉だ」
「わたしは瑠璃。刻印はAMELIA-B/No.02。
でも江戸では、瑠璃でいい。二つ名は……槌姫」
「……強そうで、いい」
この夜の俺はまだ知らない。
夜鴉の“後ろ”を追ううちに、嘉六も直五郎も、ただの悪党ではなく――大きな歯車に噛まれた人間だと知ることを。
やがて、肩を並べることになることを。
頭上を蒸気駕籠がかすめ、遠くで機巧同心の赤い目が光る。
人形オタクの下っ引きと、選主権を取り戻した機械人形。
俺たちの捕物帖は、ここから始まる。