第18話 黒の従者、血を裂く山道
灰狼の五人の一人リタは灰狼旅団の衛生担当でもあります。戦闘も一流ですが、人を癒すことにも長けています。
乾いた風が岩場をなでるように吹き抜け、歩みを止めた村人たちの頬に土の匂いを残した。
広がるのは、赤茶けた砂と岩が続く荒れた山道。
空は青く澄んでいるが、その奥に見える山の中腹には、かすかに灰色の洞窟の入り口が覗いている。
そこが、シエラの言う「隠された鉱山の避難場所」。
だが、そこへ辿り着くには、この険しい山道を登りきらねばならなかった。
「……あれが、ザフィーラおばさんが使ってた鉱山の中継所。洞窟はその先にあるわ。」
先頭を行くシエラ・アルティナが足を止め、岩の裂け目を指差した。
灰狼旅団の五人と、村人たち八名。
半日、隠された山道を登り続けた一行の足取りは、すでに重い。
「はぁ……はぁ……もう無理かもしれん……。」
年配の村人が腰をつかみ、へたり込む。
「無理って言ってもな……止まったら置いてかれるぜ?」
灰狼のひとり、アルスが苦笑しながら手を貸す。
「とはいえ、結構キツいなここ。
よくこんなとこで採掘してたな。」
「“だから隠し道”なのよ。
武器を造り、鍛えることは自分達の命を削ってやることって、いつもザフィーラおばさんが言ってた。
それに誰にも気づかれないことが、何より大事なの。」
リタが先頭のシエラに並んで顔を覗き込む。
「ザフィーラさんって、私が子供の頃に何回もお世話になったけど、パワフルな人だったよね。
絶対に仇を討とうね!」
シエラはリタの真っ直ぐな眼差しにニコッと笑顔で返した。
その時だった。
……カサ……ッ……ザザ……
風とは異質の、湿った音が耳を打つ。
「……ん? 今……。」
最後尾にいた灰狼のミーナが、眉を寄せた。彼女の瞳が鋭く岩場の下方を睨む。
「ッ! 下、見て!」
声と同時に、幾つもの人影が木々の隙間から現れた。
それは“人”のようだが、明らかに普通の人間とは違う。
皮膚は黒ずみ、まるで体内から張り出すように血管の網が浮き出ている。
目は真っ白に濁り、焦点がない。ただ、腕を振り、口を開け、獣のように呻きながら岩場を登ってくる。
「あれってもしかして、カラムの街人たち……!?
……まさかもうあんな姿に……。」
灰狼の一人、バロスが言いかけてリタが叫んだ。
「もう人じゃなくなってる! 完全に黒霧に侵されてる!」
「まずい……このままだと、村人たちが……!」
一体が、足の遅れた老婆に向かって飛びかかった。
その瞬間。
「《幻縛陣・三重結界》ッ!」
シエラが手を掲げると、彼女の腕輪と耳飾りの魔導石が一斉に輝いた。
舞うように一歩踏み出し、空間に紋章が重なって展開される。
淡い光の壁が老婆とゾンビ化した街人の間に立ちふさがり、動きを封じた。
「……助かった……!」
老婆が涙ぐみながら仲間たちに支えられ、後方へと退避する。
「こいつら……こっち来るぞッ!
クソッ!よりによってこんなところに…!」
アルスが剣を構える。リタが横に並び、刃を握り締めた。
「私たちが止める。シエラ!
こいつら、何とか出来ない!?」
ゾンビ化した五十余の街人たちが、うねるように山道を這い上がってくる。
その中心に、かすかに黒い霧がまだ漂っており、それはゾンビ達の身体から発せられていた。
それはまるで“呪い”の残滓のように、空気の中を渦巻いている。
「……これは、闇の魔道を魔導科学で再現してる…?」
シエラが震える唇で呟いた。「これは……人の心を食い尽くす兵器よ……!」
村人たちを背に、灰狼の五人とシエラが横に並ぶ。
「やるぞ……!」
「来い……来いよ、お前ら!」
「私たちが“灰狼の力”を、今ここで見せてやる!」
空が、濃く濁った。
血と風が交錯し、山道に新たな戦いの火が灯った――。
ゾンビ化した街人たちが、唸り声をあげながら山道を這い上がってくる。
その肌は黒く爛れ、血管はまるで生き物のようにうねり、目の奥には一切の意志がなかった。
その異様な姿に、一瞬たじろぐ灰狼の五人だったが――。
「来るぞ!」リタの声が空気を裂く。
シエラはリタの肩に手を置きながら言った。
「皆、この人達はもう人間じゃなくなってる。
完全にゾンビ化してる。躊躇わないで! これが黒い霧の本質……!」
シエラの言葉は、風よりも鋭く、胸に突き刺さるように響いた。
彼女の腕輪と指輪の魔導石が、淡く、そして激しく光を放つ。
淡青色の魔光がその身を包み、彼女の足元に広がった魔法陣は静かに脈動を始めていた。
その宣告を受け、灰狼の五人の目に、迷いが消えていった。
「……チッ、そんな話、信じたくなかったけどよ…。」
アルスが剣を肩に担ぎ、ゾンビたちの群れを睨み返す。
「ここまで来ちまったら、もう後戻りなんかできねえな。」
「こうなったらやるしかない……。」
リタが低く呟きながら、短剣を逆手に構える。
その視線は氷のように冷えきり、それでも僅かな悲しみを含んでいた。
「でも、もう“人”じゃない。だったら倒すしかないじゃん!」
「……敵は、目の前だ。」
キーファが槍を突き立てながら言う。
「護るべき人も、後にいる。」
「灰狼は……迷わない!」
血の気の引いた唇に、わずかな笑みを浮かべながら剣を握る。
そして最後に、リタが叫ぶ。
「行くぞ、みんなッ!」
五つの狼達が前へ踏み出す。
その背に、恐れも後悔も、もはやなかった。
鋼の刃が光を返し、風が吹き抜ける。
変わり果てた元街人たちの群れへ、灰狼たちは今、覚悟を込めて、飛び込んでいった。
アルスが先頭のゾンビの首元に斬りかかる。
肉の裂ける感触と共に、黒い血が吹き出した。
だが相手は止まらずに襲いかかってきた。
「血が黒い…!しかも効いて……るのか、これ……!?」
アルスが舌打ちする。
その背後、シエラが舞うように回転し、風を巻き上げる動作とともに、空間の穢れを祓う術式が発動される。
「消えて!」
瞬間、彼女の身体を中心に、黒い霧が裂け、ゾンビたちの動きが一瞬だけ鈍った。
「今よ、リタ!」
「任せなッ!」
リタが駆け抜けるように前へ出る。二振りの短剣を交差させ、三体の敵を一気に切り伏せた。
だが――。
「ッ!?」リタの目が、一瞬大きく見開かれる。
身体が、軽い。
心臓の鼓動が激しく早くなっているのに、いつもの何倍も力が湧いてくるようだ。
むしろ、研ぎ澄まされていく感覚。
「なんだ……これ……?」
その異常は、他の灰狼の仲間にも波及していた。
「俺も……まるで無限に力が湧いてくるみたいだ……なんで……?」
「動きが速い……視界も……妙に、冴えてる……。」
リタが刃を見下ろし、思わず呟いた。
「まさか……私達も吸った黒い霧。あれが…?」
戦いの合間、シエラが仲間のその様子にある仮説が浮かぶ。
その目は、冷静でありながら、どこか痛みを宿していた。
「私はあの時、確かに“穢れ”は払った。
けど内側に染み込んだ“闇”までは、排除しきれてなかったのかもしれない。
もしかすると精神侵食は防げたけど、力と生命力は闇の魔導科学で強化されている状態なのかもしれない!」
沈黙が一瞬だけ広がった。
先に口を開いたのは、アルスだった。
「……はっ、俺達は心が壊れてないゾンビってことか?」
リタがにやりと笑う。「心が壊れてないのは幸いだね。でも、もしかしたらいつか壊れるかもしれない。」
ミーナも察したように笑ってみせる。
「やるだけやって、生き延びれば、あとはなるようにしかならないよ!」
「……元より俺達は常に死を覚悟して戦ってきたからな。それが灰狼だ!」
アルスが苦笑し、再び剣を構えた。
リタたちは闇の力の影響を知らずとも、自分の意思で戦いに立ち返った。
決して、自分のためではなく――守るべき者たちのために。
「来いよ、ゾンビども……私達たちは“あんたら”とは違うってこと、教えてやるよッ!」
灰狼の五人が再び戦列に戻り、シエラの術の中で、舞台は戦場と化した山道で燃え上がる。
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レオンが退出したあとの会議室には、沈黙と悪意が漂っていた。
アルザフル領事館、王族と政府高官のみが揃うこの場は、かつてないほどの満足感と高揚に包まれていた。
「……それにしても、あの兵器は最高だな。」
ひとりの高官が薄笑いを浮かべ、グラスを傾ける。
「まるで神の力だ。愚かな民を思い通りに操り、ゾンビ兵として再利用できるとは……都合が良すぎて、怖いくらいだよ。」
「正直、私は信じていませんでしたがね。」
隣に座る別の高官が、苦笑を浮かべながら答える。
「古の“闇魔道”など、ただの伝承かと思っていた。まさか……実在したとは。」
「ええ、存在しましたとも」
冷静な声が、ふたりの言葉を切った。
声の主は――カシアン。アルザフル政府の使者にして、裏の粛清と交渉を担う策謀の使徒。
「今の魔導科学技術があってこそ、古の禁術もこうして再現できるのです。
集めた古文書の解析も、無駄ではなかったというわけですな。」
誰もが頷く中、会議室の奥で椅子にふんぞり返っていた男が、愉快そうに笑い声を上げた。
アルザフルの次期国王にして、王子である。
濁った瞳と狂気を含む口元が、不気味な笑みを刻んでいる。
「この黒い霧を使えば。
逆らう奴らはゾンビにして、好きなように使ってやればいい。
で、従順に媚びへつらう者には“平和”を見せてやる。
どの国の民も、“アルザフルは素晴らしい国だ”って信じるように。俺ら、王族も政府も、正義の守護者になれるわけさ!」
「民を“正しき幻想”に閉じ込め、反抗する者は“人間”のままではいられない……。」
カシアンが目を細め、うっとりと呟くように言う。
「まさに、“良き国の創造”ですな。」
「……で、それはそれとして。」
と、彼は姿勢を正しながら言葉を変えた。
「灰狼のレオンとの約束通り――“ザフィーラ”を蘇らせます。」
その言葉に、一人の高官がぎょっとした顔を見せた。
「ま、まさか本当に? あの男との約束など、適当な餌で十分だったのでは?」
「いえ。ザフィーラはただの女ではない。」
カシアンの表情は崩れない。むしろ確信に満ちていた。
「優秀な武器製作者にして最高の鍛冶技術と、豊富な戦闘経験、そして何より“反逆者としての象徴性”。
それを我々が“従順な傀儡”として復活させれば――どれだけの力と利益をもたらすか、計り知れませんよ。」
「精神を抑圧し、完全な忠誠を植え付ければ、どんな理性も逆らうことはできません。
彼女の心さえ制御できれば――あとは、我々のものです。」
「フフ……えげつないな、カシアン殿は。」
別の高官が酒を口にしながらにやりと笑う。
「私は、あの青髪の娘が好みだが……ザフィーラの身体も捨て難い。あの強情な女を、この手で……ふふ私専属の相手に……。」
その言葉に、カシアンの笑みだけがわずかに消えた。
「……残念ですが、ザフィーラは国益の道具です。
“あなたの慰み物”にするなど、あまりにも非合理でしょう?」
無言のまま笑いを凍らせる高官を尻目に、カシアンは会議室の窓の外へと目を向ける。
「……ふふ、なにせ、すでに始まっておりますからね。」
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冷たく閉ざされたアルザフル王国の地下研究所。
暗闇の中に浮かぶ、巨大な魔導培養槽。
ぼんやりと緑がかった液体に沈められた女性の姿が、静かに揺れていた。
肌は生気を取り戻しつつあり、髪は紫の波となって液中に漂っている。
その顔は――
かつて灰狼旅団と共にあった鍛冶師、ザフィーラ。
生と死の狭間から、彼女の第二の人生が静かに始まろうとしていた――。
ザフィーラは復活を遂げますが、人にコントロール出来るようなものではありません。
人には超えてはいけない一線というのがあります。