第9話 幸せの行方
真夏の空は青く広がり、セミの声が遠くまで響いていた。香織は校舎の隅で一人座り込んで、汗が額を伝うのも気にせずに俯いていた。教室でのトラブルは避けられないものだった。彼女が嫌なことを嫌だと言わなかったせいで、今日もまたクラスの誰かが不機嫌な態度を取っていた。
「自分さえ我慢すれば、みんなうまくいくはずだ」と香織は繰り返し自分に言い聞かせてきた。でも、それが本当なのかどうか、心の奥では分からなくなっていた。
「香織、大丈夫?」と、クラスメイトの茉莉が声をかけてきた。茉莉はクラスのムードメーカーで、何事もポジティブに捉えるタイプだ。香織はその明るさに救われることもあったが、今日は違った。茉莉の問いかけすら、彼女には重荷に感じた。
「うん、大丈夫」と香織は精一杯の笑顔で答えたが、その声はか細かった。
茉莉はじっと香織を見つめた後、静かに腰を下ろした。
「香織って、いつも周りのことばっかり気にしてるよね。でも、自分のことは?」
その一言に香織の胸が締めつけられた。
「自分のことなんて考える暇ないよ。他の人が困るのを見たくないだけ。」
茉莉は首を横に振った。「それで香織が幸せならいいけど、どう見てもそうじゃないよ。自分を幸せにしてあげられるのって、結局自分しかいないんだよ。」
香織は言葉を失った。自分を幸せにする。それがどういうことなのか、全く考えたことがなかった。
「私もさ、昔はそうだった。周りを優先することで、自分が認められるって思ってた。でも、それで得られるものって何もないんだよね。結局、誰も私が我慢してることに気づかないし、誰もそれを当たり前だと思ってくれるわけでもないの。だから、自分の気持ちをちゃんと大事にしないと。」
茉莉の言葉は香織の心に深く響いた。いつも自分を後回しにしてきた理由が、今はただ虚しく感じられた。もし、自分が自分の幸せを一番に考えたら、どうなるのだろう。
その日、香織は家に帰るとノートを広げて、初めて「自分が幸せになれること」を書き出してみた。小さなことから始めてもいい。「好きな本を読む」「意見をはっきり伝える」「好きなものを好きと言う」。たったそれだけのことが、彼女には新しい挑戦だった。
次の日、香織は少しだけ胸を張って学校に向かった。自分の幸せを第一に考える。それはわがままではなく、自分自身への責任。香織はその一歩を踏み出す決意をした。空は昨日よりも青く、セミの声は少し遠く聞こえた。
(完)
自分を幸せにしてあげられるのは、自分しかいない。